人それぞれにドラマがある、という。しかし、戦争体験者のそれは、軽々しくドラマとは呼べないほどつらく悲しい記憶に縁どられている。あの日、何があったのか――。
「どうせ死ぬなら早いほうがいい」と特攻に志願
太平洋戦争末期、戦局を打破するため、旧日本軍は搭乗員もろとも敵艦に体当たりする「特攻」作戦を行った。
「生きる運命はなかった。ただ死ぬ運命に従うだけだった」
東京都武蔵野市の岩井忠正さん(98)はつぶやく。
岩井さんは人間魚雷「回天」と人間機雷「伏龍」2つの特攻兵器の隊員として任務にあたり生還したというたぐいまれな経歴を持つ。
満州国(現・中国北部)の大連で少年時代を過ごし、大学進学を機に単身帰国。浪人時代の1年が岩井さんの思想に多大な影響を与えた。
「チャップリンが好きで、映画館で洋画をよく見ていました。そこで外国人の考え方に慣れました。忠君愛国を重んじる日本人よりこっちのほうが性に合っていましたね」
戦争や国の政策に疑問を抱き反体制思想を持っていたが、ひた隠しにして生きた。
「当時、戦争に必要な鉄や石油はアメリカから輸入していたのにアメリカと戦争をやって勝てるわけがない。ところが国は“日本には大和魂がある。だから勝つ”と。そんなの嘘だと思っていました」
慶應大学で哲学を学んでいた’43年、学徒出陣で海軍に召集され、将校となる教育を受けた。軍人精神を叩き込まれ、暴力、階級差別がはびこる生活に辟易していた。
一刻も早くそんな生活から離れたいと思っている中、“一発必中の新兵器の搭乗員を募集している”と噂を聞いた。特攻とは知らされていなかったが生きては帰れない作戦だと理解していた。
「どうせ死ぬなら早いほうがいい」と、志願。山口県光市の海軍光基地に配属された。
出撃すれば脱出は不可能、訓練も命がけ
そこで待っていたのは人間魚雷「回天」だった。
回天とは魚雷を改造した1人乗りの潜水艦で搭乗員もろとも敵の艦船に体当たりする特攻兵器。出撃すれば脱出は不可能、訓練も命がけだった。
回天を前に隊長は「これが貴様らの棺桶だ」と言った。
「私たちは機械の一部だった」
さまざまな葛藤を抱えていた岩井さんが、ただ1度、学徒の少尉たちが集まる食堂で「大和魂で戦争に勝てるわけがない」とこぼしたことがあった。すると戦友の1人が「そんな話をするな」と一蹴、不穏な空気に包まれた。
まずいな、と思ったというが、後日2人きりになったときに「実は俺も思っていた」と告げられた。
「私と同じ考えの人は少なくなかったと思います。ただそれは誰にも言えなかった」
訓練を続けていた’45年1月ごろ結核と診断され、療養のため回天隊からはずされた。回復後、配属されたのは人間機雷「伏龍」部隊だった。
伏龍とは潜水服を着て機雷のついた棒を持ち、海岸線近くの海に潜る。敵の上陸用舟艇がやってきたら下から機雷のついた棒を突き上げ、船もろとも爆死するというものだ。
「海中ではまっすぐ立っていられないし、視界も悪く上を通る艦だって見えない。こんなのダメだな、とみんな内心は思っていてもまじめに訓練をしていました」
伏龍は訓練中の事故が相次ぎ、岩井さんは2度も生死の境をさまよった。そして、出撃することなく終戦を迎えた。
「死ぬはずだったのに生きながらえたことは不思議な感覚だった」と明かす。助かったとも、悔しいとも、うれしいとも何もなく、終戦の日の記憶はほとんど残っていない。
戦死した回天の搭乗員は事故死を含めて100人以上、戦死者の平均年齢は21歳。伏龍は実戦こそなかったが多くの隊員が訓練中に事故死した。
岩井さんは声を荒らげる。
「死を宣告されていた私たちでさえ、世の中の雰囲気にセーブされ戦争に反対はできなかった。今は何でも話せる時代。世の中を冷静に見て、言わなきゃいけないことはちゃんと言わなきゃいけない」
悲劇を繰り返さないため、岩井さんは言葉を止めない。