三輪晴美さん

 女性がかかりやすいがんのトップ、乳がんは40代以降に多く見つかるのが特徴だ。5年生存率も高く、早期発見して適切な治療をすれば、完治が望める病気といってもいい。

 一方、同じ乳がんでも進行した状態で発覚したり、再発や転移をしたがんになれば、話は別だ。生存率は低くなり、予後も悪い。完治が難しいがんを抱えて生きることになる。

がん治療の副作用で骨が折れた

 '08年に乳がんを告知され、リンパ節や骨にも多数の転移があり、ステージ4と診断された三輪晴美さん(53)。

 当時、ステージ4での5年生存率は33%だった。手術不能の状態ゆえ胸を失うことはなかったが、骨転移のための点滴治療、抗がん剤治療を継続して受けることになる。

 今度の冬で闘病10年。5年生存率をはるかに超えた年月を生きている。

「昨年末、足の骨を折りました。駅の構内を歩いていたらガクッときて倒れ、そのまま救急車で運ばれました。大腿骨が折れており、常に激痛であるわけではないけれど、まったく歩けない。病院のベッドの上で足を牽引され、身動きできない状態の日々を送りました」

 クリスマスの日に折れた足の手術を受けた。もう片方の足も危ないとわかり、事前に足にプレートを入れる手術を年明けに受けた。結果、1か月半の入院となった。

「8年間、骨転移の薬を点滴で受けていたんです。副作用のひとつに、顎骨壊死(あごの骨が局所的に死滅し、腐った状態になること)があるんですが、私の場合は足にきました。本来、骨を強くするための薬なのに、まれに弱い部分もできてしまうということです」

 これまで抗がん剤の副作用も少なく、働きながら、お酒も飲みながら、健康であったときと変わらぬ日々を送ってきた。

 ところがここへきて、がん闘病で初めての手術を受け、さすがに精神的にまいった、と三輪さん。

「がんの治療をしていたのに、その副作用で骨が折れてしまいましたから。何があるかわからないという恐怖と、生きることの大変さを改めて実感しました」

 退院後、杖をつきながらの仕事復帰。4月には大阪への転勤が決まり、30年ぶりに故郷の関西に戻った。

取材当日、重い荷物を引いてさっそうと登場した三輪さん

「梅田のあたりも変わってしまっていて、どこへ行くにも大変でした。階段の上り下りができなかったので、エレベーターやエスカレーターを探して。それだけで疲れ果てました。身体の不自由な方の気持ちがよくわかりましたね」

 東京勤務だったときには、生活報道部記者として、食や暮らしまわり、がん医療についての記事を手がけてきた。新天地の大阪では学芸部に所属し、もともと関わりのあった美術や文芸の記事を担当している。

「がんを抱えながら仕事をすることは、これからバリバリやりたい、出世したいという野心のある若者だったら、きっと大変だったと思うんです。でも、年の功ですかね。できないものはできないと言える。そして、キャリアがここで終わってしまう、なんていうことも考えなくていい。自分は何も変わらないし、失うものはもう何もないですから(笑)」

患者が少しでも前向きに生きられるように

 三輪さんは、当事者であることを生かし、「がん・ステージ4からの眺め」という記事を発信してきた。

 部署が異動になり、最近はがんの取材がなかなかできなくなってきたのだが、治療10年を経過した自分の身に何が起こっているのか、知ってもらうことは大切だと考えている。

「私が闘病している間に、治療はどんどん進歩しました。それこそ、再発したがんさえも治ってしまうような事例も増えています。でも、ひと昔前だともっと早く死んでしまっていたものが、がんと共存できるようになったりしたからこそ出てくる、新たな問題もあります。

 患者側からすると“医者なら何でもわかるはずだろう”って思いがちですが、実はまだまだわからないことも多い。データを超えて生きるとは、そういうことなんです」

 だからこそ、著名人ががんで亡くなったあと、「発見が遅かったから」「治療を受けていなかったのでは?」などと、一方的に非難されているのを見るのはつらいと、三輪さんは言う。

「がんの症状も副作用も、ひとりひとり違います。“○○したから、がんになった”“あの人がこれで治ったから、あなたも”ということが単純に通用しないのが、がんの世界。きちんと治療をしていても、再発や死が避けられない場合もあるんです」

 三輪さんは、患者が自分を追い詰めることなく、少しでも前向きに生きられるように、これからも発信を続けていくつもりだ。


三輪晴美さん ◎毎日新聞記者。2008年に見つかった乳がんは、骨にも転移が広がっていたステージ4。手術ができず、抗がん剤を中心とする治療を継続してきた。毎日新聞にて、『がん・ステージ4からの眺め』を発信中。