「オラ、ブエノスタルデス(ハイ、こんにちは)!」
Jリーグ公式戦を翌日に控えた神戸市西区のヴィッセル神戸育成センター『三木谷ハウス』の食堂に、午前練習を終えた元スペイン代表のスーパースター、アンドレス・イニエスタが現れた。彼と通訳に続き、トップチームの面々がやってきて、自分の名前をノートに書く。寮母である村野明子さん(51)ら調理スタッフにその日のメインディッシュを作ってもらうためだ。
「サラダやフルーツ、付け合わせなどは事前に準備してテーブルに置いておきますが、ローストビーフやステーキなどのメイン料理は最高の状態で食べてもらうために、選手が来てから作るようにしています。やっぱり料理は温かいものがいちばん。冷たいものは出せません」
明子さんがアスリートの食をあずかるうえで大切にしていることは栄養面に限らない。
選手の要望をできるだけ聞いて、ストレスなくバランスのいい食事をとれるようにするのも、彼女の仕事だ。
スペイン人のイニエスタは、三木谷ハウスで食べるビュッフェが大のお気に入り。トマトの煮込み料理が特に好きだという。彼は食事に特別な注文をしないが、「塩味」や「油抜き」など好みやこだわりを主張する選手もいる。
「トップチームのビュッフェを担当するのは試合前日の昼だけですが、普段は三木谷ハウスに住むユース(高校生)40~50人やトップチームの若手選手の食事を作ります。彼らにおいしいものを食べてもらうことが私の生きがい。毎日が本当に充実しています」
“美しすぎる寮母”の異名をとる明子さんはやわらかな笑みを浮かべた。神戸の精鋭たちがピッチ上で日々、全力を尽くせるのも栄養バランス満点の食事のおかげなのである。
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Jリーグのチーム『コンサドーレ札幌』と『ヴィッセル神戸』で寮母を務めて16年。選手に食事を提供してきた明子さんだが、かつてはスポーツとも、料理とも全く無縁の生活を送っていた。
1967年6月、東京都練馬区で生まれた彼女は兄3人がいる4人兄妹の末っ子。男ばかりの家庭だからこそ母親の手伝いをよくする娘だったのかと思いきや「実は結婚するまでほとんど料理をしたことがなかった」と苦笑する。
「小さいころは人見知りで忘れ物ばっかりする女の子。目立つタイプではありませんでした。高校卒業後に化粧品会社で働くようになり少しは人前で喋(しゃべ)るようになりましたが、積極的に前へ出ていくほうではなかったですね」
24歳で結婚。夫・晋(すすむ)さんがアルバイトしていた飲食店で知り合い、6年間の交際を経て結ばれた。4つ年上の晋さんは当時、駒沢大学のサッカー選手。卒業後はJリーグの前身・日本サッカーリーグの全日空でマネージャーとして働いた。’94年に日本サッカー協会(JFA)へ出向。同年、全日空で監督をしていた加茂周氏が日本代表監督に就任すると、彼も日本代表スタッフに抜擢(ばってき)され3年間、激務をこなすことになった。遠征準備や会場視察で毎月のように海外へ赴く日々……。深夜にタクシーで帰り、早朝に出ていく生活を余儀なくされた。
一方、明子さんは化粧品会社を寿退社。’95年、夫が多忙を極めていたとき、長男・実(みのる)さんを出産し、ほぼひとりで育児をこなすことになった。
「主人が夜中の3時に帰宅して、朝5時にサウジアラビアに向けて出発するといったことがたびたびありました。両親にも頼れない状況で、風邪やインフルエンザに自分がかかったときは特につらかったですね。アニメ『母をたずねて三千里』を子どもたちに見せながら、2時間トロトロしたりして……。主人も日本代表を支える重圧で睡眠や食事も満足にとれず、家族を思いやる余裕もなかったのだと今なら理解できるのですが、別人のようにピリピリしていた時期でした」
そこまでJFAの仕事に注力していた晋さんだが、加茂監督が’98年フランスワールドカップアジア最終予選の最中に成績不振で解任されると、JFAを退職。その後、岡田武史監督が後を引き継ぎ、日本代表は「ジョホールバルの歓喜」で史上初の出場権獲得を達成した。
JFA職員の立場で辞める必要はなかったが、晋さんは尊敬する恩人が去るならば、と自分も身を引く決断を下したのだ。
ちょうど明子さんは長女・向日葵(ひまわり)さんを妊娠中で、働きには出られない。晋さんは、トラックを港から輸送する仕事やパン製造の夜勤アルバイトなどをして家計を支えた。
