現在、全国に100万人以上いると推測されるひきこもり。近年、中高年層が増加しており、内閣府は今年初めて、40歳以上を対象に実態調査を行うと決めた。一般的には負のイメージがあるひきこもり。その素顔が知りたくて、当事者とゆっくり話してみたら……。
(ノンフィクションライター 亀山早苗)
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<第3回>
瀧本裕喜さん(37)、母のケース

「自分が祖母を殺してしまうのではないかと思うと、怖くて怖くて。それで7年間、ひきこもってしまったんです」

 18歳から25歳まで親と顔を合わせずにひきこもり、現在はカウンセラーとして働く瀧本裕喜(ひろき)さん(37)。すらりと背が高く、シャイな笑顔の印象的な「好青年」だ。

 裕喜さんは会うなり、自分が100キロ以上太っていた「脱出直後」の写真を見せてくれた。髪は伸び放題、横幅は今の倍くらいありそうだ。

 ソフトな語り口で、非常に謙虚な男性である。10年ひきこもった経験のある男性から彼を紹介されたときも、「僕はたった7年ですが、いいんでしょうか」と言ったのだ。

 余談だが、「ひきこもり業界」(彼らはそういう言葉を使う)にも、その業界におけるある種の掟(おきて)のようなものがあり、長年ひきこもっていた人のほうが「上」という認識がある。同じアイドルのファンでもデビュー直後から応援していたほうが上、みたいな感覚だろうか。そのあたりのバランス感覚が興味深い。ひきこもっていた人と接すると、その純粋さがわかるだけに、どんどん惹きつけられていく。

祖母の愚痴に追い詰められて殺意

 ひきこもったきっかけは、東京で母方の祖母とふたり暮らしを始めたこと。愛知県で両親と3人で暮らしていたが、浪人して予備校に通うために上京してきたのだ。

「大学受験に落ちて精神的に不安になっている18歳の少年に、祖母は毎日、“人生なんてつまらない”“生きてたって何もいいことないよ”と吹き込むわけですよ。祖母は、亡くなった祖父からDVを受けていたようで、積年の男への恨みが一気に僕に向いた。ただ、受験に失敗した僕に人生何もいいことはないという言葉は刺さった。気分が沈み、病んでいった。そして、祖母に殺意を抱くようになったんです」

 彼は非常に繊細で優しい子だった。3歳からピアノを習い始めたが、小・中学校時代に、男子からは「男のくせにピアノなんかやって」とからかわれ、女子からは「私よりうまく弾くなんて」と嫉妬の目を向けられた。そのたびに深く傷つく。そして「傷つかないためには我慢して生きるのがいちばん」と自分に刷り込んだ。

 両親とも早稲田大学出身で、ひとりっ子の裕喜さんを子ども扱いしなかった。父は幼い子にごく普通に四字熟語や諺(ことわざ)を使い、母は哲学を語った。

 両親を超えるには東大に行くしかないと思い込んでいた彼だが、塾では「落ちこぼれ」と言われた。そういうことが積み重なって、「人に責められないためには、自己主張をせず、先に受け入れよう」と思うようになったのだ。

 中学でいじめられても、ひたすらに受け入れてきた。音楽と文学に傾倒した少年は、周りの人が思うよりずっと繊細だった。だから祖母の愚痴も聞き流せず、すべての言葉を全身で受け止め、ネガティブ思考に浸蝕(しんしょく)されていった。浪人生ならではの焦燥感も手伝い「心の状態はステージ4という感じで殺意を出さないために祖母とは目を合わせないようにしていた」そうだ。

 そんな状態だからセンター試験はボロボロで、そのまま愛知県の実家に帰る。

「帰るとき、祖母は“怖かった。あんたに殺されるかと思った”と言っていました。殺気を感じていたんでしょうね」

 彼を「弱い」と受け止める向きもあるかもしれない。ただ、18歳の多感な時期にそんな環境に置かれたら、もともと繊細な彼が病んだとしても不思議ではないと私は思う。

人を傷つけないためにひきこもった

 帰ってくるなり2階の自室にひきこもった。自分がいることで両親をも傷つけてしまうのではないか、という強迫観念に苛(さいな)まれたからだ。以降、7年間ほぼ両親とは顔を合わせてない。親が出勤すると母が用意した食事をすませて風呂に入り、またひきこもった。両親が休みの週末はほとんど食事をしないこともあった。

