失業率49%、移動の自由も許されない「天井のない監獄」で、明日がみえない暮らしの続く中東・パレスチナ自治区ガザ。人々による命がけの抗議デモが続き、多数の死傷者を出している。2003年から支援活動を行っている『日本国際ボランティアセンター』(JVC)パレスチナ事業担当の並木麻衣さんがレポートする。
ラザーンさんの血まみれのベスト

「慈悲の天使」が銃殺される異常な現実

「これが彼女の“武器”だったの」

 そういってサブリーン・ナッジャールさん(43)がメディア陣の前に掲げたのは、血まみれのベストとIDカードだ。ひと目で医療従事者とわかるベストは、娘のラザーンさんが着ていたものだった。

 今年6月1日、白いベストに身を包み、まっすぐに負傷者の救助へ向かったラザーンさんは、イスラエル兵の放った銃弾に胸部を撃ち抜かれて亡くなった。1996年生まれの21歳。数週間後には婚約を発表する予定だった。

 自宅からたった数百メートル離れた場所で最愛の娘を失ったサブリーンさんは、ベストを握りしめ、ガーディアン紙の記者にこう話した。

「彼女は兵士と話せそうなほど近くにいたのよ。娘がテロリストに見えたって言うの?」

ラザーンさん

 国連のレポートでも触れられ、「医療スタッフは標的ではない」キャンペーンが全世界で巻き起こるきっかけとなったこの事件が起こるまで、ラザーンさんはパレスチナ・ガザ地区に暮らすひとりの女性だった。

 18歳で高校を卒業した後、貧困のため大学に行くことはできなかった彼女は、看護学の講座や救急救命のトレーニングをあちこちで受講し、その努力と熱意の結果、パレスチナで30年以上の歴史をもつ医療系NGO「パレスチナ医療救援協会(PMRS)」のボランティア救護員に登録されている。

 今年3月30日からは、ガザの人々がイスラエルとの境界で集まって行う、毎週末の抗議デモに同団体の救護員として駆けつけ、「慈悲の天使」と呼ばれて人々に慕われていた。そんな彼女が撃たれたのは、救護活動の最中だった。

 この抗議デモは本来、非暴力のものであり、参加者は丸腰のパレスチナ市民たちだ。それなのに、デモの参加者たちは、ラザーンさんを含む救護員やジャーナリスト、子どもを含め、実弾を含む攻撃によって殺されている。

 なぜ武器を持たない人々が殺される事態になっているのだろうか。

 イスラエル軍が放つ銃弾の標的となる抗議運動は、一体、何に異を唱えるものだったのだろうか。それを理解するには、サブリーンさん・ラザーンさん母娘が暮らすパレスチナ・ガザ地区の異常な日常について触れなければならない。

 母娘が家族とともに暮らしていたのは、ガザ地区南部に位置するのどかな農村・フザーアだ。10km×40kmの長細い地形、面積にして東京23区の3分の2ほどしかないガザは、ユーラシア大陸とアフリカ大陸がつながる地点に位置し、古来はさまざまな地域からやってきた商人の行き交う商業都市として栄えていた。

 文化も花開き、今でも地中海から歴史的な価値をもつ彫像が引き上げられることもある。

 しかし現在のガザは「天井のない監獄」と呼ばれ、絶望に覆われた陸の孤島だ。

パレスチナ人が越えられない分離壁

失業率49%の「天井のない監獄」の暮らし

 札幌市の人口よりも多い200万人もの人口を抱えているガザは、2007年から11年間、人やモノの出入りをイスラエル政府により極度に制限される「封鎖」状態に置かれている。

 美しい地中海は11kmほどしか沖に出ることができず、陸の境界線は高さ8mの巨大な壁やフェンスでぐるりと囲まれてしまった。空は常にイスラエルの偵察機が飛んでおり、唯一あった空港は過去の戦争でがれきと化している。

