東京竹芝桟橋から船で24時間、南南東へ1000キロメートル。太平洋に突然現れる溶岩の島、小笠原諸島。世界一のフリーダイバー、ジャック・マイヨールが「最後の楽園」と呼んだその島々には、ひとりひとりの中に眠る原始のエネルギーを呼び起こす、不思議な力がある。

「小笠原に来たことがない人も、あそこには何かあるんじゃないか、いつか行ってみたいってぼんやりと思っているでしょう。それはきっと美しいものを見たい、美しいものに出会いたいという万人共通の思いだよね。今、息が詰まるような世界で暮らす人たちが求めるものが、ここ“惑星ボニン”にあるんだよ」

 小笠原で初めてサーフィンをし、サーフポイントを開拓した伝説のサーファー、宮川典継さん(65)は、自らが暮らす小笠原諸島の父島を「惑星ボニン」と呼ぶ。

小笠原自然観察指導員 宮川典継さん

 小笠原は長く「無人島(ぶにんじま)=ボニンアイランド」だった。初の定住者は、1830年に移り住んだ米国人のナサニエル・セーボレーを含む30名。間もなく父島は捕鯨船の拠点となった。

「それ以前から、世界中の海賊、交易船、軍隊の調査船などが立ち寄って、巨大なクジラと財宝、荒くれ者が行き交っていたはずだ。映画『パイレーツ・オブ・カリビアン』のような世界だったんじゃないかな」

 そう言って笑う宮川さんは、1974年、19歳のときに父島に移り住み、以来、父島とともに生きてきた。

「サーフィンを始めて島に住み意味、自分の軸ができた。」と語る宮川さん

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 祖父の宮川龍之介さんは伊豆大島の漁師だったが、戦前に硫黄島に移住し硫黄を採掘する集団「宮川組」の頭領となった。父の典男さんは硫黄島で生まれ、1944年、強制疎開で家族と大島へ戻った。

 宮川さんはその10年後、1954年に大島で生まれている。

「じいちゃんは180センチ、110キロと桁外(けたはず)れにデカかった。力もあるし、人の3倍働いた。大島に戻ってからも、漁業協同組合長や町会議員、伊豆大島の観光ブームの火つけ役にもなった。島のドンだったよ。親父は大島で建設の仕事をしていて、戦後は米軍のコーストガード(沿岸警備隊)の基地を作っていたんだ」

 終戦後、小笠原諸島は米国統治下に置かれ、1968年に返還。その2年後、父の典男さんは、故郷である硫黄島に近い小笠原の父島に移住を決めたという。

「親父は戦争で失った故郷に帰りたいという思いを持っていた。帰島運動、遺骨収集運動も起こして、戦後処理のような活動もした。俺はそういう日本的なしがらみを抜け出したくて、アメリカやフリーダムに憧れていた。若かったんだね」

 当時、東京から父島までは、船で52時間。アメリカや新しい文化に魅力を感じていた宮川さんは家族にこう言った。

「俺はそんな遠いところへは行かねえよ」

 家族の中でひとり大島に残ることを選んだ。当時15歳、高校に入ったばかりのことだ。

アメリカンカルチャーに憧れて

 子どものころ、大島では父が建設に関わったコーストガードの基地に自由に出入りすることができた。そこは宮川さんにとって最高の遊び場。毎日のように高台の芝生で野球をして、海に沈む夕日を眺めた。

「基地の中は、まさしく大島にあるアメリカだった。ハンバーガー、コカ・コーラ、ボウリング、すべてが輝いていた。プレスリーの映画もそこで見たんだ」

 高校時代は寮生活。たびたび抜け出しては、映画『イージー・ライダー』を見てバイクに乗り、ジュークボックスのあるカフェでバイトをした。貯めたバイト代で東京へ行って水玉模様の上質なシャツを仕立て、バンドを組んで熱海のホテルに小遣い稼ぎにも出かけた。ファッションも、思想も、大島の同年代からは明らかに浮いていて、話が合うのは、都会の最先端の大人たちだった。

 高校卒業後、「最新の流行やアートを知りたい」と東京に出て、目黒の『鷹美術研究所』に通い始める。

「目指したのはヒッピー。ラブ&ピース。そんな時代だった。アクセサリーや詩集を作って路上で売りロックコンサートの手伝いをした。でもしっくりこない。世の中は物質的な価値を求めていた。ラブ&ピースを歌ってた先輩たちは長い髪を切り就職し始めた。それからようやく、俺は小笠原に目が向いたんだよね」

