「今年の誕生日、孫に“サッちゃん、いくつになったの?”と聞かれて、電卓たたいたら、80歳だったの。こんなに年をとったんだぁと、さすがに私も3日ほど落ち込んだわよ。でも、4日目の朝、年のことで落ち込んでもバカバカしいと気がついて、今までどおり楽しむっていうか、年齢への意識を捨てちゃえばいいと、今は思ってます」
お孫さんふたりも「おばあちゃん」ではなく「サッちゃん」と呼ぶという、川邉サチコさん。バレッタでアップした白髪、セルフレームの眼鏡、真っ赤な口紅、きりっとしたアイメイク。
この日は「元気出るように」と赤いトップスに、スカートを合わせた。こんな粋でおしゃれでカッコいい80歳がいるのなら、年をとるのも悪くない、そう思わせてくれる存在だ。
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ビューティークリエイターとして、今もバリバリの現役。渋谷の閑静な住宅街にあるサロン『KAWABE LAB』を経営し、同じ業界で活躍する娘のちがやさんとともに一般の女性たちのヘアメイクや、ビューティーアドバイスを行っている。
この日は、20年もサロンに通う常連客の小山治子さん(70)が来店。まず持参した服を見て、どうスタイリングしていくか相談する。この日は「夫婦で記念日を過ごすためのトータルコーディネート」という依頼だ。
「うちはお客さまとコミュニケーションをとって作っていくシステム。年齢や好み、生活の環境なども聞いて、髪の毛の状態を拝見しながら、その方の長所を見つけて仕上げていきます」
ヘアセットだけの場合もあれば、服や靴選びからアドバイスし、トータルに全身のスタイリングをする場合もある。お客さまの要望や予算に合わせて1万円からカウンセリングを行い、ケースバイケースで対応する。
今回はサチコさんがヘアを、娘のちがやさんがメイクを担当。まず髪を丁寧にブラッシングした後、大きなホットカーラーで手際よく髪を巻きだした。
「今時ホットカーラーを使うやり方は珍しいんですけどね。小山さんの髪質ではブローだけだとすぐぺしゃっと崩れちゃうのよ。やっぱり、店を出られた後も長くきれいにもたせたいじゃない? アフターケアまできちんとするのがプロだからね」
カールを壊さないようにセット、これで完成と思いきや、全身を鏡に映しながら、さらに手を入れる。
「大事なのは全身のバランス。私はヘアだけの仕事も、必ず全身を鏡に映してみながら仕上げます」
完成。上品でかつ躍動感のあるスタイルに仕上がった。
鏡を見て「うれしい!」と表情まで明るくなった小山さんは言う。
「川邉先生は最初ロングヘアだった私をショートに上手に変えて、ショート嫌いの主人まで納得するスタイルにしてくださったんです。私が変わった姿を見て“紹介して”とサロンに来るようになったお友達は、もっと大変身したんですよ。それまで普通の主婦だったのが、社交ダンスや歌を始めて、今ではステージに堂々と立っています。川邉先生はスタイルだけじゃなく、内面まで変えてくださる方だと思います」
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仙台から2か月に1度のペースで通う、ギャラリーオーナーで美術評論家の森美枝子さん(77)もサチコさんの手でイメージチェンジに成功したひとり。
「15年前に“小顔にしてあげる”と白髪ピンピンの短めショートにしてくださったんです。くせ毛で毛量が多いからできるカットらしいんですけど、どこか女らしさもあって、一見似たような髪型の人を外で見かけても、やっぱり全然違う。友人からも好評だし、知らない人から“どこのお店でカットされてるの?”と声をかけられたことも何度もあります。髪型が決まれば自分も元気になれるし、ほかの人に褒められてうれしい気分にもなれる。この15年私が元気でいられたのは、川邉さん効果かもしれないですね」
美容師になるつもりはなかった
川邉サチコさんは昭和13年、東京の日本橋で生まれたちゃきちゃきの江戸っこ。
「実家はたくさんの従業員がいた綿布問屋。母は帳場を管理するおかみでした。4人きょうだいの長女だった私に対して、母は鬼かと思うほど厳しかったわね。父が出かける準備を手伝ったりは当たりまえのようにやらされてました」
