人それぞれにドラマがある、という。しかし、戦争体験者のそれは、軽々しくドラマとは呼べないほどつらく悲しい記憶に縁どられている。あの日、何があったのか――。
16歳で女子通信隊に入隊
「女子通信隊は米軍機が襲来した際、敵機の数や方角など各地の監視哨(しょう)などから届く情報を専用の機械に入力し、軍に報告するのが任務でした」
その情報をもとに空襲警報を発令したり敵機迎撃の指令を出すなど、防衛の要(かなめ)だった。
旧日本陸軍の女性だけで編成された唯一の部隊、女子通信隊。神奈川県川崎市の外間(そとま)加津子さん(90)は東部1950部隊に所属。入隊したのは16歳のときだった。
「東京都港区の順心高等女学校(現在の広尾学園中学・高等学校)に通っていた4年生に上がる春(1943年)、担任の先生から“もう授業はできません”と告げられました」
女学生たちは労働力として軍需工場などに動員されることになり卒業式もないまま学校は解散。そんなとき女子通信隊員募集の案内を見つけた。
「生け花や茶道も習えるって書いてあって“これはいいなぁ”って思ったんです」
それにイギリス軍式の制服をまとった女性隊員のりりしい姿にも憧れた。
試験に合格すると元軍人だった父親は大喜びした。給料はもちろん、隊員に配られた物資や食料などはすべて家族に渡し、家計を助けた。
「6時間任務と待機を繰り返し、24時間勤務して1日休み。隊は女性ばかりですし、わざわざ用事を作って顔を出す別の隊の男性もいました」
と笑う。同僚の中にはこっそりほかの隊の男性と文通したり、交際する人もいた。
戦局が悪化すると待機時間は短くなり、休日でも空襲警報が鳴ればすぐさま本部へ駆けつけなければいけなかった。
「任務中は水を飲むことも、トイレに行くこともできません。B29が大編隊で来ると情報が錯綜(さくそう)して作戦室はもうパニック。監視哨が敵機を数えられないんですよ。“敵機多数”と上官に伝えると“そんなに来るわけがない!”なんて怒鳴られたことも」
身体を壊したり、疎開するために隊を離れた同僚もいた。
玉音放送を聞きながら、仲間と抱き合って号泣した
玉音放送は皇居近くの本部で聞いた。隊は皇居前の広場に移動、外間さんはそこで仲間と抱き合って号泣した。周囲は泣き崩れる兵隊や市民でごった返していたという。
「隊長から“敵が上陸してくるから髪を切り、男の格好をして避難しろ”と言われました。家は空襲で全焼し、家族は山梨に疎開していたので私もそこに向かいました」
外間さんの戦争は終わった。
「私は任務に誇りを持っていました。兵隊は敵を殺しますが、私たちはみんなを守る、命を救うのが任務です。少しでもお役に立てたかな」
戦中・戦後、今の高校生と変わらない年ごろだったが、生きることに必死だった。
「青春なんてありませんでしたよ。おしゃれや恋愛どころではありませんでした」
それでも女学校1~2年のころはまだ平和だったという。
「友達と映画に行ったり、人気の俳優さんの話をしたり。私は運動が得意だったので運動部の助っ人もしていました」
淡い思い出もあった。
「女学校近くで訓練をしていた陸軍の軍人さんたちと親しくしたことがあります。手紙のやりとりも何度かしましたが、いつの間にか途絶えてしまった。あの方たちもどうなったかはわかりません」
背中を押した先輩の言葉
戦後は小中学校の体育教師として働きながら子育てし、今も現役でフラダンスやフォークダンスなどを教えている。
毎年5月、部隊は慰霊祭を行っているが参加する元隊員は外間さんただ1人に。慰霊祭の継続や女子通信隊の戦争体験の継承が課題だという。
外間さんが戦争体験を語りだしたのは2年ほど前から。背中を押したのは同じ隊の先輩、故・山口竹尾さんが年賀状に添えた“最後の一兵がんばれ”という言葉だ。
「慰霊を続け、みんなのことを伝えていきたい。機会があればほかの地域の元女子通信隊員とも話したいですね」
戦友たちの思いを胸に外間さんの活動は続く。