 先に家族が移住した父島に、初めて渡ったときのことを鮮明に覚えていた。

「16歳の夏休み。父島にはアメリカに統治されていたころの空気が残っていた。パームツリー並木の横にアメリカンハウスが建っていて、ハイビスカスが咲き、魚はカラフルだった。大島とも 東京とも何もかも違う。親父は扇浦(おうぎうら)という浜の近くの土地を開拓して住んでいた。100人の仕事師を抱え、土木に従事していたんだ」

 東京ではつかめなかったものが父島で見つかるかもしれない。見つけたい。家族が移住した4年後、ようやく宮川さんも19歳で父島に渡り住む決意をした。

19歳、ジャングルで自給自足

 島に来ても、アウトサイダーという感覚は変わらなかった。自分と同じ感覚の人間はひとりもいない。父が携わっていた土木の仕事をしようとは思えない。それなら自活するしかない。

「親父は怒っていたよ。男は15歳から働くもんだってね。俺はジャングルの木を切って開拓し、自分で小屋を建てた。電気は自家発電、水を引いて海で魚を釣って自活した」

 1975年には観光客相手に小さなライブハウス兼民宿『RAO(ラオ)』を始めた。客がいない時期はひとりでくまなく島を歩き探索。カヌーで島の周りを巡り、無人島にも渡って地図を作った。

「島には珍しい石や植物がある。365日、毎日、沈む圧倒的な夕日を眺めた。はるかな昔から変わらず、陽は昇り沈んでいる。自然と対峙(たいじ)するひとりの時間は、どんなアートよりも美しいと気がついたんだ」

 宮川さんは23歳のころ、19歳のゆき乃さんと夫婦になった。横浜で生まれ育ち、観光客として小笠原で宮川さんと出会い、結婚した。これまで仕事のサポートもしながらともに歩み続けてきた。

典継23歳、ゆき乃19歳で結婚し、長女・空を出産。後に次女も授かった

「そのころの島の暮らしはとても不便でした。生活に余裕もなくて大変だったけど、ただひたすら目の前のことをやってきた。若くて純粋だったからできたんでしょうね(笑)。でも、彼が新しいことにチャレンジする姿は見ていて飽きませんでした。きっとあのころ、彼は孤独だったと思うんです。すごくとんがっていたから理解者がなかなかいなかったんだと思います」(ゆき乃さん)

 父島の中心は港のある大村で、扇浦は少し人里離れたところにある。

「1度だけ、親父の仕事を手伝った。当時、扇浦のビーチはチリ地震で打ち上げられた岩石が散乱してひどい状態で、親父と一緒に整地作業を始めた。ただ、どんな目的であっても、国立公園の自然に許可なく手をつけることは許されない。役所とのトラブルが絶えなかった。だけど、親父は聖者のようで尊い人だったよ」

 そのとき、父の典男さんは、宮川さんにこう言った。

「昔の風景を取り戻すぞ。その場所に住んでいる者が住んでいるところを美しくしなければならないんだ」

父と整備した扇浦。美しい姿を取り戻した

 今、宮川さんの中で核となっている「ローカリズム」の本質は、この言葉から始まった。「自然は人間の手が入ることで本来の姿を取り戻す」。そして36年後、この言葉が想像を超える形で結実することになる。

「元祖イルカ遊び」で観光客が殺到

宮川さんは現在でも、スキンダイビングで自由自在にイルカと遊ぶ (C)PLANETIST FILM PARTNERS

 サーフィンを始めたのは20代半ば。旅先のセイシェルでサーファーに出会った。映画『ビッグ・ウェンズデー』にも影響を受けた。友人に湘南でサーフィンを教わってサーフボードをもらい、島に持ち帰ってから世界は変わった。店を細々と続けながら港の荷役の仕事も始め、自分で探索して作った地図を頼りにサーフポイントを探した。

「板の上に立つと海、波のエネルギーが足裏から全身に伝わってくる。サーフィンを始めて島に住む意味、自分の軸ができた。海、地球、宇宙のおかげで信じるものを見つけられた。何者かになりたかったけど、求めるものはどこか遠いところじゃなく海にあった。自分の中にあったんだ」

 自分の住む場所に誇りを持ったとき、外の世界の人たちも、そこに集まってくることに気づいた。

 ’82年ごろ、内地や海外からサーファーがやってくるようになった。フランス海軍が使っていた「ゾディアック」というゴムボートを購入し、サーフボードをのせて誰も知らないサーフポイントに案内することも増えた。

 イルカとの出会いも、サーフィンがきっかけだった。

「俺たちサーファーは、移動中にイルカを見つけるとボートを止めて一緒に遊び泳ぐようになった。イルカの邪魔をしないように静かに海に入りぐるぐる身体を回すと、イルカもまねをする。イルカがこちらを向くと、眉間がチクチクして、何かメッセージを送ってきた。サーフィンをしたときの地球と交信しているような感覚。ものすごい快感だった。ボートに這(は)い上がって気絶したよ」