サチコさんは小さいころから、自分の好みに関しては譲ることがなく、母が買ってくれた洋服の色が気に入らないと、自分で別の色に染めて、怒られたこともあるという。
女子美術大学を卒業後、22歳で結婚。それが大きな分岐点となった。
「高校時代から付き合っていた相手と結婚するときに、相手が美容家のおうちだとわかったんです。だけど、“私は美容師にはなりません。それでもいいですか?”と聞いてから結婚したんですけどね」
婚家は美容業界の老舗で、義母はヨーロッパからエステの技術を学んだ伝説の美容師・芝山みよかさん。
結婚して早々、サチコさんは、義母から「パリに行くけど、一緒に行かない?」と声をかけられた。
「当時、飛行機に乗るというだけで、親戚中が万歳して送り出してくれるような時代だからね。私も“行ってみたい”とついていくことになった。それでパリのメイクアップの学校に通訳付きで入れられたんです。ジャン・デ・ストレーという画家でもあるメイクアップアーティストの先生が、立体的に顔をペイントすることから教えてくれてね。私は美術学校を出てるから、“面白い!”と興味が湧いたんです。お義母さんは私を美容師にするつもりでパリに連れて行ったんでしょう。まんまとそのとおりになっちゃったわね」
約1か月学び、メイクのライセンスを取って、帰国。
「まだ私なんて何もできないのに、周りにベテランスタイリストがいっぱいいたから、くっついていって、現場で修業させられたって感じなの」
懸命に仕事をする中、サチコさんは腕をあげていったが、そのころ、美容の仕事の地位はまだ低く、悔しい思いをすることも多かったという。
「“結髪さ~ん”と呼ばれて、“冗談じゃねぇよ!”と頭にきて、途中で帰っちゃったこともあるわね(笑)。ヘアメイクと呼ぶべきでしょう。マネージャーさんに“そんなことしてると仕事はなくなりますよ”と説教されたけど。“それでけっこうです、頭下げなくても仕事くるようになるまで頑張ります”って言ってやったの。おかげでしばらく干されちゃったけど。でもそこで踏ん張らなかったら、私たちの仕事の社会的地位は上がらなかったと思うわ」
クリスチャン・ディオールのオートクチュールやニナ・リッチ、イヴ・サンローランなどが日本で出店するときに行ったファッションショーで、ヘアメイクを担当し、「彼女のメイクは斬新で面白い」と一躍注目を浴びた。それから、映画、演劇やイベント、CMなど、さまざまな分野で、引っ張りだこの存在になり、“ヘアメイクアップアーティスト”としての地位を確立。
「遅くまで仕事をしている人たちにも来てもらえるように深夜0時まで開店する美容院を南青山に開いて、コシノジュンコさんたちとファッションのコミューンみたいなものを作ったりして、どんどん深みにはまっていっちゃった」
昭和38年、娘のちがやさんを出産後も、フルパワーで稼働。ベビーシッターを雇い、寮のある学校に入れて、国内外を飛び回った。
35歳で離婚し、リスタート
多忙な中、35歳のときに大きな決断をする。離婚して、婚家を飛び出したのだ。
「夫とはだんだんうまくいかなくなって、“年を重ねて動けなくなったとき、この人には面倒みてもらえっこない!”って思っちゃったのね。ひとりになっても食べていけるぐらいになろうと準備をして、それで別れました。実は離婚したときはもう美容はやらないつもりだったんです。美術学校にも通って、ほかの道を探していたんだけど……」
そのころ小学生だった娘のちがやさんは、当時の様子をこう振り返る。
「正直言って、生活は最初大変だったと思います。父と別れて住んだマンションに同級生が来たとき、“おまえんち、テレビないなんて、ヤバくねぇ?”って言われたこともあって。そしたら、母は“しょうがないわよ。おばさんは家を出てきちゃったんだから。そのうち買うわよ”と言ってましたね(笑)。私は小さいころから、サチコさんのことを母親というよりひとりの女性として見ていたので、離婚の件やいろいろあってもしょうがない、と受け止めてました。父には“おまえ、これからあの人とふたりきりで大変だぞ”と言われましたけどね(笑)」
別の仕事を模索しようとしていたサチコさんだが、彼女の実力を知る人たちが放っておかなかった。
