(ノンフィクションライター 亀山早苗)
<第4回>
石川佳奈さん(仮名=49)のケース
「主婦なのにひきこもっちゃったんですよ、私」
カジュアルなTシャツとパンツ姿がよく似合う石川佳奈さん(仮名=49)は、待ち合わせの喫茶店に座るなり、人懐こい笑顔を浮かべながらそう言った。
エンジニアの父と、“超過干渉な”母と男兄弟がふたりの5人家族で育った。子どものころから母の言うことを聞く“いい子”だったという。
「その過干渉がたまらなくイヤになったのは大学生になってから。美容院でヘアスタイルを変えて帰ったら、母がヒステリックに怒ったことがあったんです。それほど奇抜なスタイルにしたわけではないのに。号泣したり騒いだりして、あげく美容院にひきずられてやり直しをさせられた。大学生にもなって門限があって、それを破るとまた泣いたり騒いだり。息苦しくてたまらなかった。そのころようやく“自分の意志”に目覚めたんだと思います。それまでは自我を押し込めて生きていた。小さいころから褒められた記憶も甘えた記憶もないんです」
佳奈さんは淡々と語る。きょうだい3人の中でひとりだけ行動が制限されてきたのは、女の子だからと当時は考えていたという。
超過干渉の母から逃れるように結婚
大学時代からパソコンが好きだった。当時はまだ「パソコン通信」などと呼ばれていた時代だったが、積極的にオフ会にも出向いた。そこで知り合った男性と徐々に親しくなり、家庭のことを話すと「それはあまりにも過干渉。早く家を出たほうがいいよ」と言われた。
「やっぱりそうだよね、と。客観的にそう言われて確信がもてたので、大学を出て就職すると、すぐにその彼と結婚しました。夫の家に行ってみたら、とても温かい家庭で、実の両親より義父母に懐いていきました」
公務員として働き始め、夫との仲も良好。母から離れて精神的に安定もした。仕事も通信関係だったので、パソコン好きの彼女には打ってつけの場所。だが、5年ほどで部署が変わった。関連団体の学校で教える立場になったのだ。
「私は人に何かを教えるのが苦手なんです。それでも必死に頑張ったんですが、仕事を覚えきれないうちに妊娠、出産で休みをとることになってしまって」
産休と育休をとったことでキャリアが中断、それでも1年後には職場に戻ったが、合わない部署に戻ったことと育児のストレスからうつ病になって休職。その間は家事もろくにできず、保育園の送り迎えをしたことくらいしか記憶にないという。これが最初のひきこもりだったと彼女は振り返る。ただ、根が優秀でまじめな人なのだろう、数か月で復職した。
「娘が小学校に入ってからが大変でした。保育園のように長くは預かってもらえないから、学童保育を使って、仕事と家事と育児にフル回転。夫は仕事一途でワンオペ状態。つらかったですね」
昼も夜も学校のクラスを持たされる生活に疲れ果て、30代半ばでうつ病が再発。半年ほど休職して、とうとう転職を決意した。そしてITエンジニアとして再出発を果たす。
「企業に出向いて、パソコンのネットワークをつなげたりする仕事で、仕事内容は気に入っていたんです。ただ、社内の人間関係が合わなくて数社を転々としました。すごく無理していたと思う」
専業主婦になれず何度もひきこもる
数か月仕事をしては数か月家にこもるという生活が始まった。家にこもっているときは専業主婦なのだから、きちんと家事をやらなくてはと考える。ところが、例えば、片づけをしようと思えば思うほど、家が散らかっていく。もともと整理整頓は苦手だった。しかもハウスダストアレルギーになってしまったという。
私も整理整頓ができないタイプなのでよくわかる。どこから整理したらいいかわからない。場所を決めればいいと言われて片づけ始めても、そこにあるものをどこかに移動させるだけで終わってしまう。結果、こちらは片づいても移動させた先ががらくたの山になっていくだけなのだ。片づけが苦手な人間には整理整頓は拷問のようなものである。
