Vol.1 後藤真希
平成11年(1999年)の日本は、後に“失われた10年”と呼ばれる平成不況下にあって、池袋通り魔殺人事件や桶川ストーカー殺人事件、東海村の臨界事故など、まさに世紀末な事件や事故が相次いでいた。
そんな中でもガングロ・ファッションでキメたギャルたちが渋谷をたくましく闊歩(かっぽ)してメディアをにぎわし、日本中を女の子たちが厚底ブーツで颯爽(さっそう)と歩いていた。
あの時代、一番元気だったのは間違いなくギャルたちだ。彼女たちが日本を明るく元気づけていた。
すっごい恥ずかしかった『LOVEマシーン』
それを象徴する大ヒット曲こそがモーニング娘。の『LOVEマシーン』。平成11年9月に発売され、オリコン・チャート1位に輝き、累計160万枚以上を売り上げた。幼稚園に通う子どもからじいちゃん、ばあちゃん、日本中が「Wow Wow Wow Wow」と口ずさんだ国民的大ヒット曲だ。
そのときのモーニング娘。のセンターは、言わずと知れた後藤真希。当時13歳の中学2年生。リリース1か月前の8月にモーニング娘。の第2回オーディションに合格し、3期メンバーとなってすぐ。その曲は言わば、彼女にとってはデビュー曲にあたる。
「“日本の未来は……”なんて歌う曲、今もあんまりないですよね? でも、深く考えもしないで歌っていました」
世相を見事に捉え、明るく励ました時代を代表するあのヒット曲も、13歳の彼女には「それまでのモーニング娘。の曲はもっと色っぽくて大人っぽいものがほとんどだったのに、あんなこととか、こんなこととか、すっごい恥ずかしかった」と赤面するような思いがした。
あんなことやこんなことは、みんなが真似したあの振付け。「私はもっとカッコいいグループに入ったつもりだったんです」と言いながらも、大ヒットは「衝撃的でした、自分の中でも」なんだとか。
それから19年がたった。平成を駆け抜けてきた後藤真希は、来年9月にはデビュー20周年を迎える。
エッセイを出す理由とは
「ときどき思います。人生の半分以上を芸能界で過ごしてきたって、すごいなぁって。例えばサラリーマンはたいてい20歳を超えてから就職しますよね? となると人生の半分をその仕事で過ごすのは40歳を超えてから。でも私は33歳の今、すでに人生の半分以上をここで過ごしているんです」
そんなこれまでを、彼女は1冊の本にまとめた。タイトルは『今の私は』(小学館)。幼少時からデビューに至るまで、デビューしてから、そして今まで。家族のことや恋愛のことも素直に綴(つづ)った。
「自分をもっと知ってもらえる機会があったらいいなぁと思って作りました。世間が思ってる自分と、自分で思う自分はなんともズレていると、ずっと思ってきたんで。
世間でいう後藤真希、ゴマキのイメージは結構トガってますよね。それは私がトガらせたというよりも、そう盛り上げた世間とメディアがあったんじゃないかと思います」
テレビ画面の向こうの幼い後藤真希は、歌番組やトーク・バラエティ番組などで戸惑い、どこか居心地悪そうに見えた。どうしたらいいのか分からなかったんだろうが、そういう姿をカメラが捉え、彼女のイメージが勝手に膨らんでいった。
だって後藤真希だもん、パッと見てすぐに目がいく。目立つ。オーラがある。だから、仕方なかったのかもしれない。
『今の私は』の中にもこんな記述がある。レコーディング風景をモーニング娘。を生んだ番組『ASAYAN』(テレビ東京系)のカメラが追っている場面だ。
――ひとりずつ歌ってから、複数メンバーでの歌を録るのだが、自分が次にいつ呼ばれるかわからない。練習をしながら待機している時間が、とにかく長かった。その間もずっと、『ASAYAN』の番組カメラが密着している。ほかのメンバーは、カメラを向けられるとすぐに、気のきいたコメントを言ったり、笑顔を見せている。すごいな、と思った。その後も、密着カメラに慣れることはなかった。疲れているのに、笑顔なんてできなかった。用意されたコメントを何度も繰り返して言わなきゃいけないときは、ずいぶん不機嫌な態度だったと思う。私は、ただ眠たかった。――(第一章「レコーディング」より)
『ASAYAN』のカメラが追ったレコーディングで、つんく♂さんは超の付くプロフェッショナル、完璧主義で容赦なかった。
後藤真希からみたつんく♂とは
「声の表情1つ1つまで、超細かく指示されて、それはもう本当に大変でした。でも、つんく♂さんとはモーニング娘。のレコーディングではお会いしても、実はそんなにお話する機会はありませんでした。
一時、つんく♂さんがお米にハマってる時期があって、事務所においしいお米を食べに行ったことはありましたけど(笑)。