「じゃあ、手伝うだけねって始めたら、また歯車が動いていってしまった。私ひとりではできない仕事だから、新しく『アルファタッチ株式会社』を立ち上げてスタッフを雇うようになって。それからまた大忙しの日々が始まったんです」
世界が認めたセンスとプロの技
日本にも新進気鋭のデザイナーが台頭し、ファッションショーが盛んに行われるようになった時代。サチコさんは、多くのクリエイターから支持され、多くの現場で刺激し合い、新しいスタイルを提案していった。
「ファッションショーは特に過酷だったけど、面白かった。デザイナーとしては、自分が世に出る真剣勝負だから。ぶつかりあいもあるし、ギリギリのところでみんな仕事をしなきゃいけない。私も生意気だったから、デザイナーと大ゲンカをしたこともあるけど結果がよければ大成功(笑)。でも、あのころはみんな勢いがあって楽しかった。特に三宅一生さんとの仕事は面白かったなぁ。彼はなかなか満足しなくて、しょっちゅうスイッチ(変更)するから、私たち周りのスタッフは大変なんだけど。でも、できあがったものは必ずよくなって、新しいクリエイションが出てくる」
表は華やかに見えるショーだが、そのバックヤードはとてつもなく苛酷だという。リハーサルから本番まで2時間あるかないか。その間に、モデル全員のヘアメイクを含む準備を完成させなければならない。スケジュールがずれこむことはしょっちゅうで、本番は秒読みの世界だったが、サチコさんは独特のスタイルを手際よく作っていった。
16歳でモデルデビューした長谷川美恵子さん(60)は、当時の様子をこう語る。
「私がセーラー服姿で現場に行っていたときにサチコ先生に初めてお会いして。最初は正直言って、“業界の怖いおばさん”という印象でした(笑)。でも、何もできない私を見つけてメイクをし、手ほどきをしてくださったんです。“あんた下手だねぇ”とか言葉はキツいけど、本当は面倒見がよくて優しい方なんですよ。
モデルってわがままな人種で、ヘアスタイルが気に入らないと不機嫌になる人も多いんですけど。サチコ先生は、それぞれの個性に合わせて気持ちのいいヘアスタイルにしてくれるから、とにかく安心なんです。サチコ先生が作るスタイルは、早くてきれいで崩れない。フレンチロールが特にお得意だったんですけど、最小限のピンでさっと作って、それで決まるんです。逆毛立ても凄かったなぁ。もちがよすぎて、ショーが終わって家に帰って髪を洗うのが大変なぐらいでした」
サチコさんは準備も周到だった。髪の滑りが違うからと、髪型によって前日のシャンプーの仕方までモデルに指示出しをしていたという。
木村イナミさん(現在「ヘルシィラボ」代表・ヘアメイクアップアーティスト)は、サチコさんが手がけたCMを見て「ヘアメイクにこんな可能性があるのか」と衝撃を受けたひとり。サチコさんの会社に入社し、ショーなど多くのシーンでアシスタントを務めた。
「弟子として、いちばん厳しく言われたのは、鏡前はお客さんが買ってくださった場所なんだから、いつもきれいにしておけ、ということでした。先生はどんなに時間がタイトでも、納得いくスタイルができるまではランウェイに出さないというのが信念。ギリギリまでベストバランスを探し続けて、ぴたりと決める。それは見事でした。先生は仕事も真剣だけど、普段から感性豊かに暮らされてるんですよ。すごくおしゃれだし、料理も上手でパーティーでふるまわれることもありました。そうして、仕事のエネルギーを維持されていたんだと思います」
サチコさんは、大忙しの中、ひとりの女性として恋愛を楽しんでもいたそうだ。
「実はある人と同棲までして、真剣に再婚を考えていました。一緒になれば、相手がものすごく才能のある人なので、どうしても尽くしてしまう。でも、私はまだ自分の力を試したくてね。結婚して相手に尽くすのは、自分らしくないと感じて、やめた。ひとりで川邉サチコらしく生きていく道を選んだのよ」
デビッド・ボウイに日本画材
ビッグアーティストとの仕事も数多い。デビッド・ボウイが来日したときに、額に日本のムーンを入れてほしい、とサチコさんに依頼がきた。
「帝国ホテルのロビーに、プラチナブロンドの髪に、真っ白いコートをひらひらさせながらデビッド・ボウイが現れたときは、“天使が現れた”と思ったぐらいきれいだったわよ(笑)。顔合わせですぐOKが出て、“リハーサルよろしくね”ってそれだけ。ああいう人たちは、フィーリングで仕事の相手を決めるのね」