佳奈さんは、とうとう仕事もできなくなり2009年の秋から夫の扶養に入った。だが、「何もしない自分」に我慢ができない。「夫に扶養されている」ことでさらに自分の存在価値が揺らいだ。
母に「女の子だから行動を制限された」時代を経て、結婚して自立したつもりだったはずだ。だが、またも扶養されなければいけない身になったことが、焦りを生み、「敗北感」すら抱かせたのではないか。
翌年4月からは夜間の大学院に通い始めた。夜間とはいえ、大学院にはそう簡単に受かるものではない。彼女の優秀さの表れである。だが彼女自身は、「なんとかリア充を装うのに必死だったのかもしれない」と振り返る。
当時は新薬の治験に参加するほど、うつ状態がひどかった。昼間はほとんど寝たきり状態。娘は働いていたときと同様、近くに住む義父母の家で面倒をみてもらっていた。薬が合わずに体調がおかしくなっていったが、なんとか大学院には通った。
「組織の中で働くのは向いていないかもしれないから、ビジネスを起こすことはできないだろうかと経営なども学んでいました」
しかし、とうとう夫が業を煮やして怒るようになっていた。そのキレ方が怖くて、彼女は自室から出られなくなっていく。怒鳴り声を聞くと身体が固まってしまうのだ。
「無職なうえに何もできない。自分がいけないんだ。ずっとそうやって自分を責めていました。夫の怒りの矛先(ほこさき)が娘に向いたのか、ドアの向こうで娘を怒鳴る声が聞こえる。その声が私の身体に突き刺さる。私が怒られているんだと思い込む。認知が歪(ゆが)んでいたんですね。被害妄想がうつ状態をどんどん悪化させていきました。何もできない自分が後ろめたくてたまらなかった」
夫にも娘にも別れを告げられて……
どうしたら夫の怒鳴り声が止まるんだろう。そればかり考えていた。一方で夫も限界を感じていたのだろう。娘の小学校卒業式の帰り、3人で入ったファミレスで夫から離婚を切り出された。彼女は承諾し、大学院も休学した。
夫は自分の両親の家に暮らし、彼女と娘は今までどおりの家に住んでいた。シングルマザーになったことで若干の公的費用が出た。夫から養育費ももらった。
「ただ、相変わらず私は家事ができないし具合が悪い。なかなか働けないんです。娘はパパっ子だったので自由に会っていました。元夫は娘に会いに頻繁に来るんですが、会いたくない私はひきこもるしかなかった。それでも中学がお弁当だったので頑張って作っていたんですけどね」
そのうち娘がお弁当は自分で作ると言い出した。学校が終わると夫の実家で食事をして入浴し、家には寝に帰るだけ。彼女はそれでも自分に鞭(むち)打って就職活動をした。やっと仕事が決まっても、対人関係がうまくいかず数か月ともたない。もうひとつ、彼女には常に心に重いものを抱えていた。実母との関係である。
「私が離婚したと電話で報告したら、両親がいきなりやってきて私と娘を連れ帰ろうとして大騒ぎしたんです。隣近所にまで離婚したことを騒ぎ立てて。あの一件はどうしても許せない。過干渉にも度がある。だから私はなんとしても自力で頑張りたかった」
しかし気持ちだけが空回りしていく。そして娘が中学2年生になった秋、とうとう「パパと暮らしたい」と言われた。がっくりと全身の力が抜けたが、娘の気持ちは尊重したかった。そこで彼女はひとり夜逃げのように家を出た。
発達障害を隠していた親が許せない
彼女は人情の厚い下町に引っ越した。1階に高齢の大家さんが住む家の2階だった。ネットワークエンジニアの仕事に再就職し、大学院にも復学。ところが毎晩、元夫の怒鳴り声がフラッシュバックして眠れない。気分は落ち込むばかりで精神科を転院。新しいうつ病の薬を処方された。
