6階のエレベーターを降りると、左右に巨大な食品サンプルを並べたショーケースが客を待ち構える。そのメニューの数にまず驚かされる。
ここは花巻市民の憩いの場、最近では観光客も訪れるマルカンビル大食堂である。
「僕が好きなのは、このマルカンラーメン。ちょっと辛いのが美味しいんですよ」
そう言ってはにかむのは、地元、花巻出身の小友(おとも)康広(35)だ。ひょろりとした風貌に黒ぶちの眼鏡、話し方に育ちのよさが漂う。
昭和レトロが薫る560席の店内は、家族連れやカップル、女子高生などさまざまな客でにぎわう。店の奥はガラス張りの窓で果てしなく続く花巻の街並みが見渡せる。
岩手県花巻市─。『銀河鉄道の夜』などで知られる宮沢賢治の故郷だ。その花巻市の上町商店街にマルカン百貨店はあった。1973年に建築されて以来、市民に親しまれてきた百貨店。中でも6階の大食堂は、花巻市民にとって家族や友達との思い出が詰まった場所だった。
しかし、設備が老朽化し、耐震基準に満たないと診断され、経営陣は改修を断念。2016年6月7日に43年間の歴史に幕を閉じることを発表した。
この閉店に待ったをかけた人物こそが、小友だった。
あの大食堂を残したい─。彼の思いは市民や高校生、大食堂を愛する人々を巻き込み、数多くの苦難を乗り越えながら、奇跡の復活を遂げたのだ。
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小友は、複数の企業に席を置くパラレル経営者だ。東京のIT会社の取締役を務める傍ら、花巻で110年以上続く家業『小友木材店』の4代目を継ぐため、’14年から岩手と東京の2拠点生活を始めた。さらに、地元のまちづくりを推進する『花巻家守舎』の代表にも就任し、故郷で新たな一歩を踏み出したばかり。町のシンボル閉店のニュースは、そんな小友の心を波立たせた。
「大食堂のレトロな雰囲気が好きでした。地元の人たちは1個180円の巨大なソフトクリームを食べて育った。僕もちっちゃいころから30歳を過ぎても好きだった。観光資源でもある大食堂にはブランド力がある。これがなくなるのは非常にもったいないな、と思ったんです」
よどみなく早口で話しながら時折、悪戯(いたずら)っ子のような笑みを覗(のぞ)かせる。小友の実家は、マルカン百貨店から歩いて5分。子どものころから、6階の大食堂はもちろん7階のゲームセンターにも通った。
「大学生や社会人になっても、県外から来た友人を必ず大食堂に連れていきました。すると、誰もが“いい雰囲気だね”“懐かしいね”という感想を言ってくれるんです。だから、あそこは僕らにとって自慢の場所だった。市民だけでなく、観光客まで集まるあの大食堂がなくなったら、花巻はどうなるんだ? みんなが集う場所が消えてしまうのは困る、と思いました」
花巻は江戸時代から流通の拠点として発展してきた。
高度成長期には、上町商店街はアーケードが整備され、昭和期までは人通りの絶えない商業地だった。
しかし、バブル期を経て平成となり、にぎやかだった上町商店街からは人が消え、商店街は歯抜けのような状態になってしまった。’11年には、百貨店地下の食料品売り場も閉鎖された。
ところが、6階の大食堂だけは相変わらずにぎわい続けていた。メニューは150種類以上、料金も昭和のまま。高さ25センチもある10段に巻かれた巨大なソフトクリームがテレビなどでも紹介され、市外、県外からも客が集まるようになっていた。
マルカン百貨店の大食堂は、花巻温泉や宮沢賢治と並ぶ花巻のランドマークとして観光客を呼び込むようになっていたのだ。
マルカン大食堂を残せ!
