悪性度が高く、完治が難しいことで知られる「スキルス胃がん」。
胃壁の中を、砂地に水がしみ込んでいくようにがんが広がり、進行すると、胃壁全体が硬く厚くなってしまう。スキルスとは「硬い」という意味だ。
表面上、何もないように見えることもあるため、検診でも見つかりにくい。スキルス胃がんの患者・家族会である『希望の会』理事長の轟浩美さんは、「すべての医師がスキルス胃がんのことをきちんと話せるわけではない」と言う。
轟さんの夫・哲也さんが、スキルス胃がんの告知を受けたのは'13 年の12月。
あとでわかった病院間の格差
1年前の区の検診では「胃炎」と診断され、ピロリ菌除去の処置を受けていた。あきらかな胃の不調で別の病院にも行ったが、医師からは「気にしすぎ」とすら言われる始末。
だが、家系に胃がんで亡くなる人が多く、検診も欠かさない哲也さんは自分で「スキルス胃がん」を疑っていた。
食べたものが胃に入っていかず、出すこともできない。そんな症状を抱えながら、1年後になってしまった検診日を迎えた。バリウムでも膨らまない、陶器のような胃。即、入院が決まった。
「当時は、がんを専門とする“がん診療拠点病院”があるということすら知りませんでした。風邪だったらどこの病院に行っても同じじゃないですか。でも、症例数の少ないスキルス胃がんは病院間の格差があることに、あとになって気がついたんです」
入院先で言われるがままに治療を受け、余命を宣告された哲也さん。「今後は胃がんに準じた治療をしますが、それは延命治療です」と説明されたという。
セカンドオピニオンでも同じことを言われ、藁にもすがる思いで調べても、“予後が悪い”という情報ばかり。
そんななか哲也さんは、当時やっていたブログに書き込まれた情報から、スキルス胃がんの“臨床試験”があることを知った。
夫婦で喜んだが、この臨床試験に入る条件は“抗がん剤未投与”。すでに抗がん剤治療をスタートさせていた哲也さんは“適応外”だったのだ……。
「なんでこんなふうに、情報にたどりつける人と、たどりつけない人の差が出てくるのだろうって、すごく悔しかったんです」
浩美さんはそう振り返る。
アナウンサーの逸見政孝さんがスキルス胃がんで亡くなってから、20年近くたっていた。なのに、あのときから医療はそれほど進歩していなかったと、轟さん夫婦は実感した。
「ありがとう」の言葉を残して…
告知を受けてから半年後には、夫婦ともに仕事を辞めていた。“あの人、がんじゃないの?”と言われるのがイヤだったから。
「夫婦そろってひきこもりです。私は、いわゆる民間療法の“にんじんジュース”を作り続けました。夫は食べられない状態で、そんなことをやってもムダだとわかっているのに、無理して飲んでくれた。そのうち、冷蔵庫ににんじんがなくなると、不安にかられるほどになっていました」
しばらく我慢していた哲也さんだが、ある日、突然「誰のためにやっているの?」と怒りだした。
「もうすぐ死ぬかも……と思ったら、相手を思いやるがゆえ、本音が話せなくなります。こうした夫婦間のずれは、よくあること。あのとき、誰かほかに相談する人がいたら違っていたでしょうね」
もっと前向きになろうと思った哲也さんは、ブログを発信し、患者会も立ち上げた。同窓会でも、自分ががんであることをカミングアウトした。
すると、友人たちは患者会『希望の会』をNPO法人化するために尽力してくれた。講演会に呼ばれるようになり、車イスに乗りながら、熱意を込めて体験を語った。
夫の容体がどんどん悪くなってくると、浩美さんもその活動を手伝わざるをえなくなった。
夫を襲ったスキルス胃がんの存在や患者が直面する現実を知ってもらうために冊子を作り、助かる命を救うため、ロビー活動も始めていた。
'16 年8月。哲也さんは家族に「ありがとう」の言葉を遺し、旅立った。
そして、あたかも哲也さんが追い風を起こしたかのように、『がん対策推進基本計画』の改正で、スキルス胃がんが「難治性がん」として明記されたのだ。
「スキルス胃がんは、AYA世代(15〜30歳前後)にも多いがんですが、情報も少なく社会的支援がすごく遅れています。また、難治性だからこそ、家族や遺族が抱える心の問題も大きい。これからも声をあげ続けることで、このがんを理解してもらいたいです」
轟浩美さん ◎希望の会代表 スキルス胃がんの患者であった夫・哲也さんと'15年にNPO法人『希望の会』を立ち上げる。夫亡き後は理事長を引き継ぎ、スキルス胃がんに関する知識や情報を伝え患者と家族を支える活動を行っている。