国立オリンピック青少年総合センターの練習室は、Jポップの曲に合わせて踊る50名ほどの若者たちの熱気に包まれていた。ブレイクダンスの床技から逆立ちするひと、上半身をしならせて美しいターンをするひと、延々とジャンプを繰り返すひと。みな型にはまらない自由な表現をしている。

 この団体の名は『LOVEJUNX(以下、ラブジャンクス)』。世界初のダウン症のひとたちのためのエンターテイメントスクールだ。東京をはじめ北海道、大阪、沖縄に拠点を持ち、総勢600名ほどの会員がいる。

 一緒に踊りながら、生徒を鼓舞するのが代表の牧野アンナさん(46)。かつて安室奈美恵とともに『スーパーモンキーズ』でデビューした元アイドルだ。父は安室を見いだした沖縄アクターズスクールの創設者、マキノ正幸さん(77)。アンナさんも引退後はスクールのメインインストラクターとして、SPEEDやDA PUMP、三浦大知を育てた。現在は振付師としてAKB48やSKE48らの振り付けの指導もしている。

振付師、『LOVE JUNX』代表 牧野アンナさん

 華やかな芸能の世界とは異なるラブジャンクスの活動をアンナさんが始めてから、今月で17年目となる。

「最初は私もダウン症の子たちについて何も知らず、大変だとか頑固だとか、体力がないといったネガティブな情報しか入ってきませんでした。

 でも今、私が一緒にいる彼らはとてもハッピーで、健常者といわれる私たちよりずっと正直で健全なんです」

 みな普通にコミュニケーションがとれるし、傷つき、恋もする若者たちであり、自分の好きなことを見つけて、人生を楽しんでいるのだ、と。

「もし家族が大変なのだとしたら、それは理解のない社会と闘っていかなければならないからで、この子たちが大変なんじゃない。そういう情報がまったく伝わっていないんです。私はエンターテインメントを通して、彼らの姿を届けたいと思っています」

 アンナさんが大事にしていることは振り付けがそろうことではなく、本人たちの色を出すこと。そこに他者にはかなわない表現があるという。

 休憩中、生徒の那須絵里子さん(31)がレッスンについて生き生きと語ってくれた。

「始めて15か月ですけど、とにかく楽しいんです! 土曜は仕事もお休みですしね。来年は中野サンプラザで発表会もあるんです」

 高校3年の山口美紗さん(18)の母、三枝さん(55)は、一歩先を行く先輩たちの姿を見ると励みになるとしたうえで、こう話してくれた。

「いろいろな子どもたちがいますが、アンナ先生はひとりひとりの目線に合わせた指導をしてくださいます。健常者のクラスでは白い目で見られたりして、行く場所もなかったんですが、ここでは子どもたちがみんな堂々としているんです。先生ならほかにもたくさんお仕事があるはずなのに、こちらを優先してやってくださって、本当にありがたいです。アンナ先生はここが(胸を指して)温かい人だなと。そうでなければ引き受けてくださらないでしょう」

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 今年8月の24時間テレビにラブジャンクスが出演し、AKB48らと競演した。そのようなメディアへの登場も、より多くの人にラブジャンクスやダウン症について知ってもらえる機会になればとアンナさんは考えている。

 現在、秋葉原のAKB48劇場では『牧野アンナプロデュース公演』が行われている。稽古中、ファンの間では「鬼軍曹」と称されるアンナさんの手厳しいゲキが飛んだという。そこにはラブジャンクスで見せるやさしい表情とは異なる、シビアな世界で生きるアイドルたちへの厳しい眼差しがある。その公演のキャプテンを務める村山彩希さん(21)は語る。

「パフォーマンスをなんとなくやっちゃってると、メンバーの前でOKが出るまでひとりで踊らされるんです。最後はみんな泣きながらやりました。私もその立場になったんですけど、全然OKが出なくて!」

 しかしその経験を経て、チーム全体にがむしゃらに取り組む姿勢が生まれたという。

「アンナさんはステージに立つ側とスタッフ側と両方経験されているので、言葉にすごく説得力があって信頼できるんです。ご自分の失敗談も全部さらけ出して話してくださるので、アンナさんは本気なんだなって。じゃあ自分たちも本気でぶつかっていこうと決めました」