「部屋では、本を読むか自問自答するかゲームをするか。どうして自分はここにいるのか、なにゆえ生まれてきたのか。ぐるぐると同じことを考えて、答えが出なくて疲れて眠る。そんな日々でした」

 祖母の愚痴やネガティブ思考を、彼は「先祖から否定された」と受け止めていた。

「先祖全部に否定された、生まれてこなければよかったと。僕が生まれなければ両親もよかったのではないか。父は僕がいるから国の仕事への出向を断ったらしい。母は才気煥発(さいきかんぱつ)な人だから、僕がいなければやりたい仕事もできたはず。僕が両親の可能性を奪ったんだ。毎日、自問自答で苦しくてたまらなかった」

 彼はいまだに、7年の時間感覚がつかめないそうだ。ひどく落ち込んでいたが、あるときから気持ちを封じ、感情を殺すよう努めたからだ。

 裕喜さんの話にはよくお母さんが出てくる。私はどうしても会いたい、と彼に頼んだ。母親の記憶によれば、1度だけ父が無理やりドアを開け、部屋に入り込んだことがある。

「そのとき、私は一瞬、ちらっと裕喜の顔を見たんです。憎しみに満ちたような、ものすごく険しい顔だった」

 両親は、部屋の中で死んでしまうつもりなのかと不安でたまらず、心労の連続だった。

「どうしてひきこもったのか、私の育て方が悪かったのかと自分を責め、その後は、それほど子どもに圧力を与えて育てたわけじゃないのに、なぜと心の中で子どもを責めた。さらに時間がたつと、この状態がいつまで続くのか、私たちが死んだらこの子はどうなるのかと心配になって」

 それでも5年ほどたつと、少しずつ変化が訪れる。彼もその空気を感じ取っていた。

「2階にいても階下の様子がわからないわけじゃない。ふと、父親のドアの開け閉めの音が変わったと思ったことがあったんですが、母と一緒に父も心理学的な勉強をしていたみたい。リビングに父から“今の状態が残念でならない”という手紙が置いてあったこともあります。父も疲れている。そんな気がしました」

 母は母で、生い立ちも含めて自分の人生を見つめ直した。

「実は心を閉ざしているのは息子ではない、私と主人なのではないか、と。彼は大事な青春時代を使って、そのことを教えてくれているのでは、と思い至ったんです」

 不仲だった自分の両親のこと、自分と夫の関係などを母はじっくり見つめていった。

母の何気ない言葉に笑ってしまって

 裕喜さんには両親への恨みはない。ひきこもっている時間、彼は自分を分析しつづけた。そしてある晩、決定的な夢をみる。「理想の自分」と「ひきこもっている自分」が長い対話を交わしたのだ。

「理想の自分が、ひきこもっている自分に“このままでよくないのはわかってるよね”と言う。ひきこもっている自分は“外に出て誰かを傷つけてしまうくらいなら、ここにいるほうが安全”と答える。理想の自分は“殺意が暴走しないように生ける屍(しかばね)になっているのは、並大抵の覚悟ではないよね”と言ってくれる。つまり、理想の自分は、ひきこもる自分を全力で理解しようとするわけです。そしてついに、ひきこもっている自分が言ったんです。“自分が変われば世界が変わる”と

 彼が新たな人生を一歩踏み出した瞬間だった。

 ある日、いつものように両親が外出したあと、風呂をすませ、ふとリビングのピアノに向かった。そして、7年間触れなかったピアノを弾き始めた。夕方になり、母が帰る時間になっても彼は弾き続けていた。

「お風呂上がりだったから、腰にタオルを巻いただけのほぼ裸だったんですよ。母は部屋に入るなり、“どうして裸なの?”と、まるで今朝も会話を交わした続きのようにさりげなく言った。“とうとう部屋から出てきたのね”と大げさに騒がれたら、僕はまた閉じこもったかもしれません。あまりにさりげなかったので僕もつい“あれ、どうしてだろ”と笑ってしまって」

