人それぞれにドラマがある、という。しかし、戦争体験者のそれは、軽々しくドラマとは呼べないほどつらく悲しい記憶に縁どられている。あの日、何があったのか――。
東京の空にB29爆撃機が襲来
美容界のパイオニア・山野愛子の薫陶を受けた美容家であり、お笑い芸人・品川祐の母としても知られるマダム路子。今年で78歳の彼女には、華やいだ雰囲気からは想像しがたい戦争の記憶がある。
「考えられなかったのよね。まさか富山まで空襲は来ないだろうと思っていた」
そう話し、73年前の夏を振り返る。生まれは東京・日本橋。太平洋戦争が始まる前年に産声を上げた。
「3歳ぐらいまではね、けっこう楽しく暮らしていたんですよ。父の勤め先の社宅が住まいだったんですが、銀座に近くて、映画を見に連れて行ってもらったり、明治座や歌舞伎座だとかで普通の芝居もやっていたりしたんですよね」
だが、戦争の影は日ごとに色濃さを増していく。悪化する戦局をなぞるように「映画も芝居もやらなくなった。どんどん統制されて、食べ物もなくなって、いつもおなかがすいている状態」になるまで時間はかからなかった。
やがて東京の空にB29爆撃機が頻繁に現れ、空襲警報が繰り返されるように。ボンバン! ボンバン! 一定間隔でリズムを刻むように落とされる焼夷弾。灯火管制が敷かれ夜になっても暗い街は、爆撃を受けた周囲だけ、真っ昼間のように明るく照らされた。
「昨日まで友達と遊んでいた家が、あくる日、もうないんですよ。横の家がなくなって、前の家がなくなって……」
戦火を逃れるため、両親は疎開を決意。父と長男だけ東京に残り、5歳だったマダム路子は母に連れられて、3つ上の兄、それから3つ下の弟と一緒に父母の故郷・富山市へ向かった。東京大空襲に見舞われる8か月前のことだ。
富山では疎開してきた人たちを集めて、竹やりを使った軍事教練、バケツリレーの鎮火訓練などが行われていた。
「竹やりを持って、“1人1殺” “一億玉砕”なんてやっているのよ。防火水槽から水を汲んで、バケツリレーで消す訓練もしたりして。何をやっているんだろう、このおじさんたちは、って。私は東京で空襲を体験していたからバカバカしく思えて、むなしさを感じていましたね」
富山に焼夷弾の雨が降り注いだ
1945年8月2日未明。空襲警報が解除され人々が寝静まったころ、富山市の空一面が真っ赤に染まり、焼夷弾の雨が降り注いだ。寝間着のまま裸足で外へ飛び出したが、母は子どもたちを乳母車に乗せると、逃げまどう周囲の人々とは反対方向へ、ひたすら逃げた。
「向こうから布団をかぶって逃げてくる人が、流れ弾が当たったのか、目の前で田んぼのほうへ飛ばされるんです。周りで人がバタバタと倒れていきました」
乳母車を捨て、這いつくばって炎を避け、焼け落ちた電線をよけてさらに逃げる。地面は焼けるように熱く、ドブの水で冷やそうとしたら、そこも熱湯だった。
そうして逃げ延びた母子の前に、白い割烹着姿のおばさんたちが現れた。
「あんね、ちゃちゃかと来られ(娘さん、早くいらっしゃい)」
そう言って差し出された銀シャリのおにぎり、おばさんたちの言葉が忘れられない。この日、50万発の焼夷弾が落とされた富山大空襲によって約3000人が犠牲になった。
終戦を迎えても苦しみは終わらなかった。寝たきりになった母の看病、飢えと食糧難、転居先でのいじめ。癒えない傷、孤独を抱える人々も目の当たりにしてきた。
「戦争って、その最中だけが悲惨なわけじゃない。戦後には戦後の生き地獄がある。それでも世界中で戦火が絶えたことはありません。戦争を起こさないための知恵が必要です。若い人たちには戦争がどういうものか理解できなくても知ってほしい。いまの日本の平和は、次世代を守ろうと頑張ってきた人たちがいたからだということを忘れないでほしいと願っています」
Profile◎「国際魅力学会」会長。魅力学を確立、山野愛子ファミリーの山野路子として活動。離婚後はマダム路子に改名、美容家の枠を超え講演や人材開発など多方面で活躍中。