その後、2002年日韓ワールドカップ組織委員会に再就職したが、この仕事も期間限定。大会終了後は再び無職となった。そのころには少し子育てから手が離れていた明子さんも、昼はトンカツ屋、夜は焼き肉屋でアルバイトをして、失業状態の夫をサポートしたという。
「“主人の人生に口を出さない”というのが私のモットーなんです。そう感じたのは、主人が全日空に入ったとき。私は何もわからず“社員のほうが安定していていいんじゃない?”と言ったけど、彼は“勝ち負けに関わる仕事に就くんだから契約で”と考えていた。価値観の違いを痛感して、やっぱり自分で納得いくようにしてもらったほうがいいと思ったんです。私の母も、父を立てつつ自分がやれることを最大限やっていて、その姿を見ながら成長しましたから」
このとき、明子さんはどんな状況でも黙って夫を支える決意を固めていた。
厳しい世界で闘う選手に胸打たれ
’03年1月、そんな彼女に転身のチャンスが巡ってきた。晋さんにJ1『コンサドーレ札幌』の管理部長就任の話が舞い込んだのだ。当初、夫は単身赴任で札幌に向かったが、2か月後、明子さんは思わぬ言葉をかけられる。
「こっちに来て、選手に料理を作ってくれないか?」
クラブからは「2日で返事がほしい」と半ば強引に決められ、明子さんは熟慮する間もなく了承。突如、幼い2人の子どもとともに慌ただしく移り住むことになった。
晋さんは、妻に寮母を頼んだ背景をこう振り返る。
「管理部長の仕事はトップチームの編成から選手補強、彼らの環境作りまでを一手に手がける幅広いものでした。そこで選手に食事のことを聞いてみると、午前練習の後はコンビニ弁当ですませたり、夜は居酒屋で飲んだりしていた。食生活が乱れると、パフォーマンスも低下する。危機感を抱いた私は、彼らにきちんと食事をとらせるために、チームに一軒家を借りてもらい、妻の作った料理を提供することにしたんです」
選手たちはそれぞれ借り上げマンションで生活していたため、車で10分くらいの場所に一軒家があれば、行き来もしやすい。そう考えての決断だった。
結婚前は料理経験が皆無に等しかった明子さんもこの時点で主婦歴8年。ひととおりのメニューは作れるようになっていた。学生時代に割烹(かっぽう)居酒屋で働いていた晋さんもかなりの料理エキスパートだが、その夫が「ウチの奥さんはまずいものを出したことがない」と称賛する腕前だ。
それでも、プロのアスリートに食事を出すというのは、当時の彼女にとって高いハードルだった。しかし、選手の食事管理は急務の課題。思い切って飛び込むしかなかった。
明子さんはスポーツ選手の栄養学に関する専門書を何冊も貪(むさぼ)り読み、基礎的なことを学んだ。そして勉強を重ねるうち、工夫次第では家庭料理でもアスリートの身体を作る料理はできると感じるようになる。
「でも、大皿で肉料理やサラダ、煮物を出すと、彼らは肉ばかり食べるんで、野菜や副菜が残ってしまう。せっかく色とりどりのメニューにして、バランスよく食べてもらおうと思っても、なかなかうまくいかない。本当に悩みましたね」
最初の一歩は順風満帆ではなかった。一軒家だったため、設備の問題にも悩まされたという。
「家庭用コンロが3つしかなく、冷蔵庫も小さいので買い置きができません。毎日買い出しに行かないといけないし、作れる料理もまちまちになる。温かい料理を出したくても、時間差で作らなければ、冷めてしまうこともある。大変でしたね……」
寮母になりたての当初、もうひとつ悩ましかったことがある。それは選手との関係づくりだ。20歳前後の選手から見ると、30代半ばの彼女は年の離れた遠い存在。もともと控えめな性格の明子さんは、彼らとどう接していいかわからず、コミュニケーションがとれなかった。選手たちの考えや食事のニーズをダイレクトに聞くことができず、焦燥感ばかりが募る日々を送った。
「最初の1年はただモヤモヤしたまま時間が過ぎました。そんな煮え切らない自分を変えてくれたのは、戦力外通告を受けた選手でした。高校を出てプロになったばかりの若い子が契約満了となり、クラブを出ていく……。個別に挨拶に来てくれるのですが、つらさを押し殺して申し訳なさそうにする姿に無力感を覚え“もっと選手たちと深く付き合わないとダメだ”と強く感じたんです」
「変わらなきゃ」という思いが明子さんを突き動かした。
「何か困ったことがあったら言ってね」
意図してそう声をかけるようになったのだ。すると一軒家の雰囲気はガラリと一変。選手たちが気さくに接し始めた。その変化に誰より驚いたのは彼女自身だった。
会話を重ねていくうちに信頼関係も生まれ、徐々に打ち解けていったという。
ひと皿で栄養フルコース!
