「私が女優になることができたのは、母がいたからだわね」
7月15日、虚血性心不全で急逝した生田悦子さん。美しく、そして強く生きた名女優が静かにこの世を去った―。
彼女は高校生だった'63年に『準ミス平凡』に選ばれ、モデルとして芸能界入り。
'66年に松竹に入社すると、その年に映画『命果てる日まで』で女優デビューを果たす。
毎週土曜は夫婦で外食
「映画のほか、'78年にはドラマ『白い巨塔』で、主人公の田宮二郎さんの妻役を熱演。また、'81年からは『欽ドン! 良い子悪い子普通の子』(ともにフジテレビ系)に出演しました。当時は映画女優がバラエティー番組に出るのはかなり珍しく、話題になりましたね」(スポーツ紙記者)
'05年には、58歳になる2日前にアパレル会社社長のA氏と結婚。翌年には更年期うつを患っていたことを公表し、彼の支えが大きかったと明かしている。
「松竹で僕が宣伝担当のときからの付き合いなので、かれこれ45年来の友人でした。あるとき、やたら彼女から“最近、テレビでの衣装がおしゃれですね”なんて電話がかかってきた。当時、僕の衣装は知り合いであるAさんの会社から提供されていたんです。
ただ、生田さんがAさんと交際しているなんてまったく知らなかった。そうしたら、“Aさんからプロポーズされました”って。そこで初めて、そんな電話をしてきた意味がわかったんです。性格がさっぱりして正直な人だったけど、そんな可愛らしい一面もありましたね」(松竹OBで、芸能レポーターの石川敏男氏)
亡くなる前日も、毎週土曜日に夫婦で通っていた割烹料理店『白金・金舌』で食事をしていた。総料理長の磐井太朗氏も悲しみを隠さない。
「2年前からほぼ毎週のように通ってくださり、夫婦ゲンカ中も来店してくださいました。でも、“今日、この人と話さないから”って生田さんがおっしゃって、僕を通訳みたいにして話すんですよ。
“隣の人にちょっと多いからこれ食べてって伝えて”“ちょっと飲みすぎじゃないって隣の人に言って”とか。でも、帰るときにお見送りをすると、赤信号の横断歩道をふたり並んで待ってらっしゃる。そんな姿を見ると、仲のよさが伝わってきましたね」
本来なら来店するはずだった7月21日、いつも生田さんが座っていた席には大好きだったコーラが置かれていた─。
多くの人に愛された生田さんだが、子どものころは愛情に飢えていた。そのことを生前、週刊女性だけに語っていた。
生田さんの父は福岡で開業する歯科医。母は郷土芸能である『博多にわか』の大御所・生田徳兵衛の娘として裕福な家庭で育てられた。
捨てられた私を抱きしめた裁判官
「母は3姉妹の末っ子だけど、上の2人が幼いときに続けて亡くなってしまった。だから、彼女はおじいちゃんに溺愛されて育ったの。
例えば季節はずれに“さくらんぼが食べたい”って言ったら、おじいちゃんは何としてもそれを見つけて買ってくるのよ。母は“今これが欲しい”と言ったら、絶対に手に入れないとダメな人に育ったのね」(生田さん、以下同)
そんな彼女が西南大の学生だった18歳のときに、生田さんを身ごもり結婚。だが、幸せな時間は長く続かない。
「うちの父はめちゃくちゃ大酒飲みで、しょっちゅう夫婦ゲンカをしていた。それで母は夜にタクシーを呼んで、私を連れて逃げるわけ。だけど私だけ途中の公園に置いていかれるわけよ。“忘れ物したから取りに戻る”って。3歳か4歳よ。
当時なんて街灯もないから真っ暗な中で、待てど暮らせど戻ってこない。そうすると遠くから“悦子!”って、おじいちゃん、おばあちゃん、お父さんの声がするのよ。“ここです!”って必死で叫んだわ」
母は博多駅から汽車に乗り、家出状態に。そんなことが何十回もあったという。
また、睡眠薬を使った自殺未遂も起こしている。
「4歳くらいから何回も何回も。それで、病院でホースみたいなのを口に突っ込んで胃洗浄をしてもらう。“先生、お母さんを助けてください。助けてください!”って」
結局、両親は生田さんが9歳のころに離婚。今でもあるシーンを鮮明に思い出す。
「重厚な建物の中で、私がひとり長イスに座っているの。そうしたら、黒いスーツを着た知的な女性がコツコツと歩いてきて、私の前に跪いてこう話すのよ。
“悦子さん、こんなに可愛いのに、なんでお父さんもお母さんもいらないって言うんだろう”って抱きしめてくれた。彼女は裁判官だけど、それだけはずっと忘れられない。ふたりとも生活難じゃないのよ。だけど、私のことはいらないって……」
両親から引き取りを拒否された生田さんは、母方の祖父母のもとへ。だが、それは孫への愛情ではなかった。
「おじいちゃんは母のことが大好きだから、育てているだけ。だから、ひざの上で抱かれたことは1度だってないの。愛されていないのがわかるから、“一緒にお母さんと住みたい”って思いしかない。
でも、おじいちゃんにもおばあちゃんにも、そんなことはひと言も言ったことはない。ふたりの前で泣き言を言ったら、次はどこに行かされるのよ? 誰が私を拾ってくれるの? 公園で捨てられ、裁判所で捨てられ、そういう恐怖心をずっと持っているのよ」
母に騙され、売られ、足を引っ張られた
離婚後は小倉で暮らしていた母が、生田さんが中学生のころ博多に戻ってきた。中洲でクラブを始めたため、週末だけ彼女のアパートに泊まることが許された。
「高校1年生の16歳のときに母のところにいたら“青山学院に入れてあげるから、今から東京に行きなさい”と、いきなり夜汽車に乗せられた。お金も何もくれないのよ。
母は彼氏と見送りに来たけど、汽車が走り出す前に踵を返して男と手をつないで行っちゃったからね。あまりに急だったから、ボストンバッグに着替え1組だけ。おじいちゃんに会う暇もなかったわよ」
東京駅に着くと見ず知らずの男女が待っていた。彼らは銀座のクラブ経営者で、彼女をそこで働かせようとした。
「つまり母に騙され、売られたわけ。ただ、1枚だけ名刺を持ってた。中学生のときにモデルコンテストに出て、“もし東京に出ることがあったら連絡して”ってテレビ局のプロデューサーから渡されたの。それで電話したら覚えていて、“すぐに来なさい”と言われて助けてもらったのよ」
その縁でモデル事務所に所属。2年後には松竹に入社し、女優としてブレイクを果たす。
だが、22歳のときにスキャンダルが彼女を襲う。
「母が妻子ある男性と心中未遂を起こしたの。連日ワイドショーや週刊誌で大騒ぎ。私が何かしたわけじゃないのに、決まっていた映画やCM、レコードなど、仕事はすべてキャンセル。1年間は復帰できなかった。人気絶頂のときに母に足を引っ張られたの」
今風に言えば“毒母”に振り回された生田さん。それでも見捨てることはできなかったという。
「モデルで稼げるようになった18歳から、母が亡くなる48歳まで、毎月仕送りを続けたわ。時には100万円単位で要求されたことも。それでも断れなかった。母を憎めたら、どんなに楽だったか……。
でも、それができないのよ。もし、私が亡くなったときは、福岡にある母の眠るお墓に一緒に入りたい。それは夫にも約束してもらってるわ」
そう語る生田さんの目は、とても温かく、そして美しかった。今ごろ天国で、大好きだった母とどんな話をしているのだろうか……。