閉店発表の1週間前、小友は『花巻家守舎』のミーティングで閉店の情報を知り、その場で「僕、大食堂の存続、できる気がする」と呟(つぶや)いたという。
3月7日閉店発表の翌日、小友はマルカン百貨店の社長と向き合っていた。そして、閉店の決断は経営陣が何年もかけて悩み抜いた末の結論であったことを知った。
当初は、花巻家守舎が大食堂以外のフロアにテナントを誘致し、収益をあげる提案をしてデパートを存続してもらうつもりだったが、その決断の重さに考えを改めた。
「いちばんの目的は、全国的にも知られる大食堂を残すことでした。だったら、自分たちが大食堂の運営を引き受けて、営業再開を目指すのはどうだろうか? ほかのフロアは賃貸物件にすればいい、それを社長に伝えました」
経営者仲間からは反対の声も上がっていたが、小友の決意は固かった。
“不可能だ”と言われたときこそ、やってやろうと考える。それが小友の気質だ。
「ユニークなスタンスで人をあっと言わせたい。人とちがう手法で、人を感動させることに恍惚(こうこつ)感というか、生きている意義を感じるんですよ」
木材店を継ぐためIT企業へ
小友が家業の木材店を継ぐと宣言したのは高校生のとき。理由がまた彼らしい。
「父親は“会社は継がなくていい。俺の代で潰(つぶ)していいから”と言ってましたが、僕は天の邪鬼(じゃく)だから“じゃ、僕がやる”と。僕にしかできないことをやりたい。木材店を継ぐのは面白いと思いました」
東京の大学に進学し、就活で160社以上の会社の面接を受けたが、いずれも木材店とは関係のない業種ばかり。
「木材店を継ぐつもりでしたけど、木材の大手企業で修業をしたところで、業界は低迷している。身につけるべきスキルは、ITだと思っていました」
選んだのはスターティアというITベンチャーの会社。
「30歳になる前に、花巻に帰るつもりでしたから、規模が小さくてキャリアが積めそうな会社を選んだ。自分が活躍したぶん、貢献度がありありと見える会社がよかった」
’05年4月、新卒で入社。研修終了後、配属になった新規事業部を皮切りにステップアップし、グループ初の自社商品開発を担当。その後は、電子ブック作成ツールを中心に取り扱う会社『スターティアラボ』の中心人物として、取締役となるのだが、
「執行役員に就任した翌年、僕が26歳のとき、父のがんが発覚したんです。すぐ手術をして無事でしたが、もともと“30歳になったら帰ろう”と考えていたので、そのころからときどき花巻に帰って、少しずつ親父の仕事を引き継ぐようになっていました」
そして29歳のとき、父親のがんが再発。会社に辞意を表明したのだった。
ところが、最高経営責任者である本郷秀之さんは、意外な選択肢を提案した。
「木材屋はそんなに忙しくないだろう。月の3分の1だけでもスターティアの仕事もできないか?」
引き止めた理由を本郷さんが明かす。
「彼が辞める、というのはうちにとって大問題でした。能力はもちろんですが、人間性が素晴らしくてね。芯が通っていて公明正大。嘘(うそ)をつかない。できないことはできないとはっきり言って“でも、ほかの方法でなんとかします”と。自分をカッコよく見せようとしないし、人を巻き込む力がある。採用面接で感じたように、まだ“一緒に働きたい”と思ったんですね」
小友の面倒見のよさにも惚れ込んでいる。
「若手の社員が残業で遅くなると、彼は自宅に泊めてあげていました。“君は人間性がいいから早死にするぞ”と冗談で言ってますけど(笑)」
小友が入社以来、上司であるスターティアラボ代表取締役の北村健一さんが言う。
「彼はとにかくロジカルさがすごい。ずば抜けていますね。何事もロジカルに受け止めて、ロジカルに伝える。そんなキャラだから、あだ名が“ロボ”なんです(笑)」
上司も絶賛する小友だが、入社してわずか8か月で新規事業「電子ブック」の開発責任者を任され、苦しい思いもしている。
「2000万円の予算がついたのに失敗して。お客さんからは怒られるわ、営業からはせっつかれるわで。社内外に半年間、謝り続けていた時期もあった。でも、逃げるわけでも卑屈になるわけでもなく、“もう1回やらせてくれ”と言ってバックする。失敗だらけですけど、乗り越えられなかったことはない。努力している気もなくて、ただ楽しいからやっているだけ(笑)」
小友が入社した当時、80人だったグループ会社は、現在社員が800人で、東証一部上場し、海外進出をする企業に成長している。