寮母3年目の’05年、ユース育成寮『しまふく寮』に移ってからは、より一層、本格的な仕事に取り組んだ。そこで明子さんは「アッコさん流・栄養満点ワンプレート」を編み出す。
「私がメニューを考えるうえで徹底しているのは、タンパク質の赤、カルシウムの白、ビタミンの緑、炭水化物の黄、鉄分の黒という5色の栄養が必ずそろう状態にすること。カルシウムと鉄分は摂取しにくいので、しらすやチーズ、わかめや海藻類を意識的に入れる工夫をしています。ワンプレートならこうした栄養素がひと目でわかるし、カラフルで、おいしそうに見える。洗い物も大幅に減らせます」
1人1食当たり7枚もの皿を使うため、忙殺されていた洗い物の時間は大幅カット。一気に効率化が進んだ。加えて、食材の余りも格段に減り、いいことずくめだった。
「今ある食材からメニューを考える」という主婦ならではの発想に転換したことも大きかった、と明子さんは言う。
「ほうれん草のおひたしを作ろうと思うと、冷蔵庫の中がほうれん草でいっぱいになってしまうことがよくあった。企業の寮では1か月分の献立を先に出しているところもありますけど、やっぱり肉や魚、野菜をちょうどいい分量でそろえておくのは難しいですよね。“あるもので今日何を作るか”と考えると楽になり、その工夫をすることにも、やりがいを感じるようになっていきました」
厨房でイキイキ働く明子さん。その料理を食べる選手たちにも、前向きな気持ちはしっかり届いていた。当初はユースに所属し、’09年まで札幌でプレーしていた元日本代表DF西大伍(鹿島)は、こんなエピソードを明かす。
「自分の誕生日になると“何が食べたい”って聞かれるんで“ジャガイモが食べたい”と言ったら、すごくおいしいジャガイモ料理を作ってくれたのをよく覚えています。
18歳ってサッカー選手にとってすごく大事な時期なんです。トップに上がると練習もハードになるし、身体のことも真剣に考えなきゃいけない。あの時期にアッコさんの料理で過ごせたことはすごくプラスになっています」
しまふく寮には村野一家が住み込めるよう3LDKの部屋が設けられていた。明子さんは寮生たちの母として深い愛情で接し、晋さんは厳しい父親として毅然(きぜん)と振る舞った。
「オフシーズンのときだったかな、夜中に廊下でサッカーをやってたら、晋さんから“おい、お前ら何やってんだ”と怒鳴られたんです。寮にはユースの選手もいて、彼らは休みじゃない。配慮せずに僕らが騒いでいたのを見逃せなかったんでしょう。そういう晋さんの横で、やさしいお母さん役のアッコさんが、黙って見守ってくれたからこそ、安心してサッカーに打ち込めた。感謝しかないです」
しまふく寮は18部屋で、高校生と若手プロ選手25人の面倒を見ていた。
しかし、’08年末に別れのときが訪れる。管理部長から寮長、GMへと昇格した晋さんがJ2(Jリーグ2部)降格の責任を取って辞任することになったからだ。選手を息子のように慈しみ、可愛がっていた明子さんにとってもつらく悲しい出来事だったが、「私は夫とともに人生を歩む」と札幌を離れる決断を下す。涙を流してくれた選手もいた。感極まった明子さんは若者たちの成功を願い、寮を後にする。
60人分の食事にも手間暇かけて
’09年1月、赴いた新天地は神戸。晋さんと親交の深かった当時のGMが育成寮に誘ってくれたからだ。三木谷ハウスは44部屋で45人ものユースと5~6人の若手プロ選手が住む。札幌の倍近い規模となり、ひとりでは回せない。そこでパートさんを雇い、交代制で働く形をとった。
明子さんの労働環境は大きく変化していた。
「札幌時代は夜だけアルバイトに来てもらっていましたが、基本的に自分が一手に引き受けていたので、休みもなく、夜はお風呂に入って寝るだけ。怒濤(どとう)の日々でした(苦笑)。でも神戸に来てからは朝5時半からパートさんが入ってくれますし、私自身は昼と夜の担当で休みも取れるようになった。少し楽になりました」