ただ、今になって思うのは、いろんなことをやらせてもらったなぁって。そのときはやらされてる感満載だったんですけど、いろんな曲を歌うことができました。
そのおかげで自分にこんな顔ができるのか! という驚きがあったり、こんな顔を好きになってもらえるのか! なんてことも。
うちの親せきと結婚した女性に、“私は『手を握って歩きたい』(2002年に発売した3枚目のソロシングル)でファンになったんです”と言われて、私の中では幼稚な曲だと思ってたのに、そう言われてすごい衝撃。
だから、当時はよくわからなかったけど、今になるといろんな自分を育ててくれたんだと感謝しています」
家族と自分
戸惑いつつも成長していく10代の後藤真希を支えたのは家族だ。実家通いでずっと家族と暮らしていたのは、ファンならよく知っている。
「生活の基盤はいつも家族です。一つ屋根の下暮らしのスタイルはずっと変わらない。家族ありきの仕事、です」
9年前に亡くなったお母さんとの思い出も『今の私は』にたびたび登場する。お母さん、本当に素敵な方だったんですね。
「かっこいいし、ちょっと可笑(おか)しくて、可愛らしい。母と私、それに私の長女はみんな性格が似てるんです。
ただ私や娘はすごくシャイなのに、母はシャイという言葉がまったく似合わないすごさがありました。私もあれぐらいの年齢になったら、そうなるのかなぁ?(笑)。
それから母は、人に謝るのが苦手でした。悪いことはしてないんだから謝れない、と。そういうところも私は似ているかもしれません。本当に悪いなと思ったら謝れるけど、自分に非がないと思うと謝れない。簡単に謝っちゃったほうがラクなのにね、って思うんですけど」
ダンナさんとのルール!?
そして今、後藤真希は2歳の女の子と1歳の男の子、2児の母となり、新しい家族を持った。ダンナさんとはラブラブな生活を送っているようで?
「このあいだ、(夫が)新しいルールを出してきたにも関わらず、数日で終わりましたね」
新しいルール?
「1日1回は“好き”って言おうって。そう決めて数日はやりましたけど、向こうから“やっぱいいや”って終わった(笑)」
仲睦まじい家庭生活がうかがえる。ちなみにダンナさんとの出会いも本の中に書かれていて、えええっ? と驚いた。
もちろん、子育てもガッツリやる。本の中には子どもを両腕に抱えるたくましい姿も見られた。
「腕とか、けっこう鍛えられますね。ディズニーランドに行ってパレードを見せてあげようと抱っこしてノリノリで踊って見せてたら、翌日、身体がガタガタになりました!」
『穂先メンマやわらぎ』だけじゃない
お母さん譲りで料理が得意なのもファンには有名な話だけど、テレビ番組『誰だって波瀾爆笑』(日本テレビ系)で「ご飯のお供」として彼女が紹介した桃屋の『穂先メンマやわらぎ』が大ヒットしちゃった、なんていうエピソードもある。最近、何かにハマってますか?
「また桃屋なんですけど(笑)。『きざみにんにく』ですね。あれは使えます。ガーリックライスにもラーメンにも、パスタにも使える。冷蔵庫に1個あったら、料理の幅がかなり広がります。
あと、『こくうまキムチ』(東海漬物)も! キムチの中でも食べやすくて、発酵しすぎてない感がいい。白いごはんに、納豆ごはんに、卵かけごはんに、ぴったり。賞味期限が迫ったら豚キムチにもします」
下町の料理が得意なお母ちゃん、後藤真希の顔が見えてくる。でも、でも、待ち望まれているのはトップ・アイドルの顔だろう。
シンガー後藤真希の復活は?
「来年が20周年。そこをどうしようか? というのが今一番の課題です。新たな曲を用意してやるのか、それとも今までの曲をやるのか。それで意味がぜんぜん違ってきます」
平成の歌姫・安室奈美恵さんも引退してしまった。
「安室さんが引退すると聞いて衝撃を受けました。実は安室さんは私のライヴを観に来てくれたことがあったんです。そのときに私が着ていた衣装を気に入ってくれたって人づてに聞いて、うれしいなぁと思いました」
平成のミュージック・シーンに熱狂したファンたちは今、30代~40代前半ぐらいだろうか。安室さんの引退でなおさらシンガー後藤真希の復活は待ち遠しい。
「ファンがそれを待ってくれていると感じています。ただ、どう見せるか? 何をきっかけにそこに至るか? それを考えるとなかなか踏み出せないでいるのが正直なところです。ただ、踏み出したら早そう。そのときは体力的なこと含め、中途半端にはやれないと思っています」
平成11年にデビューして瞬く間にトップ・アイドルに駆け上った後藤真希。平成が終わる今、何を思うのだろうか。
「逆に今、『LOVEマシーン』を誰かが歌い始めてもいいんじゃないかな? って思います。あの時代がどうだったか私は幼かったから分からないんですけど、今あの曲があったほうがいいんじゃないか? そう思います」
(文/和田靜香)