AKB48の公演後にチーム4のメンバーと。アンナさんの右隣が村山彩希さん

 アンナさんによって新しい息吹が吹き込まれた公演は、これまでにないAKB48を体現していると好評だ。

「いま仕事をしている若い子たちが抱えている不安や悩みが手に取るようにわかるし、どうしたらそこを抜け出せるかもわかるんです。希望に満ちた人間がいかに短い間でダメになってしまうか、身をもって体験しているので。嫌な経験も、指導者となった今、活(い)かせる場面があると感じています」

 そう話すアンナさんにも、居場所を求めてさまよったつらい過去がある。その起伏に富んだ道のりを辿(たど)る。

津川雅彦宅に居候し、ソロデビュー

 1971年12月4日、東京で生まれた。2つ上に兄がいる。曽祖父は日本映画界の祖といわれるマキノ省三、祖父は映画監督のマキノ雅弘、父の従兄弟(いとこ)には俳優・長門裕之、津川雅彦がいるという芸能の家系だ。

 アンナさん1歳のとき一家は沖縄へ移り住む。

「父は遊びで訪れた沖縄が気に入り、親からの遺産も手にしていたので、ここで何か始めようと移住したようです」

 アンナさんが10歳のとき、父は俳優を養成する沖縄アクターズスクールを始めた。人見知りしがちだったアンナさんも母のすすめで入校し、すぐに芝居に夢中になった。

 やがて時代は松田聖子や中森明菜といったアイドルの全盛期を迎え、スクールも子どもたちの歌とダンスを育成する場に転換していく。次第にアンナさんもアイドルデビューへの夢を膨らませていった。

 14歳のとき、オーディションを受けたいと上京する。手を差しのべてくれたのは津川雅彦であった。

津川雅彦さんに愛娘をお披露目した食事会にて

「父と相談しにいくと、津川さんは、うちで預かるよと言ってくれました。(娘の)真由子もきょうだいがいないからアンナがうちに来てくれたらうれしいだろうからと」

 津川はオーディションのブッキングをしてくれ、日舞やダンスの稽古に通わせてくれた。実娘と同じように食事や観劇に連れていき、洋服も買い与えてくれたという。

「値札なんか見なくていいから、お前の欲しい服を選べと。私の願いを叶えようと面倒をみてくれ、夢のような生活を送らせてくれました」

 津川は帰宅すると決まって長い時間うがいをし、“この世界でやっていくなら、とにかく風邪をひかずに自分に来た仕事は全うしなきゃいけないよ”と話していたという。

 アンナさんは15歳でデビューを果たす。当時大人気だったゲーム『ドラゴンクエスト2』のメッセージソングが初シングルで業界初のゲームとアイドルのタイアップも話題となり、売り上げを伸ばした。

15歳、ソロアイドルデビュー当時のプロフィール写真

「事務所も若い子がいなかったので、お姫様のように扱ってくれました。初めは謙虚な気持ちでいたんですが、徐々にその扱いに慣れてくると、荷物を持ってもらえないだけで“気がきかないな”なんて思うようになりました」

 2作目はまるで売れなかった。来る仕事にも不満を抱くようになった。

「有名になる人の陰には売れない人が何千といることを初めて知りました。でも自分が売れないのは周りの大人のせいと決めつけていたんです」

 それでも事務所が売ると決めているうちは手厚く扱われた。しかし新人が入ってきた途端に、誰からも声をかけられなくなったという。

「ようやく厳しい現実を知りました。思い上がっていた自分にやっと気づいたんです」

 結局、契約途中で事務所を辞め、父が預かるかたちで沖縄に戻ることになった。

沖縄を背負い、安室らと再デビュー

「“売れないから帰りました”なんて恥ずかしくてたまらないと思ったんですが、アクターズの同期たちがまた一緒にやろうと温かく迎えてくれました。ところが父からは“お前は表の才能じゃない、裏だ”と言われ、指導する側に放り込まれたんです」

 16歳でインストラクターとしてクラスを持たされ、振り付け指導もするようになる。スターへの未練が残っていたアンナさんにとって、それはあまりにも酷で、家に帰ると涙が込み上げる日々が続いたという。

 あるとき父が、小学生だった安室奈美恵をスカウトし、特待生として入校させた。

「父は奈美恵が歩く姿を見ただけでこの子は歌って踊れると感じたと言います。“安室以上の子はもううちには現れないから絶対、失敗できない。心技体を徹底して指導しろ”と言われました」