花巻を若者が集まる町にしたい
こうして小友の東京と花巻の2拠点生活がスタートした。
小友木材店は祖父の代で財を築き、父の代で花巻にあった製材工場をショッピングモールに変え、メイン事業を不動産業に移行していた。
「最初の1年は、会社のやり方は何も変えずに、古参の社員に“とにかく学ばせてくれ”と頼み込みました」
従業員のほとんどは、60代から70代のベテランばかり。反感を買わないように慎重なアプローチを選択した。
小友木材店は、かつては全国の枕木を供給する仕事がメインだった。ところが、枕木はコンクリートにかわり、木材業の仕事は減少するばかり。
「でも、本来の木材業もちゃんとやれば儲(もう)かるんです。僕は2年目からITを活用して過去のデータを集計して“見える化”し、効率の悪いところがわかってきた。写真をクラウド上で管理しておけば、わざわざ工場に来てもらわなくてもタブレットでお客さんに見せて営業できる。これからの木材業は、テクノロジーを使って分析すれば、どんどん効率はよくなるんですね」
14年前から小友木材店に勤務する戸来(へらい)美幸さんは、
「先代は、材木の事業をどうするか迷っていたようなんですが、新社長は“木材の仕事はやめない”と宣言しました。新社長は、ほかの会社を経験しているせいか、会社を外から見ている感じがしますね。ちゃんと、私たち古い社員の意見も聞いてくれますよ。いつも社長からは刺激をもらっています」
花巻駅前に、小友木材店の築50年4階建ての本社ビルがある。ここは、3階に兄弟会社が入っているだけで、ほかのフロアは空いていた。
「10年以上、固定資産税をただ支払うだけの赤字ビルでした。で、取り壊して駐車場にしたらどうかと見積もったら、経費を回収するのに55年かかるとわかった。困ったなぁ、と思っていたときに『リノベーションまちづくり』という取り組みに出会ったんです」
’14年11月、花巻市で「家守勉強会」が開催され、そこに小友は誘われた。
「家守」とは、もともと江戸時代に地主や家主に代わって土地や建物を管理し、地代・家賃の徴収を行った管財人のこと。現代の「家守」は、特定エリアのビジョンを描き、そこにある土地や建物の所有者に代わって遊休不動産をプロデュースし、エリアのブランド力を高め、地価の上昇を目指す活動。同様の活動を行う「家守会社」は全国に100以上ある、と小友は言う。
「『リノベーションまちづくり』は建物や不動産を変えるんじゃなくて、半径200mほどの小さなエリアを共通のビジョンとコンセプトで再開発していく。建物のリノベーションは、あくまでも手段であって目的ではない。そこに集う人、働く人をどういうふうにプロデュースするか、ということなんですね」
遊休不動産が有効利用され、エリアに雇用が生まれ、どんどん人が集まるという活性化事業なのだ。小友が続ける。
「僕はそうやってチャレンジする同世代や若い世代を花巻に集めていきたいんです」
’15年4月、3人の仲間と花巻家守舎を設立。最初に手がけたのが小友ビルだった。
「僕らは小友ビルの半径200mにチャレンジする人たちを集めよう、集まりやすい空間を作ろう、とリノベーションに取り組みました」
1階は、無料でインターネットに接続できるカフェに、2階はカフェと岩手のよいものを中心に売る物販店やキッチンスタジオになった。
「そして4階は、会費制で、会議や会合、イベントが開催できるスペースに。結局、総事業費700万円、8年で回収できるようになった」
約2年間で花巻駅前エリアで起業家や雇用者が30人ほど現れた。最近、ビルの前にはコンビニが開店。確実にエリア価値が上がってきたのだ。
花巻家守舎メンバーの高橋久美子さんが言う。
「何人もの友人から“小友さんに会った?”と聞かれたんです。東京と花巻で仕事をしていてITに詳しく、若いのに経営手腕もすごいと聞いていました。でも、目の前にしたらごく普通の青年で拍子抜けしましたね(笑)」
小友は、饒舌(じょうぜつ)ではあるが、いつも飄々(ひょうひょう)とした雰囲気を漂わせている。しかし、彼なりの野心を時折覗かせる。
「僕は、バロンドール(サッカーの世界年間最高優秀選手賞)のトロフィーが欲しいんじゃなくて、サッカーそのものを作る側になりたい。誰かが作ったルールの中で1番になるんじゃなくて、ルールを自分で作る側にね」
「アドリバーなんです」小友は自分をそう表現する。