 鏡もほとんど見なかったから、以前より40キロも太っているという自覚がなかった。髪も腰まで伸び放題。鏡を見て、われながらショックだったと裕喜さんは笑う。父が着替えを渡してくれたが、ズボンが上がらない。「何をしたい?」と母に聞かれて「とりあえずやせたい」と答えた。その日から彼は毎晩、母と散歩に出るようになった。

「最初はお腹が邪魔になって、靴のヒモも結べなかった。誰かに見られたらどうしようと思うから帽子にサングラスと完全防備でしたね」

 5分も歩くと身体が痛んだが、少しずつ散歩する距離が延びていった。その間、母とはたわいない会話をしたという。ひきこもりを責められたことは1度もなかった。

 なんとも度量のある母親だと思ったが、実際、母に話を聞くと「いったい、どうしてひきこもったのか、どうして出てきたのかは怖くて聞けなかった」のだという。

「1年くらいは、また戻っちゃうのではないかと薄い氷の上を歩くような気持ちでした」

 目の前の息子だけを見つめ、話をした。哲学や文学の話もした。母は手応えのある話し相手だったようだ。母のすすめでカウンセリングや心理学のセミナーにも行った。

「さてこれからどうしよう、と考えるようになりました。今から大学に行くのも大変。学歴もない。ひきこもったことを生かしたい。そう思ってカウンセラーの講座に通うために東京に戻ったんです」

面接官に目をそらされて開き直った

 27歳のころだった。また祖母とのふたり暮らしになったが、今度は殺意を感じなかった。7年間で殺意を封じ込めることができたからなのか、もともと殺意などなかったのか、あるいは自分を認めることができるようになって気にならなくなったのか、まだ結論は出ていないようだが。

「生活費は稼ごうと思ってコンビニのアルバイトの面接に行ったんです。でも履歴書に書けるのは高校卒業まで。その後、どうしていたかと聞かれ“7年間、ひきこもった”と言うと面接官の顔が曇って目も合わせてくれなくなる。それがいちばんつらかった」

 そういう経験をたくさんして落ち込みそうになったが、彼はそこで開き直った。大きな公園で“心の相談受けつけます。カウンセリングします”というプラカードを持って歩いたのだ。すごい勇気と驚いたが、彼はもともと路上ミュージシャンに憧れていたし「面接官に目を合わせてもらえなくなるほうがずっとつらかった」から、と笑う。

 その後、講演が入ったりテレビに出たりするようになり、現在はライター兼カウンセラーとして活躍している。

 彼が講師として招かれた『ひきこもりを考える勉強会』に参加してみた。裕喜さんは大きな声で会場の空気を作っていく。いつも謙虚で穏やかな彼が、リーダーシップを発揮していて新鮮に映った。

 彼は明るくて共感能力も高いから「ひきこもっていたとは思えない」と言われるそうだ。だが、心の繊細さは変わっていないと思う。ただ、自分の気持ちを率直に表現するようにはなっている。

 あるとき、たまたま私の知人たちと一緒に食事をした。裕喜さんは初対面の彼らに、ひきこもっていたことを話し、「今も社会不適合者かもしれない」と言った。知人たちは、自分がいかに時間を守れない人間か、適当なことを言ってその場逃れをするかを競って話しだした。私も、聞いていて彼らより裕喜さんのほうがずっと真っ当だわ、と感じて笑った。「あなたは大丈夫。これだけしっかりしているんだから」とお墨つきをもらった裕喜さんは、「少し自信がもてました」と謙虚に言った。

 何かを話せば、誰かが背中を押してくれる。孤独から抜け出せば、世界は変わるのだ。それを実感しながら、目の前に現れる壁をひとつひとつ乗り越えているのが、今の彼の状況ではないだろうか。

 会えば誰もが彼のファンになる。人を惹きつける魅力が、今後、彼の強みになるはずだ。

【文/亀山早苗(ノンフィクションライター)】


かめやまさなえ◎1960年、東京生まれ。明治大学文学部卒業後、フリーライターとして活動。女の生き方をテーマに、恋愛、結婚、性の問題、また、女性や子どもの貧困、熊本地震など、幅広くノンフィクションを執筆。