「でも逆にだるくて寝たきりになってしまい、結局、休職から退職。大学院も休み休みでした。それでついに、うつ病で障害者手帳をとったんです。区役所で手帳をもらうとき、担当の保健師さんを紹介してもらったんですが、その人が大家さんの元同僚。すっかり安心していろいろ話を聞いてもらって相談できました」
彼女は初めて「他人に心を開く」感覚を味わった。親や身内ではなく、大家さんや下町の近所付き合いなど他人とのふれあいに救われたのだ。
「同時に、どうして親が私を障害者扱いするのか気になってケンカ腰で聞いてみたら、出産時の事故で微細脳損傷になった、と。今でいう発達障害ですね。どうして隠していたのか……。もっと早く教えてくれれば対処の仕方があったのに。医者にその話をすると、うつ病の薬は中止、発達障害の薬に切り替わりました。親への許せない気持ちはますます大きくなったけど、生きづらさの原因がわかったのはちょっとほっとしました」
支援を受けてゴミ屋敷から再出発
大学院に復帰し、昼間は就労移行支援に通った。ところが薬の副作用がひどく、やはり体調はすぐれないまま。更年期のような症状が表れて食欲がなく、無理に食べては吐いてしまう日々。半年で20キロやせたという。体力が落ちて就労移行支援には通えなくなった。見かねた担当保健師さんが地域活動支援センターに連絡。施設長が話を聞いてくれ、ゴミ屋敷状態の部屋の収納家具買い出しに付き添ってくれたりヘルパーさんの利用計画も立ててくれた。
「またも他人の優しさに助けられて大学院を卒業することができたんです」
現在は障害者年金と共済年金で月6万円台の収入。今年に入って在宅でIT関係の仕事ができるようになった。
「質素な暮らしをしていますが、それでも毎月大幅な赤字。かつての預金を取り崩しながらなんとかやっているという感じですね」
娘は大学生になった。SNSでよく連絡をとっているが、ああいう環境でよくしっかり育ってくれたと佳奈さんはしんみりと言った。
「私、自分が過干渉で育ってとてもいやだったので、自分の子にはネグレクトぎみになってしまったのかもしれない。親子関係も悪くて、社会の中でもうまくいかなくて、夫にもわかってもらえなくて。本当に“絶望”していたんです。このままずっと絶望の中で生きていかなくてはならないと思っていたけど、微細脳障害と診断が下って、やっと過去からの自分が許せるような気がしました。なんとか組織の中で働こうと頑張ってきたけど、おそらくそれはむずかしかったんでしょう」
彼女は数え切れないほど「頑張ったつもりだったんだけど」という言葉を使った。そのたびにせつない表情になるので、こちらも胸が痛んだ。でも「自分を活かせる場所」を見つけられなかっただけではないか、一般組織に向いていなかっただけではないか。
私は大学を卒業後、そのままフリーランスとなった。組織には向いていないと思ったからだ。高校時代、不登校の経験もあったし、毎日同じ場所に出向き、同じ顔を見ながら仕事をするのは無理だった。動物的カンで、自分を窮地に追い込まない生き方を選んだのかもしれない。ただそれは、私が佳奈さんのように「まじめ」でも「優秀」でもなかったからできたことだったように思う。
彼女は今、発達障害やひきこもり、LGBTなどの当事者会や親の会の手伝いをしている。自分が生きづらかったぶん、気持ちがわかるのだ。
「自分を振り返ると、当事者と親、どちらの気持ちもわかるんです。親も困ってるけど、当事者も苦しんでる。周りの他人も含めてみんなでゆるくつながれたらいいと思います」
口調は穏やかだが、その目は何かを乗り越えつつある人の力強さに満ちていた。
【文/亀山早苗(ノンフィクションライター)】
かめやまさなえ◎1960年、東京都生まれ。明治大学文学部卒業後、フリーライターとして活動。女の生き方をテーマに、恋愛、結婚、性の問題、また、女性や子どもの貧困、熊本地震など、幅広くノンフィクションを執筆。