 20歳のとき、安室をはじめ、自分が指導してきた後輩たちとスーパーモンキーズを結成。再デビューをした。

「父にお前はやめろと言われましたが、私は15歳のときに努力しなかった後悔がずっと残っていたので、絶対やらせてくださいと頼みました。父からはスーパーモンキーズが失敗したらアクターズの次はないと言われたので、自分たちが突破口を開かなかったら沖縄の未来はないという心づもりで上京しました

 アンナさんは14、15歳の後輩たちを自分がきちんと育てなければと気負っていた。休日も朝のランニングから始まり、琉球空手の型の練習、歌とダンスのレッスン、勉強と規則正しく過ごさせたという。

 元メンバーで、現在アンナさんとAKB48グループの指導も行う、振付師の新垣寿子さん(41)が当時を振り返る。

「沖縄ではやさしかったアンナさんが、東京では鬼教官のようでした。美容院へ行くと言って、友達と遊んで帰ったら、嘘(うそ)がばれてしまい、激怒されたことがあります。みんな沖縄を背負ってやっているんだよと。アンナさんもまだ若かったのに、弱さを見せず完璧でしたね」

MAXのライブにて新垣さんと

 公も私も奮戦していたアンナさんであったが、わずか半年後に引退する。それは同じステージに立つ安室の傑出したカリスマ性に、自分はとうてい及ばないと悟ったからという。

「奈美恵は才能があるうえに努力を惜しまない子でした。誰もいないスーパーの営業でも歌って踊れる場所がある!とうれしそうにしていて。過酷な環境も楽しんでやっているのを見たとき、私には勝てっこないと思いました」

 やり切った思いがあり、裏方としてやっていく決心がついた。沖縄に戻ると父はこう言ったという。

「表舞台に立つだけがスターじゃない、スターを育てた人という注目のされ方もある、お前はそこを目指せ」

父が突然の大激怒で“沖縄追放”

 アンナさんは沖縄アクターズスクールのチーフインストラクターに就任した。安室がブレイクしてSPEEDが続き、アクターズスクールのブームがやってくる。生徒も600名にふくれ上がっていた。

父からは365日、24時間、子どもたちのことを考えて、どんな状況でも冷静に彼らを守れなきゃダメだと言われました。

 いきなりミュージカルの脚本を書けと言われたこともあります。できませんと言うと叱責されました。なんとかかたちにできたとき、父は“お前が自分の能力を決めつければ、子どもたちにもそれがうつってしまう。なんでもやろうと思えばできるんだ。たとえ失敗しても失敗したという経験が得られる。だから楽なほうに行ってもしかたないんだよ”と話してくれました

 スターを次々と輩出し、“裏方”のアンナさんも脚光を浴びるようになったとき、父は自分以上に自分をわかっていたのだと思った。

父、母、兄、アンナさん(9)の家族写真(撮影=加納典明)

 一躍、時の人となった父のもとにも国家プロジェクトや沖縄の観光のプロデュースなどの依頼が舞い込むようになった。

「だんだんと父が変わり始めて、一緒にやってきたプロダクションの方たちとも揉(も)めるようになり、芸能界から総スカンをくらう状況になったんです。アクターズスクールからのデビューのルートが全部断たれて、生徒たちもたくさん辞めていきました」

 そんな中、アンナさんがなんとか学びの場をつくろうと開いたスクール内の発表会で、父に“お前のせいでスクールのレベルが下がった”と何時間も罵倒(ばとう)され、日々の厳しい指導に不満がたまっていた生徒たちからも怒りの矛先を向けられてしまう。

 アンナさんは事実上、追放される形で、横浜のアクターズスクールに異動することとなった。

「自分が全否定されたようで、これまでの10年は何だったんだろう? と絶望しました」

ダウン症の子たちがくれた居場所

 ’02年の4月、横浜で、父と離婚していた母と暮らし始めた。

「毎日泣いている私を見て、母もこの子は大丈夫だろうかと心配していたようです。ほかに行く場所もなく、積み上げてきたものをゼロにする勇気もないままでいたんです」

 ちょうどそのとき、日本ダウン症協会からダウン症児のダンス発表会を見てほしい、と依頼がきた。全国5か所を月1で指導することになる。

「ダウン症の子が80人ほどいる中に1人で入るのが不安で。意思疎通は可能か? 暴力的な子はいないのか? すらわからずにスタートしました」

 最初に話をしたが、みなつまらなそうにしていたため、アンナさんはとりあえず自分が踊ってみせた。すると全員が一斉に踊りだしたという。

「普通、素人の子に自由に踊ってと言っても、絶対できないんです。どうしていいかわからないと。それなのに、あの子たちは座って見ててと言ったのに、私のことなど誰も見ずに好き勝手に踊り始めたんです!」