日本的にという注文に、映画用の刺青のテクニックと、日本画の箔を使ってデビッド・ボウイの額にムーンを描いた。すると、彼は非常に喜び、後日、撮影のオファーがあったという。
三宅一生さん、山本寛斎さんが海外でショーを始めたときも、サチコさんはヘアメイクアップアーティストとして参加。世界を相手にともに戦った。
そんな現場でよく一緒に仕事をし、プライベートでも付き合いのあるスタイリストの高橋靖子さんは言う。
「海外での仕事では、外国人のスタッフとも組んでやっていかなくてはならないし、慣れない場所での仕事だから、困った状況のほうが多いんですよ。でも、サチコさんはそんなことをプレッシャーに感じないみたい。パシッパシッとリズミカルに対応していく。どんな大変な状況でも楽しんで仕事をしている感じでした。彼女は発想がフレッシュで、オリジナリティーがあったから、外国のスタッフにも評判は高かったですね」
落ち込みにはまったことも
華々しい活躍が続く中、40代半ばになったころ、サチコさんの気持ちに変化が表れ、新しい方向を模索するようになった。
人工的な薬剤を使うことに疑問を感じ、自然志向の材料を使ったナチュラルビューティーサロンを新たにオープン。評判にはなったが、時代が早すぎたのか、うまくいかなかった。そのほか、企画やデザインなどのジャンルにも挑戦していたが─。
「50代に入ってから、1年間ぐらい、うつ病みたいになりそうになったこともあるんです。自分で落ち込みにはまっていくのよね。離婚して以降、私はずっとノッてる状態だったんです。それが母や諸先輩方を見ていて“年をとっていく不安感”でいっぱいになって。しょうがないからお酒を飲む。飲んで眠るんだけど、すぐ起きて、ますますどうにもなんなくなっていく。仕事は普通にしてましたけど、ひとりになったときには精神的にめちゃくちゃな状態が1年ぐらい続いたかな」
もともと身体も弱かったサチコさんは、自分に何か課さないと乗り切れないんじゃないかと感じ、40代から水泳を始め、以来40年間続けている。自分を大切にしようと、心身ともにメンテナンスを心がけるようになったという。
「いろいろやってみましたけど、最後は気持ちのありようを変えるしかない、重く考えないほうがいい、と自分で抜け出したんです。ああ、あの1年はもったいなかったなぁ」
その時期、年老いた実母の介護をするため、大転換を決意。56歳のときにそれまで経営してきた大きなサロンをたたみ、ひとりで一般のお客さんに対応する今のサロンに形態を変えた。
「40代から器や着物のデザインも始めてデザイン事務所も設立した。それも楽しかったけど、才能ないってことがわかってスパーンとやめた。だったら、自分が今までやってきた美容の仕事でもう1回、勝負しようと思ったのよ」
ところが、トップモデルやタレント相手のアーティスティックな仕事がほとんどだったサチコさんにとって、一般客にかかりきりになるのは、初めての経験だった。
「正直言って、普通の女性のわがままさにびっくりでした(笑)。私は主婦じゃないから、普通の女性の感覚がわからないのね。きれいに仕上げたってタレントさんみたいにオーラ出してくれないしさ(笑)。私には一般客は向いてない、やめようと何度思ったことか」
それでも仕事を続けながら、母が86歳で亡くなるまでそばにいた。
「私は世の中でいちばん怖い人が母っていうぐらい、厳しい人だったんですよ。まぁ、母はお手伝いさんを雇えたので、全面的に私が看たわけじゃないし、仕事をしつつ自分がつぶれない範囲での介護でしたけど。夜やお休みの日も外出できなくて、欲求不満になりながらではあったわね。でも母と約束したから、最期までそばにいました。おかげで老いというものを学ばせてもらったと思う。厳しく育ててもらったから私は今仕事ができてると、感謝しています」
おせっかいな母、小姑みたいな娘
母が亡くなった後、娘のちがやさんがそばに住み、母娘一緒にサロンに立つようになった。
「娘さんはどんな存在?」という問いに、サチコさんからはひと言「小姑」と返ってきた。ファッションから生活まで口うるさく言ってくれる唯一の存在らしい。対して、ちがやさんにとってのお母さんは「仕事ではおせっかいおばさん。普段はコギャルみたい」という答え。
サチコさんに母としての人生を振り返ってもらうと、