 イスラエル政府は、ガザの実質政府の役割を果たすイスラーム組織『ハマース』や武装勢力を警戒して「安全のために」封鎖を行っていると説明している。

 

 しかし、ハマースの統治を理由に、直接の責任があるわけではない無辜(むこ)の全住民をも巻き込んで苦しめる封鎖は「集団懲罰」とされ、国際法に違反している。そして国際社会から非難を受けるこの封鎖政策が、数々の人道危機を引き起こしているのが現状だ。

 イスラエル当局の許可がなければ輸出入もできない状況では経済を成り立たせることができず、国連によれば今年のガザの失業率は49%と世界最悪の数値にまで上昇してしまった。封鎖前は12万人の雇用を誇っていたはずの製造業は、現在7000人しか雇えないとされる。

 かつてガザの生花やイチゴは地中海を越えてヨーロッパにも輸出される名産品だったが、今では売ることはおろか、外に持ち出すことすら容易ではない。

 収入を得られない住民たちの8割は、何らかの支援を受け取らなければ暮らしていけないとも言われ、国連やNGOによる支援が人々の生命線となっている。

 そしてイスラエル政府による封鎖政策に加えて、この10年間に3回も起こっている戦争がガザ地区をズタズタに引き裂き、人々から大切なものを奪い尽くしている。

戦争後がれきの中で遊ぶ子どもたち

 家族や親戚、友人の命。昨日まで当たり前のように自分の一部だった手足。コツコツと働きやっと建てた自慢の家、家族ぐるみで付き合う近所の人々。

 ガザにひとつしかない発電所、人々が子どもを連れて訪ねていたクリニック、農民が必死で耕してきた畑、国連が運営する学校ですら、イスラエル政府によるミサイル攻撃の的になった。

電気は1日3〜4時間だけ

 最後に起こった2014年の戦争では51日もの間、毎日、1日平均100発のミサイルがガザに落とされていた。

 ラザーンさんが暮らしていたフザーア村も、イスラエルとの境界に近かったために軍事侵攻を受け、がれきの山となった。復興資金は半分も集まらず、今でもガザ地区は戦争の痛手から癒えきっていない。

「'14年の戦争のときは、当時8歳の長男が5キロもやせたの。砲弾の音が聞こえる毎日で、攻撃があったらすぐ逃げられるように、いつも1階で寝ていたわ。

 息子は“ガザから出たい”って涙ながらに何度も口にしていたけれど、叶(かな)えてあげられなかった。ガザを出る許可を、イスラエル政府から取ることができなくて」

 そう筆者に語ったのは、36歳のハイファさんだ。保健師として働きながら4人の子どもを育てるワーキングマザーの彼女は、ガザの暮らしについてこう語る。

2014年の戦争から半年、瓦礫の中に干される洗濯物

「電気は1日3~4時間だけ、それもいつ来るかわからないの。だから“電気が来た!”とわかった瞬間、深夜でも早朝でも洗濯機を回しているわ。そんな状況に振り回されてしまうから、最近は“私の暮らしに電気は必要ないんだ”って毎日、自分に言い聞かせているの」

 ガザに暮らす10歳の子どもはすでに、ミサイルの音が昼夜を問わず響き渡る戦争を3回も経験し、家族や親戚、友人を失っている。物資も資金も不足しているガザは、戦争の復興に15年以上を要するという。そして、イスラエルによる封鎖が終わる見込みはない。

 親たちがどんなにいい未来を願い、心を痛めたとしても、子どもたちはこの喪失やトラウマを胸に、希望を持てないガザの中を生き抜いていくしかないのだ。

〈後編に続く〉


執筆/特定非営利活動法人『日本国際ボランティアセンター』(JVC) パレスチナ事業担当・並木麻衣

JVCはガザの危機的な状況に対し、医療現場を支えるための人道支援を開始しました。「人間らしく生きたい」と願う人々への支援に、ご協力をお願いします。詳しくはこちら『日本国際ボランティアセンター』(https://lp2.ngo-jvc.net/)をご覧ください