「特別やりたいことはないんですよ。アドリブで何か面白いことがポンと降ってきたときに“あ、やれる”って思うだけ。そのとき、自分の実力不足だからできないって思うことだけはしたくない。だから常に何か面白いことがきたら飛びかかる意思があるし、飛びかかっても大丈夫なだけの力をつけていたいんですね」
大食堂復活を望む1万人の署名
’16年3月20日、小友は記者会見を開き、「花巻家守舎がマルカン百貨店から建物全体を借り受け、6階の大食堂の営業を再開できるかどうか、5月末を期限に検討を行う」と発表した。
そのニュースは、大きな話題となった。そして花巻家守舎のパソコンには、「応援している」「何か手伝えることはないか」というメールが全国から押し寄せたのだ。
4月はじめの段階で、テナント候補として申し込みや問い合わせも殺到した。問題は、予算である。耐震工事はじめ見積もりを取ったらざっと6億円かかるとわかった。
もうひとつの問題が、大食堂の運営。飲食業経験のない花巻家守舎としては、飲食業に精通した企業に大食堂の運営を委託するしかない。
課題は多かったが、小友の大食堂復活プロジェクトを後押ししたのは、花巻北高校の生徒が集めた署名だった。高校生が自主的に集めた署名は合計9615人分。5月29日、小友のもとにそれを届け、「あの食堂がなくなると困る」という思いを伝えた。
「あれがすごく参考になりました。彼らの活動によって、ほんの2か月の間に1万人近い人の署名が集まっている。ほかにも全国から応援メールが驚くほど届く。これだけ応援してくれる人たちがいるなら、その人たちから少しずつ力を借りられるかもしれない」
もともと営業引き継ぎ検討の原動力は、大食堂のブランド力だった。ならばクラウドファンディング(CF)や寄付という手法もある。CFとは、インターネット経由で不特定多数の人々から資金調達を行い、事業などを達成する仕組みのことだ。
「正直な話、“残したいのならどれくらいお金を出せますか?”と問うたわけなんです。それで1000万円も集まらなかったら、この取り組みはやめようと思った。結局、ノスタルジーばかりで自分の懐を痛めてまでじゃないという人だけなら、大食堂は残す必要はない、と考えたんです」
人任せの野次馬ばかりなら町づくりにはつながらない。小友はそう確信していた。
マルカン大食堂応援プロジェクト
「大食堂の存続、できる気がする」という呟きから始まったこの取り組みは、多くの人々を巻き込んでいった。
育児のために花巻家守舎の業務から離れると決めていた高橋菜摘さんも、プロジェクトのために何かしたかったと言う。
「花巻家守舎に一斉にメールが、それも全国から送られてくるのを目の当たりにして感動していました。私にも、何かできないかと考えて、マルカン百貨店の写真集の制作を思いついたんです」
彼女は、デジタルの時代にあって、押し入れから引っ張り出して家族で見るような写真集にしたいと思った。
「笑顔をテーマにして、マルカン百貨店店内を背景に、みんなの笑顔を残したかった」
ほかにもマルカン大食堂応援コラボグッズが次々と誕生。
花巻のワイナリーで作られた赤白のワイン、ソフトクリームストラップ、そしてソフトのイラストが描かれたTシャツも作られた。これらは売り上げの一部を大食堂運営のために新設された上町家守舎に納めることでマルカンの応援となる。小友が言う。
「業者さんなどに大食堂のブランド名を提供するかわりに売り上げの5%ください、という事業なんです。ほかにも“マルカンラーメンを製造販売したい”という地元老舗豆腐会社の若い経営者から依頼があって、“いいっすよ”とレシピを教えて作ってもらったりしました」
小友は、頼まれ事に対していつもポジティブで、フットワークも軽い。
6月7日マルカン百貨店閉店。閉店2日後から、小友は27人の食堂従業員との面談を始めた。1人1時間以上で10日間を要した。最初に話し合ったのは厨房責任者の藤原豊さんだった。そこで小友は丁寧に思いを説明し、理解と協力を得た。おかげで従業員の多数から「藤原さんが残るなら」という返答をもらえた。
しかし、7月になって大食堂運営を委託しようと思っていた業者との交渉が白紙となった。小友は、この時点で自社運営を決断する。
「最終的には、僕がマネージャーをやるしかないのか、とまで考えました。そんなとき、救世主が現れたのです」
花巻出身で、東京で岩手の手造りソーセージなどを提供する居酒屋経営者だった菊池英樹さんである。
