「50周年。“長かった”の一言ですね」
こう話すのは、芸能事務所サンミュージックプロダクションの相澤正久社長だ。
サンミュージックといえば、今ではダンディ坂野、カンニング竹山、鳥居みゆき、髭男爵、そして小島よしおやスギちゃん、メイプル超合金など、バラエティー番組でよく見かける芸人が所属する「お笑い事務所」というイメージが強いかもしれない。
しかし、さかのぼること50年前、実は歌手・俳優専門の事務所としてスタートしていた。
歌手・俳優からアイドル
先代の故・相澤秀禎氏(正久氏の父)は、もともと横須賀を中心にバンドマンとして活躍。しかし'63年、名古屋の喫茶店で昭和歌謡の元祖「御三家」のひとり西郷輝彦をスカウトし、デビューさせる。そのなかで人材を発掘し、世に送り出してムーブメントを起こすことに魅力を感じた先代は、タレント探しに奔走したという。
ある日、日劇ダンシングチームのダンサーの弟に美男子がいるとの評判を聞き、現名誉顧問の福田時雄氏(元専務)が駆けつけると、そこにいたのは森田健作(現千葉県知事)だったそうだ。
「当時、森田は大学受験のため、浪人中でした。親御さんからも芸能界入りを断られたそうですが、何度も口説いたそうです。それこそ、美味しいものを何度も食べさせて、ようやく首を縦に振らせました。やはり人間、美味しいものには勝てませんね(笑)」
きっかけは、薫ジュンの大ヒット曲『夕月』の映画化だった。黛の相手役を決めるオーディションで、一般公募6300人のなかから森田が大抜擢されたのだ。その『夕月』のクランクインに合わせて、1968年にサンミュージックプロダクションが事務所として創業した。
所属タレント第1号の森田に続き、今度は上京してシューズショップでアルバイトをしていた野村将希もスカウトし、当初は男性歌手・俳優が中心の事務所だった。
1970年代に入ると、日本テレビで『スター誕生!』(視聴者参加型歌手オーディション)が始まり「アイドルブーム」が到来。
時代の流れに乗ったサンミュージックは数々のスターを輩出して「女性アイドル事務所」とも評されることも。そして1980年後半、バブル期を迎えたテレビ局ではトレンディドラマの制作が全盛に。
「アイドルが歌うだけの時代が終わり、お芝居をすることも求められてくるようになったんです。ここから、歌えて芝居もできる二刀流のタレントを育てていくようになりました」
ここから始まった「お笑い部門」発足
そしてバブルがはじけた1990年代序盤には、テレビ番組の予算が目減り。各局で、低予算で制作できるバラエティ番組『タモリのボキャブラ天国』『電波少年』『爆笑オンエアバトル』などが生まれた。そこで、現社長が目を向けたのが「お笑い」だったのだ。
「私がアメリカに留学していたころ、『シンガー・アクター・コメディアン』の三本柱でエンターテイメントが成り立つことを肌で感じたのです」という相澤氏は帰国後、数社での仕事を経験して同社グループ傘下のサンミュージック企画に入社。
コマーシャル制作やイベント運営に従事しながらも、“お笑い熱”が冷めず、20年前にお笑い部門を立ち上げることを会社に提案。
「歌、お芝居、お笑いのタレントが揃うと利点だらけなんですね。たとえば営業先で前座と司会もできる。当時、東京では7〜12年サイクルでお笑いブームが起こって、必ずスターが出ていました。だから、その波に乗ろうとして、お笑い部門を立ち上げることを直談判したのです」
しかし、会社の反応はイマイチだったという。
「『うちは吉本さんじゃないんだよ』と一蹴されましたね(笑い)」
当時、吉本興業がお笑いのプロダクションとしてトップに君臨。これまで歌や芝居で勝負してきたサンミュージックがお笑いをやることに対して、周囲の反応も冷ややかだったという。
「たしかに、私はお笑いが好きではあったけど、ノウハウがなかったんです。それで、森田健作の付き人からお笑い芸人に転向していた、ブッチャーブラザーズにお笑い部門のプロデュースを任せたんです。ここから会社に新しい風を吹き込むんだという気持ちで、とにかく必死でした」
