白石一文さん 撮影/北村史成

 ある日、突然かかってきた弁護士からの電話で、驚きの秘密を知る主人公・加能鉄平、52歳。

 長年連れ添ってきた妻が、隠し持っていた資産総額48億円。30年前に伯母から34億円を相続し、途中2億円で投資した株式は16億円にまで膨らんでいた。

 親の入院や子どもたちの進学、リストラなど、お金が必要な窮地はそれまで多々あった。

 だが、莫大な資産は手つかずのままにしてきたのだ。その理由を告白した妻は突然、鉄平に1億円の現金を渡すが……。

 白石一文さんの新刊『一億円のさようなら』(徳間書店)は、そんな途方もない謎かけからスタートする。

 本のタイトルにもなっている「一億円」というモチーフは、いったいどのようにして生まれたのだろう。

「僕は、小説家になる前から、メモを何枚も書きためているんです。電車に乗っているときなんかもひらめいたら、途中下車して駅のホームのベンチですぐにメモする。タイトルだけのものから、登場人物の名前も入った具体的な構想メモまであり、作品のほとんどは、それらをもとに書き上げています。今回は、2006年に書いていた“莫大な遺産を持つ妻が、1銭も使うことなく夫に秘密にし続け、その事実が突然、露見したら夫婦の関係は一体どうなる?”というメモを選びました。10年熟成させて、執筆に2年、完成するまでに12年かかったことになります

 勤務していた化学メーカーの爆発事件に端を発する社内抗争、他県に進学していた長女の妊娠など、日常の歯車が狂いはじめるなか、鉄平は、とある決断をする。

 夫婦とは? 家族とは? 愛とは? 仕事とは? そして、お金とは何なのか?  人生の端境期に直面する50代男性に、容赦なく生きる意味が問いかけられる。

特に人間関係において、さほどの成長はないんです。年を重ねた人でも生き惑う。もはや情熱にまかせる生き方はできないけど、注釈や保留がついたうえで自分はどうしたいのか。同世代を生きる男として、その選択や背景にはリアリティーを持たせました

 白石さんは、これまでの数多くの作品でも、小説を通して、根源的な問いを投げかけてきた。ときには、運命、直感、シンクロニシティーなどスピリチュアルな要素も取り入れながら。

 読者は、主人公の姿を追いかけ、その思考や思索に付き合いながら、いつの間にか自分と対峙(たいじ)させられていることに気づく。

 ただし、今回の作品では、読者に立ち止まって考えることは許されない。明らかになっていく秘密と怒濤(どとう)の展開に、ページをめくる手が止められないのだ。

僕は、もともと面倒くさい小説を書いてきたわけですが、今回の作品では、理屈っぽさやスピリチュアルな表現を封印しています。どんどん読み進められる娯楽小説を書きたかったんです。本来ありえない設定を決して荒唐無稽に見せないために、現実味を最優先しました。今までとは違う筋肉を使って作品を書き上げた感じです」

白石一文さん 撮影/北村史成

博多と金沢を舞台に展開するストーリー

 作品の舞台は、博多と金沢。特に金沢には、風景や街の雰囲気、食べものに魅せられ、何度も足を運んで取材を重ねたそうだ。

「金沢は、東京から行くと唖然(あぜん)とするほど小さい街でした。博多にもある地下鉄が、金沢にはありません。でも、食べものが驚くほどおいしい。東京の人たちが、かわいそうだなって思うぐらい。気づいたら、食べものが出てくる場面が多くなっていましたね

 登場するのり巻き屋さんは、金沢市内に実際にあった人気店「ちくは寿し」がモデルになっているという。

「ガイドブックで見つけたお店でしたが、メニューが豊富で、安くて本当においしいの! 残念なことに、40代のご主人が亡くなったため、取材している間に閉店してしまいました。が、再開したら絶対に大繁盛すると思いますね」

 村上春樹作品に音楽の登場がお約束であるように、白石作品においてのそれは食べものだ。たとえインスタントラーメンでも、その描写に食欲がそそられる。

作家はみんなそうだと思うけれど、セックス描写を書くのが大好きで、舌なめずりしながら書くんですよね。性欲と同じように、食欲もプリミティブな欲望だから、読者にとっても刺激になる。他の人が書いた小説を読んでいても、食べものの描写が出てくると、俄然(がぜん)、惹きつけられてしまうんですよ」

男はいつでも自由になりたい

 人生の半ばを過ぎて新たな道を歩み始めた鉄平の姿に、男のロマンや夢が託されているのだろうか。

家族というのは妻が社長で、夫は経理担当常務程度なんです。自分が社長じゃないから、どうしても仮住まいっていう気持ちのまま。定年になると居場所もなくなる。そこに、子どもは独立、お金もある……という条件がそろえば、“どこか遠くへ行きたい”って思うのが、男という生き物なんです。ひとりだと洗濯すらできなくてもね(笑)

 鉄平に待ち受けていた運命とは? あっと驚く大どんでん返しの結末に、読者は呆然(ぼうぜん)と佇むほかない。 

 登場する銘酒でも傾けながら、いつまでも読後の余韻に浸れそうだ。

ライターは見た!著者の素顔 

 長編を書き上げるために、朝から晩まで書斎に閉じこもって執筆活動をしていたのかと尋ねると、「集中は、ウルトラマン5人分の15分しかもちません。15分書いたらカラータイマーが点滅してくるので、30分休みます。それを延々繰り返す感じ」とのこと。休憩中は、ひたすらネットニュースのチェック。「執筆中の15分の間に、世の中で大事件が起きていたらどうしよう、って不安になる。常に時代を生で感じたい。ニュースを見なければ、もっといい小説が書けるかもしれません(笑)

『一億円のさようなら』白石一文=著(徳間書店/税込2052円)※記事の中で画像をクリックするとamazonのページに移動します

PROFILE
しらいし・かずふみ◎1958年生まれ、福岡県出身。作家。2000年に『一瞬の光』でデビュー。’09年『この胸に深々と突き刺さる矢を抜け』で山本周五郎賞、’10年『ほかならぬ人へ』で直木賞を受賞し、初の親子二代の受賞が話題となった。『私という運命について』『翼』『記憶の渚にて』ほか、著書多数。

(取材・文/工藤玲子)