「家で窓を開けて掃除をしているとき、外から“手から血が出ている!”と叫び声が聞こえたんです。慌てて外に出てみると、石橋さんの奥さんが手首から血を流してしゃがんでいるのが見えました。自転車に乗った女性が、119番通報をしてくれました。
私は止血するために、1度家にさらしを取りに戻り、また出てくると、今度はご主人が家から出てきました。お腹のあたりが血で真っ赤だったんですが、最初は奥さんの返り血を浴びたものと思っていたんです」
「死なないで!」と叫ぶ妻
近所に住む男性が振り返る修羅場の救出劇。別の60代の男性住民も異変に気づいて駆けつけたときには、
「奥さんが道路のわきに座っていて、手がブラブラな状態でした。ご主人は地面に、大の字で寝ていました」
傷口の腹部をさらしで縛る際、「ご主人は歯を食いしばっていました」と冒頭の男性が再び続ける。
「意識はありました。“柳刃包丁……”とかすかに言っていました。救急隊員の呼びかけにも、名前をはっきり答えていたんですが……。ご主人がガクッと意識を失ったとき、奥さんが“死なないで!”って叫んだんです。あの悲痛な声が……忘れられません。娘さんに刺されたと話すことはありませんでした」(前出・救助に当たった男性)
神奈川県茅ヶ崎市東海岸北。JR茅ケ崎駅から徒歩で6分ほどの閑静な住宅地で凄惨な事件は起きた。
「6月3日午後5時20分ごろ、包丁で父親の胸部を刺して、母親の左腕を切りつけ殺害しようとしたが目的を遂げなかった」と捜査関係者。
現行犯逮捕されたのは、無職・石橋美紀子容疑者(53)。容疑は父親の石橋善明さん(79)に対する殺人容疑、並びに母親のふくさん(81)に対する殺人未遂容疑だ。善明さんは搬送先の病院で翌4日午前0時7分、息を引き取った。
今のところ明らかになっている事件のきっかけは、実に些細なことである。
「美紀子容疑者は当日酒を飲んでおり、雨戸の開閉をめぐって母親と口論になった。母親を脅して謝罪させようと包丁を持ち出したところ、母親が包丁を奪おうとしたため腕を切ってしまったと供述しています」(前出・捜査関係者)
取り調べには素直に応じているものの、殺意を否認し、両親への謝罪の言葉もないという。
事件当日、激しい親子ゲンカを聞いた50代男性がいる。
「石橋さん宅から“勝手にカギを替えたな!”って叫ぶ女の声が聞こえました。次に“謝れ!”。おそらく刃物を持ち出したんでしょう、母親らしき女性が“刃物なんて持って危ない!”って。ほかにも“土下座しろ!”とか“私は孤独死でいいんだ。死んでもいいんだ!”という声が聞こえました」
ふくさんが切りつけられたのは、その直後だとみられる。
次女の同居は知らなかった
石橋さん一家がこの地に住み始めたのは約40年前。30坪強の宅地に木造2階建ての一軒家を新築した。
「ご主人は穏やかで物静かな人。奥さんは小柄で細く、ご主人より年上とは思えないほど見た目が若々しかった。静かでアットホームな家。何かを言い争う声など聞いたことがなかったです。
娘さんが2人いて、長女は活発で朗らか。(逮捕された)次女は物静かでおとなしい子。でも、高校生のころに見かけたのが最後で、2人とも、とっくに家を出て自立しているものと思っていました」
と30年以上の付き合いがある60代の女性。
善明さんと親交があった70代の男性は、
「娘とはあまり仲がよくないと聞いたことがあるが、夫婦は一緒に買い物に行ったりして仲はとてもよかった」
と振り返る。
救助に当たった前出の男性が連行時の様子を見ていた。
「白っぽいTシャツにジーパン。ふっくらした女性でした。初めて見る人で、そのときは誰なのかわかりませんでした」
一家は長女を除く3人暮らしだったとみられる。しかし、次女が同居していたことを知らない周辺住民は多く、90代の古参住民も、
「奥さんは腰が悪い私をねぎらってくれたり、世間話はしましたが、娘さんの話は聞いたことがありませんでした」
近隣の住民でさえ、
「2人暮らしだと思っていた」
と口をそろえた。
休日はおろか、お盆や正月を含めても、住民が姿を見かけるのは老夫婦だけ。美紀子容疑者は仕事も結婚もせず、社会との接点を絶ってほとんど外出しない生活を送っていたようだ。
善明さんと親交のあった前出の男性によると、同容疑者は近くにアパートを借り、月に数回、実家に戻る生活をしていた時期もあったという。親子そろって存在を隠していたようにも思える。
しかし最近、気になる変化があったという。
業者に頼んだ奇妙な注文
前出の友人男性は、
「石橋さん夫婦は昨年、家の瓦や雨戸を数百万円かけて新しくしたんです。娘のためにリフォームしたんだと思います」
そう話す男性の後をついていくと、事件現場から約30メートル離れた駐車場にまだ新しい石橋さんの愛車が止まっていた。
「ナンバープレート、わかります? 1484、イシバシなんです」
夫婦は“終活”に入ってもおかしくない年齢。家も新車も容疑者のために残したものだったのだろう。
善明さんが足しげく通っていた場所がある。自宅から車で約15分のところにある市民農園だ。そこで顔を合わせていたという70代の男性は、
「石橋さんはここで12年くらいやっているんじゃないかな。畑の近くにはペットの墓地があって、“愛犬のお墓参りの帰りに野菜を取りに寄った”なんてことを話していました。ときどき奥さんも収穫を手伝っておられた」
ところが、善明さんは、
「野菜が嫌いだから、育てても近くの人にあげるだけ。先日(6月2日)も大根をもらったばかりです。大根からトマト、キュウリ、何でも作っていたよ」(前出・友人男性)
野菜作りのほかにも、自宅の庭の手入れに余念がなかったという。真っ赤なカンナの花を見事に咲かせていた。
自宅リフォーム工事が始まる前、善明さんはペンキ塗りの業者に妙な注文をつけた。
「静かに塗ってくれ」
そもそも、さほど大きな音を立てることはないが、職人は約束を守って作業したという。容疑者は長い幽居生活で音に敏感になっていたのか。とすれば、雨戸の開閉音も気になったのかもしれない。
善明さんが守ってきた石橋家という家族は、野菜や植木を育てるようにはうまくいかなかった。
市民農園の石橋さん区画には、収穫間近のキュウリ、赤くなる前のトマト、丸々とした大根が、誰にも収穫されることなく残されたままだ。