「東京のビルが老朽化して立ち退きを求められて係争中のときでした。そこに大食堂でマネージャーをやらないか、という話が舞い込んできた。ちょうど50歳になって、故郷に帰るのもいいな、と思っていたこともあって話を聞いてみることにしました」
菊池さんは小友の決断力の速さに驚いた。
「とても年下と感じることはありませんでしたね。そして今までにはなかった手法をためらうことなく取り入れる柔軟さにも感心しました」
数日後には、上京した厨房責任者の藤原さんと3人で会い、マネージャーを引き受けることを快諾。実は、菊池さんは大学生時代、大食堂のアルバイト経験者だった。
「僕は長く飲食の仕事をしてきましたが、大食堂に戻ってくるために修業してきたんじゃないかと。これはきっと運命なんだなと思いました」
待ち望んだ感動の再オープン
クラウドファンディングと寄付では、県内外含め700人から2200万円が集まった。そして、小友は計画の見直しを図った。
耐震工事、電気設備や空調設備を全館行うとなると大変な工事となる。一方、1階と6階の営業だけなら半額以下の予算ですむ。
資金調達については市内の金融機関からの融資が決まり8月30日の記者発表で「営業再開は’17年2月20日を目指す」と宣言できたのだった。
小友は、営業再開前にいくつかのイベントを計画。最初に行われたのが、花巻出身のシンガー・ソングライター日食なつこのライブだった。
彼女には『あのデパート』という曲がある。これはマルカン百貨店閉店報道を聞いて作られた曲。こんな内容だ。
─自分が幼かったころには大きなデパートだと思っていたのに、大人になった自分が再びデパートを訪れると実は小さなデパートだったと気づく。かつて背伸びをしても見えなかった食品サンプルの一番上はビールとコーヒーという大人のメニューだった─。
ライブで彼女は、ピアノの弾き語りで『あのデパート』を歌った。歌詞の中の「次の夏になくなってしまう」という部分を「次の冬にまた幕を開ける」と変えて。
’17年2月20日─。
雪降る中、マルカンビルは復活を遂げた。この日、大食堂は1200人を超える来客となり、ソフトクリームは約350食が販売された。
高橋菜摘さんが言う。
「ものすごい人でした。鳥肌が立つくらい。どれだけの人たちが復活を待っていたのかと思うと泣けてきました」
いつも冷静な小友もこの日だけは違っていた。
「一気に走ってきたので、感情が昂(たかぶ)るなんてなかったけれど、あの日、1階の店内からシャッターが上がっていくのを見たときは、さすがにジーンときましたね」
そして、集まった大勢の客の前で小友は言った。
「僕らはきっかけを作っただけで、これはみなさんがやったことなんです。町づくりって本来そういうことだと思うんですよ」
◆
再オープンから1年以上がたった今でも大食堂には客足が絶えない。今年11月には食品売り場だった地下が新たにオープンすると小友が言う。
「スケートボードパークを作っています。東京オリンピックでは、公式競技ですから、ますます盛んになるでしょうね。あと2階には『おもちゃ美術館』を作ろうと思っています。うちは材木屋なんで木はいくらでも出せるし(笑)。それで商売もさせてもらおうと」
さらには、屋上に温泉を作るアイデアもあるらしい。
「花巻は温泉文化がありますからね。温泉郷から温泉水をタンク車で持ってきて、それを屋上までポンプアップして温泉を楽しめる施設にしようと。耐震工事が終わってからなんですが。いいでしょ? 温泉入ってから大食堂で大人はビール、子どもはマルカンソフト(笑)」
まるで夕食に何が食べたい、週末にどこに遊びに行きたいと話すような口ぶりだ。
小友は、この5月、同じスターティアグループで働く女性と結婚した。
「マストの条件は花巻に住めること(笑)。結局、僕たちは自分で住みたいエリアを作りたいだけなんです。こういうエリアがあったらいいなというのを一緒に作っていこうと。それを経済や経営の手法を使ってやっているんですね」
そして、子どもたちの故郷になっていく。住みたいエリアを作るカルチャーが次の世代につながってゆく。マルカンビル大食堂の奇跡は、そんな未来を予感させてくれる。
(取材・文/小泉カツミ 撮影/坂本利幸)
こいずみかつみ◎ノンフィクションライター。医療、芸能、心理学、林業、スマートコミュニティーなど幅広い分野を手がける。文化人、著名人のインタビューも多数。著書に『産めない母と産みの母~代理母出産という選択』など。近著に『崑ちゃん』(文藝春秋)がある。