練習中、即興でラインダンスの体勢になる子どもたち

 アンナさんも1時間、夢中で踊り、汗だくになった。

「こんなに楽しく踊ったのは何年ぶりだろう!? って。私は“実績のある先生”として偉そうにしていながら、生徒たちより下手だったらどうしようと何年も踊れずにいたんです。下手でもみんなと一緒に汗をかくべきだったのに」

 レッスンのたびに子どもたちはアンナさんに抱きついてきた。そんな愛情表現も初めてだったアンナさんは、「みんなと離れたらすごく寂しい」と思うようになる。

 発表会前の最後のレッスンの日、保護者からもらった手紙にはこう書かれていた。

この子たちのダンスとも思えない踊りを先生がすごいと褒めてくれて、レッスンのたびに子どもたちの意思を聞いてくれ、叱(しか)ってくれて、認めてくれたことが本当にうれしかった。この子たちはほかでは受け入れてもらえないから、発表会が終わったらもうダンスはできないし、先生ともお別れしなければならないのがとても悲しい。先生が続けてくれることを願っています」

 ダンス指導者としての自信を失い、どう教えたらいいかもわからなくなっていた自分に、そのやり方がいいと言って、必要としてくれる人がいる……。

「タレント養成所の先生はいくらでもいるけど、この子たちの先生になりたい人が今いないんだとしたら、私がこれをやればいいんじゃないかと思ったんです」

 アンナさんは沖縄に飛び、父に辞意を伝えた。最初は驚いた父も、そういう事情なら応援すると言ってくれた。

「発表会の最後に、残りの人生をこの子たちと生きていくと決めて、アクターズスクールを辞めます! と言ったら、客席にいる親御さんたちがわーって泣いて、ステージへ駆け寄ってきて、先生ありがとうございます! と言いました。その瞬間、ああこれはもう絶対辞められない、と覚悟したんです」

「自由に踊ることを大切にしている」とアンナさん

 その年の10月、アンナさんはラブジャンクスを立ち上げた。集まった会員は100名を超えていた。

「レッスン初日に、私のやりたかったことはこれだ! と実感しました。生徒や親御さんたちがみな楽しそうに笑ってくれているのを見たら、これは頑張らなくてもずっと続けられるなと思いました」

 16年間、毎週、福島から片道3時間半かけてバスで通う吉村悠希さん(33)の母、真澄さん(61)は言う。

「正直、大変ですけど、息子の心の拠(よ)り所ですから。帰りのバスの中は必ずルンルンしているんです。私もそれを見て笑顔になれてね」

 中学2年の高井友花さんの母、智春さん(51)も、子どもたちが自分を解放できる場だと話す。

「ダウンの子は音楽が流れてくるといつでも踊っちゃうんです。走ってる車の音楽にも反応し道で踊っちゃったり。通学の際はさすがに我慢しているのですが、娘はここで弾けてます! アンナ先生は献身的にあちこち拠点をつくって。感謝しかしないですね」

 アンナさんは今後も全国に輪を広げて、いずれオールジャパンで日本武道館を目指したいと考えている。

「簡単にいくことではありませんが、今いるインストラクターたちのように信頼できる人と地域ごとに出会って、きちんとしたかたちでつなげていけたらと思っています」

「後輩を育てて」と安室が切望

 ラブジャンクスの活動に専念し、芸能の仕事から離れていたころ、デビュー15周年を迎えた安室と再会し、「デビュー当時は苦しかったけど、あれだけのことがやれたんだから頑張れるというベースになりました。アンナさんの教えがあったから、何があっても踏みとどまれた。今の子たちのそこを育ててほしい」と頼まれた。

「私はもう芸能人を育てる現場には戻りたくないと思っていたんですが、奈美恵に自分の経験がよかったと言われたことがうれしくて、またやってみる気になりました」

 安室の事務所の後輩たちのレッスンを見るようになり、やがてAKB48などの活動につながっていく。

 そんな芸能とラブジャンクスの両方の活動をマネージメントしているのが『株式会社バッシライン』代表の松川直也さん(41)だ。松川さんはラブジャンクスの拠点の立ち上げやCD制作など、アンナさんのアイデアをかたちにするサポートも担う。

