2万人以上の観客が詰めかけたスタジアムが“YMCA”で揺れた─。
天国の秀樹さんへ
11月10日に行われたJリーグの川崎フロンターレ対セレッソ大阪戦。フロンターレが2連覇となるリーグ優勝を決めたこの日、スタジアムは西城秀樹さん(享年63)の名曲の大合唱に包まれた。
「秀樹さんが川崎市に住んでいたころ、フロンターレのスタッフが年に1度の『川崎市政記念試合』を“川崎のスター”にぜひ盛り上げてもらいたいということで、秀樹さんにハーフタイムショーをお願いしたのが縁。
'04年から'17年まで、闘病中などを除きほぼ毎年スタジアムで『YOUNG MAN』を披露しました。晩年は歌わずに車に乗って“YMCA”のフリをしながら1周することになりましたが、毎年、対戦相手のファンも含めて大盛り上がりだったんです」(芸能プロ関係者)
西城さんが5月16日に亡くなった直後の試合では、フロンターレは喪章を腕につけて試合に臨んだ。
「秀樹さんが出る市政記念試合は年でいちばん観客動員が多い試合になるなど、本当にファンに愛されていた。だから優勝を決めた試合では、天国の秀樹さんへの感謝を込めて『YOUNG MAN』が歌われたんです。
フロンターレのキャプテンの中村憲剛選手は、優勝のトロフィーをピッチに置き、ファンとともに“YMCA”していましたね」(サッカーライター)
西城さんが大好きなフロンターレの試合で最後にYMCAを披露したのは、'17年7月。2度の脳梗塞による後遺症のなか、年々細くなっていった腕を精いっぱい伸ばしてファンを盛り上げていた。
もう1度ちゃんと歌いたい
後遺症に悩む西城さんを、亡くなる直前までサポートしていた東京・台東区にあるリハビリジム『フリーウォーキングメディカル』総院長の大明龍八氏は、
「家族全員でリハビリに臨んでいた感じですね」
と、西城さんが通った3年間を振り返る。
「奥さんとお子さんもよく一緒に来ていました。家族がいるときはすごく頑張ってくれたので、私も治療があるときは一緒に来てくださいって言ってたんです。
おひとりで来られたときは、“自分ひとりでトイレに行きたい”“自分ひとりで風呂場に行きたい”、そして“もう1度ちゃんと歌いたい”と話していました。歌いたいという気持ちはすごく強かったと思います。
お子さんの話をよくされていたんですが、“子どものために歌を歌いたい”と。リハビリ中に歌ったことはなかったですね(笑)。われわれが歌うことはあったけど、そんなときには“僕が歌おうか”なんて言ってくれたり」
一家が団結して臨んだのはリハビリだけではない。亡くなる寸前も周りには妻と子どもたちが寄り添っていた。
「秀樹さんは、亡くなる直前の4月に自宅で倒れてから入院することになったのですが、それから意識が戻ることはなかったそうです。
しかし、奥さんはもちろん、お子さんたちも、学校が終わると病室に駆けつけ、いつもと同じように話しかけ、お父さんのヒット曲のメドレーを流してあげていたそうです」(前出・芸能プロ関係者)
多くの人をカンゲキさせた名歌手は、最期まで歌に囲まれていた。