とはいえ、寮に寝泊まりする45人に加え、冒頭のようにトップチームの選手も昼食をとることがある。中学生50人分の夕食デリバリーまで引き受けているから、作る量はすさまじい。ご飯65合をセットして帰宅するのは日課で、ほとんど毎食10~12キロの肉を焼く。60人分の牛すじの煮込みを作ろうと思うなら、60人分の里いもやにんじん、大根の皮むきから着手しなければならない。牛すじは切れる状態になるまで煮込み、余分な脂も落とす必要があるし、コンニャクも下ゆでの段階からきちんとやる。そうやって細部までひと手間かけるのが明子さん流。2時間がかりで完成した煮込みは味がよくしみていて、選手の心まで温めてくれる。
「寮母になりたてのころから、料理の写真を撮影するのを習慣にしてきたんですが、やっぱり最初のころは下手だったなぁと感じますね(笑)」
札幌時代から20人分以上、作るのは日常茶飯事。明子さんは日々、料理をしながらベストに近づけるための試行錯誤を繰り返した。その工夫と努力が、練習で疲れきった若い選手たちの表情を笑顔に変えてきたのだ。
いちばん人気のメニューは、オムライスだという。
「オムライスをおいしく作るコツは、卵を焼くときに空気を入れながら、とろけるチーズや生クリーム、マヨネーズなどを入れることですね。ふわふわした卵焼きがおいしさを底上げしてくれると思います。本来ならそれぞれの顔を見ながらケチャップチキンライスも作りたいけど、人数が多いので事前にたくさん作ってジャーにためておきます。ただ、作りためるとご飯がパサついてしまうので、デミグラスソースを直前にかけるほうがおいしく提供できます」
アスリートの場合、それだけではタンパク質が足りないため、お肉や魚を別に添えることも心がける。
人気の秘密は、そのバリエーションの豊富さにもある。
「ご飯を炒める調味料にしても、普通はケチャップですけど焼き肉のタレやキムチや高菜を使ってもいいし、柚子(ゆず)こしょう、山椒でアクセントをつけてもいい。あんかけソースやホワイトソースで中華風や洋風にアレンジすることも可能ですね。そうやって組み合わせていくだけで、食べる側も飽きがこない。そういう遊び心を持って作ればきっと料理が楽しくなるでしょう」
明子さんは声を弾ませてニッコリほほ笑んだ。
その料理を高校2年生から味わい、この夏に湘南ベルマーレに移籍した神戸ユース出身のFW小川慶治朗も「アッコさんの料理に癒された」という1人だ。
「鶏肉が特においしかった印象があります。スポーツ選手は量を食べないと勝てない。そう思ってご飯は絶対2杯は食べていました。自分はもともとガッチリしてたほうだったけど、アッコさんは線の細い選手に“太り飯”という夜食を作って食べさせてくれたりもして、体重を増やす努力もしていました。みんなのお母さんとして優しく接してくれるアッコさんの存在もあって、僕はここまでプロとして頑張れたのかなと思います」
食べ慣れた明子さんの味から離れ26歳になった彼は改めてありがたさを痛感している。
巨人のエースも信頼を置くメニュー
神戸で働いて足掛け10年に達した明子さんだが、近年は寮母以外の活動にも力を入れる。そのひとつが巨人・内海哲也投手を中心としたプロ野球選手6~7人の自主トレ時の食事管理。
’14年~’17年の4年間、1月中のグアム・沖縄キャンプに16日間、同行し栄養・カロリーをコントロールした食事を提供してきた。内海投手も「バランスのいい食事ができるようになり、トレーニング効率が上がった」と話す。