「CDをつくったとき、周りからはダウン症の子が歌うなんて無理だと言われたんです。牧野は否定されればされるほど燃えると話していましたね。前例がないからやる意味があるんだと。

 彼女は芸能の仕事も全部ラブジャンクスに返ってくると信じてやっています。『世界ダウン症の日』のイベントにISSAや三浦大知らが無償で出演してくれるのもそうした信用があってのことです。2人とも教え子ですしね」

 実は、松川さんとアンナさんは元夫婦なのだが、2年前に“お互いが心地よい状態でいられるよう”結婚を解消した。

「一緒に住んでないだけで、娘のさり(6)と3人で旅行も行きますし、僕は家族だと思っていますよ」

 アンナさんは松川さんとともに、さりさんが本当にやりたいと思うことを実現する応援をしたいと話す。

「私自身、今やりたいことがやれているのは、松川や私が仕事のときに家を守ってくれて、つらいときもずっと励まし続けてくれた母のおかげなんです。私も娘に対してそうありたいと思っています」

絶縁中の父に抱く、複雑な思い

 来月、アンナさんの原点ともいえる沖縄アクターズスクールの35周年を記念して、同窓会が開かれる。バラバラになってしまった生徒たちの集まれる場をつくりたいというアンナさんの思いが実現する。本来なら創設者で校長である父、正幸さんを囲んで行いたいが、そうできない事情がある。

「父から沖縄アクターズスクールを辞めた人間とは連絡を断てと言われてきたので、その仲間たちとも疎遠な時期がありました。

 でもアクターズを辞めてラブジャンクスを始めたとき、ダウン症の子たちにハッピーに生きていくことの大切さを教えられましたし、そのとき助けてくれたのもアクターズの仲間たちだったんです」

 アンナさんはスクール側の人間として、仲間を切り捨てる姿勢をとってきたことを猛省した。そしてまた仲間とつながれたとき、もう2度と自分がつくり上げてきた関係を断つような生き方だけはしたくないと決めたという。

’08年、沖縄アクターズのみんなと。父とは約10年、音信不通

「父には縁を切ると言われ、横浜の教室も出入り禁止となりました。10年前に連絡があって会ったときも、考え方が変わっていなかったので、訣別したのです」

 父は元気にしていると伝え聞く。アンナさんは、いつか普通の父娘の関係を築けたらと願っているが、まだ時が満ちていないと感じている。

「アクターズで経験させてもらったことが今の私をつくっています。私が教えるときに語る言葉は、父から言われてきたことなので、本当にたくさんのことを教わったと感謝しています。その気持ちを伝えられる状況にないことが残念です」

 この父と娘をずっと見守ってきた人物で、正幸さんとは20代からの付き合いという写真家・加納典明さん(76)が語る。

アンナはあの独善的な親父の下で自分を見失わずによく育った。アンナがダウン症の子たちが踊るのを見て、常識的な視点とはまったく違って、彼らの目の輝きや動きの中に何かを見つけていったのはやっぱり才能だと思う。マキノも人の才能を見つける類いまれな力があるが、アンナのそれも親父譲りで、そこが親子なんだよ。通俗的な親子関係の修復とかで俺が出ていくことはないし、2人とも自分を生き切ればいいのよ」

 アンナさんが父から受け継いだ“才能を見いだす力”が、今、社会を動かそうとしている。最後にアンナさんが晴れやかにこう語る。

ダウン症の子たちは、私を大きな愛で包んでくれて、私の居場所をつくってくれました。その居場所があるから、私はほかで何があっても、自分を卑下することなく頑張れるんです!

 世の中で彼らの居場所をもっと広げたい。普通に健常の子たちと友達になれたり、一緒にバイトをしたり、車を運転したり。彼らは時間がかかってもできるようになることがたくさんあるんです。ラブジャンクスの活動で理解を広めて、彼らがいろんな扉を開くのを応援したいと思っています」

 アンナさんの誇りが子どもたちに連鎖していく。

 挫折と葛藤の果てに辿りついたアンナさんの生きる道。近くで、遠くで見ている人たちに支えられ、アンナさんは前だけを向いてゆく。

(取材・文/森きわこ 撮影/齋藤周造)

森きわこ(もり・きわこ)◎フリーライター。東京都出身。人物取材、ドキュメンタリーを中心に各種メディアで執筆。13年間の専業主婦生活の後、コンサルティング会社などで働く。社会人2人の母。好きな言葉は、「やり直しのきく人生」