しかし、設立して5年の歳月が流れても、これといった芽が出ず、会社の会議では常に肩身が狭かったそう。それでも、大好きなお笑いを信じ続け、所属タレントを全力でサポートしてきた。そして、ようやく火がついたのがアノ人だった。
「ダンディ坂野ですね。『爆笑オンエアバトル』(NHK)で披露した“ゲッツ”が受けて、ようやく弊社の芸人たちが注目されるようになったんです」
その後は、冒頭でも触れた多くの売れっ子芸人を輩出。こう見ていると、サンミュージックはどの時代も柔軟に対応し、一流のエンターテイメントを生み出していることがわかる。
所属タレントやスタッフはみんな家族
「先代は“タレントは家族だ”と常に言っていました。特にタレントが10代のころは集団生活のなかで、人として成長してもらいたいという想いがあったそうですね」
酒井法子も、“ひとつ屋根の下”で生活していた女性のひとりだ。
「朝は6時から先代社長とジョギングして、そこでコミュニケーションをとっていましたね。成城の自宅を出て、30分ほどのコース。タレントは普段忙しいから、あまり顔を合わせないんですが、なるべく時間を作って、いろいろ悩みを聞いてあげたりしていたそうです」
そんな先代の想いを引き継いだ相澤氏も、所属タレントとの距離感に気を配る。タレントの現場やイベントにはなるべく顔を出し、自身のオフィシャルブログ『あいざわです!!』でも、ツーショット写真を掲載しているほどだ。
芸能プロダクション社長と所属タレントというよりは、お爺ちゃんと孫の記念撮影。かつてブログに掲載したメイプル超合金との写真を見てみると、ふたりに挟まれて押しつぶされそうになりながらも、笑みを浮かべた相澤氏がうつる。
「私も、タレントのことを家族だと思っているんです。だから、現場にはできるかぎり顔を出すし、逆にタレントたちもよく社長室に遊びに来てくれるんですよ。それに子どもが生まれたら、一緒に連れてきてくれますしね。素直に嬉しいですね。
みんな『社長』なんて私のことを言うんだけど、それはもはや私のニックネームみたいなものかな(笑)」
そんな「父親」として、女性タレントの恋人選びについては自説があるそうで…‥。
「うちの女性タレントたちを見ていると、彼女たちの人生が結婚後、男性によって大きく左右されていることが多いように思います。
私が男性を選ぶうえで大切だと思うのは、自分本位ではなくて相手の立場になって考えられる人だね。あとは同じ時間を過ごしてくれる人。そして何と言っても、言動が一致している人がイチバンだよ。結婚相手には、こういう男性を選んでほしいですね。具体的に言うと、早見優の旦那さんみたいな方がいいかな(笑)」
嬉しそうに話す相澤氏は、心底「人」が好きなのだろう。
今後の展望
「今では、テレビだけではなく、インターネットでも情報が入手できます。要は視聴者が自分の好きな番組を選べるようになったのです。それによって番組制作も多様化し、特定ジャンルにフォーカスしたコンテンツも多く作られています。
うちでは、プロレスの鈴木みのるや軍事ジャーナリストの井上和彦など多くのスポーツ選手や文化人も活躍していますね」
現在、相澤氏は時代の流れを意識して、専門分野に長けた人材を発掘し、タレントとして養成しているそうだ。
父親のような愛情と屈託のない笑顔が、誰もが安心して帰宅できる“家”を守っている。そして、いつの時代も世間やメディアのニーズを的確に捉え、日本のエンターテイメント業界に貢献してきた。サンミュージックは今年11月27日に創業50周年を迎えるが、これからも一流のタレントたちを世に輩出していくのだろうーー。
<プロフィール>相澤正久(あいざわ・まさひさ)◎株式会社サンミュージックプロダクション代表取締役社長。1971年6月米国大学卒業、太平洋クラブ、京王観光を経て、'79年株式会社サンミュージック企画に入社。'95年取締役副社長に就任し、'96年からお笑い部門プロジェクトGETを立ち上げ、お笑い芸人の育成に力を入れる。'04年12月に代表取締役社長に就任。
(取材・文/新津勇樹)