「村野さんは体重増減に合わせたメニューを考えてくれました。特に減量の場合は“食べる量を減らすとストレスになるから”と、お腹いっぱいになるのに体重を落とせるメニューを作ってくれました。食材は高タンパク低脂肪のものを使い、調理法や調味料もカロリーが低くなるように工夫されていたと思います。印象的だったのは、1年目初日の朝食。その品数の多さには驚きました。中でも自家製パンのおいしかったこと。それには本当にビックリしました。“この人に任せておけば大丈夫”という安心感を村野さんには持てましたね」
明子さんにこの話を持ちかけたのが、5年間ヴィッセル神戸で栄養アドバイザーを務めていた大手食品メーカー『明治』の管理栄養士・大前恵さんだ。
「神戸では、体脂肪率を減らせない選手、増量できない選手などいろんなケースがあり、村野さんと一緒に解決にあたりました。彼女はものすごく勉強しているし、おいしく食べてもらう工夫も惜しまない。脂肪の少ない赤身の肉なんかもそのままだとパサパサしているけど、おいしい料理に仕上げていますし、油を使う場合でもカロリーを減らすひと手間をかける。逆にこちらが“こういう方法もあるんだ”と勉強になりました。しかも2度と同じものを作らないと言っていいほどバリエーションが多い。“この人なら大丈夫”と確信して、内海選手に紹介しました」
そう語る大前さんは、今年アメリカメジャーリーグ・エンゼルスに移籍した大谷翔平選手にも明子さんを紹介。彼女は2月にキャンプ地・アリゾナへ向かった。
「大谷選手の約20日間の滞在期間分の夕食を作り置きするのがメインの仕事でした。私自身は3泊4日の短期滞在。スーパーで肉や魚、冷凍できる野菜などを買って準備しておいて、肉はスペアリブを甘辛く炊いたものだったり、ポトフやカレー、肉を揚げていない酢豚、魚は鮭やタラを白だしで炊くなどの料理をしました。
たしか90~100食分くらいは作ったかな。大谷選手がひとりでも料理できるように、一緒にキッチンに立って教えることもありました」
少年野球チームでもアドバイス
さまざまな競技のプロアスリートの支援のみならず、食育に悩む人々への発信活動も少しずつ始めている。『しまふく寮通信』(コンサドーレ札幌刊)『Jリーグの技あり寮ごはん』(メディアファクトリー)の出版のほか、チーズメーカー『QBB』のサイトで毎月2品のレシピを紹介する活動も手がけるようになった。さらには少年野球チームで講演も実施。スポーツに携わる親子の食事への意識を前向きに変えたいという思いは日に日に強まっている。
「少年野球の場合、朝8時から夜9時まで練習するチームもあって、選手たちは2リットルのご飯を持参し、お茶漬けにして食べるといいます。これには驚きました。色とりどりのお弁当を持参できないなら、魚肉ソーセージやヨーグルト、ゼリーを加えて手軽に栄養価を上げることも可能だと思います。
“1・3リットルのお弁当を持ってこい”と監督に言われて、どうしたらいいかわからないというお母さん方の声も耳にしました。監督は栄養バランスのいい食事をとらせようとしてそう言っているんでしょうけど、親御さんが対応できずに悩むケースが少なくない。日本のアスリートを取り巻く環境は、栄養次第でもっとよくなるはず。自分が少しでも役に立てればありがたいです」
明子さんはそう言って、目を輝かせた。
よきアドバイザーである大前さんも、「村野さんのような方にスポーツ栄養の重要性をもっと発信してもらえればいいですね。少しの工夫で栄養バランスがよくなり、食べる人も幸せになるのなら理想的。これからも情報交換を続けたいです」と、エールを送った。
妻の八面六臂(はちめんろっぴ)の大活躍に晋さんは「人に認められて楽しそうに働く妻の姿を見るのは僕のほうもうれしいです」と爽やかな笑顔を見せた。「パパ、豆腐10丁買ってきて」と言われて、せっせと買い物に行き、寮を管理する夫。その力強いサポートを受けながら、明子さんは、これからもサッカー界、スポーツ界を食の部分からしっかりと支えていくことだろう。
取材・文/元川悦子
撮影/齋藤周造