「離婚をしたことも含めて、申し訳ないと思うぐらい、完全なる子育てはできなかったと思います。小学2年生から中学までは寮のある学校に入れてたし。周りの方に育てていただいたようなものですね」
と少し神妙な顔をした。
一方、ちがやさんは、「寮生活はつらかったけど」と文句を言いながらも、「母は自由に泳がせておかないと死んじゃうタイプなので、自由でいてもらわないとしょうがない」と笑う。小さいころの思い出を聞くと、楽しいものが多かった。
「寮の先生に挨拶をしに、母は気まぐれに来ちゃうんですけど。羽田空港からポルシェに乗って、ロングコートにニーハイのストレッチブーツなんていうとんでもない格好でやってくる。寮の玄関で、すごく怖い先生が見つめるなか、ブーツがなかなか脱げなかった姿はおかしかったですね(笑)」
ちがやさんは結婚して母のもとを離れ、ふたりの息子を育てながら、インテリアの仕事をしていたが、30代のときに母と同じ美容の道を選んだ。
「一緒に仕事をするようになってからも、母は何も教えてくれないんです。自分で見つけろ、自分で考えろ、という姿勢。ただ、私は小さいころから、ショーの会場や舞台の仕事にも連れて行かれてたし。学校の制服もオートクチュールの先生に作ってもらって、上等のものをひとり着せられたりしていたから(笑)。今考えると貴重な体験をたくさんさせてもらってきたので、それが今自分の引き出しになっていますね」
浮き沈みの激しい世界で闘う母も、家族問題を背負う母も、ちがやさんは間近で見てきた。
「介護した祖母が亡くなったときは、さすがに母もかなり精神的にきていたかもしれません。祖母と母はそっくりで、ケンカばっかりしてるふたりだったんですけどね。元気がなくなってちょっと様子が変という時期がありました。ただ、あの方は切り替えがうまいんですよ。ひとりの時間を有意義に楽しむことができるんですね。急にふらっといなくなったと思ったら、“逗子のカフェでお茶飲んでる”なんてこともあって。すぐ立ち直るんです。優しくして損したって思うぐらい(笑)」
ちがやさんが落ち込んでいるときは、「くよくよしてもしょうがないでしょ!」と、背中をガツンと押して、力をくれるそうだ。
「母は人が何より好きなんだと思います。口が悪いけど、本当は“そこまでやるの?”っていうぐらい、人のために動いて、あますことなく与えちゃう。そこは本当に尊敬しますね」
世界中の女性をきれいにしたい
KAWABE LABは今年で23年目。20代から80代まで、いろんな女性たちが、サチコさんのスタイリングとアドバイスを求めてサロンにやってくる。
「最初のころは理解できなかった普通の女性と、ひとりひとり向きあって仕事をしているうちに、女性たちがどんな生活をして、どんなことに悩んでいるのか、少しずつ勉強していったんです。お客さまに育てていただきましたね。軌道に乗せるまでに20年かかったかなぁ」
最近はシニア雑誌にモデルとしても登場。身をもって、年を重ねたなりのおしゃれを発信している。
「人間は必ず年をとる。それをネガティブにとらえたら、もったいないじゃない。今を楽しまないとね。……って言葉でいうのは簡単だけど、自分なりの楽しみ方を見つけるのは本当に難しい。私もいろいろ失敗もしながら年をとって、若い子の服が着られなくなったから、今のような仕事ができているのよ。人生は本当に無駄がないわよね」
さまざまな経験を経てたどりついた、普通の人を自信を持った美しいオトナの女性にするという仕事を、今後も誇りを持って続けたいという。
「周りからは、“よくこんな地味ぃな仕事をやっているな”ってさんざん言われたわよ。だけど、私の人生なのだから、私自身が決めればいいことだし。女性たちにパワーを与えられるのは、私しかいないと、今は自信を持って言える。これからの目標? “世界中の女性をきれいにする!”ってことかな」
80年生きたパワーが美しく輝く。川邉サチコさんは、今日も自由で新しい。
(取材・文/伊藤愛子 撮影/森田晃博)
伊藤愛子◎人物取材を中心に活動するフリーライター。著作に『ダウンタウンの理由。』『40代からの「私」の生き方』など。俳優・大杉漣さんの生きざまを描いた『現場者300の顔をもつ男』(文春文庫)の取材、構成を担当。理系出身ながら、今もガラケーを愛用している。