 宮川さんは、野生のイルカと遊ぶように泳ぐ「ドルフィンスイム」のパイオニアでもある。

「イルカと泳いだときに感じたあの感覚、素晴らしさを多くの人に知ってほしい。サーファーだけでなく、旅行者や観光客、通勤電車や雑踏から逃げてきた人たちに、素敵な気分になって帰ってもらいたい」そう思った。

 ’92年から「元祖イルカ遊び」と命名してツアーを始めると、その未知の体験はじわじわと口コミで広がり、ブームとなっていった。

 火がつくと認知は爆発的に広がる。そのころから新聞や雑誌の取材も殺到。撮影コーディネートやクジラの生態調査などの協力も頼まれるようになった。世界では環境破壊が問題になり、エコブームに突入していた。研究者や著名人が小笠原を訪れ、テレビ番組や映画も作られた。

野生のイルカと泳ぐため観光客が集まった。群れを探し船を走らせる

 20年以上の仕事仲間であり友人でもある編集者・作家の森永博志さん(68)は、宮川さんとの出会いをこう語る。

「’96年、写真家の関口照生さんと製作した小笠原のドキュメンタリー映画の撮影をコーディネートしてくれたのが典継です。僕はそれまで世界中の島をいくつも訪れていたけど、小笠原ほど雄大な海は初めてで、圧倒されました」

 そのころ、日本はオウムのサリン無差別テロや世紀末の空気に包まれていた。

「小笠原に来ると、解放されるような感覚になりました。真っ黒に日焼けした典継は、まさにアイランドって感じなのに、’60年代のカウンターカルチャーに傾倒していて、とても先端的だった」

 撮影の合間にたくさんの話をした。アートや音楽、文学、話もアイデアも尽きない。宮川さんはジャンルを超えて幅広い知識を持っていた。

「カルチャーだけじゃない。宇宙、科学、禅─。すべてにおいて好奇心旺盛だった。島にいるから流行に影響を受けない。僕たちより何事においても一歩早い感じがした。まさに開拓者のイメージです」

 森永さんは、宮川さんを島に住むシャーマンとして登場させた小説『PLANETIST NEVER DIES』を雑誌に連載したことも。

「海に出たら頼るものは何もない。サーファーでありボートを操る典継は身体ひとつで自然と対峙している。精神的・肉体的にも超人的な賢者。まさにプラネティストです」

 惑星ボニンの住人。地球という小さな惑星の小さな父島には、ひとつの惑星に匹敵する世界が広がっている。

逆転の発想で「楽しい自然保護」

 2011年、小笠原諸島は世界自然遺産に登録された。宮川さんは、そのキーパーソンでもある。移住後、島や海の魅力を各地に伝える役割を担ったように、小笠原の空港建設問題についてもサーフポイントや自然を壊さない方向性を探り続けた。

 世界自然遺産の登録に欠かせない要素として、ひとつのエピソードがある。絶滅危惧(きぐ)種アカガシラカラスバトを守る『東平(ひがしだいら)アカガシラカラスバト・サンクチュアリー』(保護地区)設立だ。小笠原自然文化研究所(通称アイボ)の佐々木哲朗さん(42)に話を聞いた。

「私がアイボに入った’05年、アカガシラカラスバトのコアな繁殖地はノリさん(宮川さん)が代表を務めていた小笠原自然観察指導員連絡会が管理していました。野生化したノネコが海鳥やハトを襲って問題になっていて、ノネコを近づけないよう周りに柵を作ることになりました」

 しかし、問題は山積みだった。ノネコはもともと飼い猫で、自然保護と愛護の問題が絡み合う。確保して殺処分するべきなのか。国定公園内の木を切り柵を作ることは生態系の破壊につながらないのか─。環境省、林野庁、東京都、小笠原村、研究者、事業者、島民の意見をまとめるのは至難のワザだった。

「ノリさんはサンクチュアリーの管理もしていたから現場も知っていたし、土木の知識もありました。行政の担当者や事業者が何を目的として仕事をしているかを俯瞰(ふかん)してつながりを見ていた。第一印象はめちゃくちゃ怖かった。目的を忘れそうになると、このプロジェクトで何を大切にしているのか、それぞれの担当は何をするべきなのか厳しく問われるんです」

 宮川さんの哲学は明快だ。期日や費用に重点が置かれそうになれば、原点に必ず立ち返る。「生物の命、島民の生活、コストパフォーマンス」の優先順序に妥協はしない。

サンクチュアリーはガイドの同行が必要。看板は手作りで島民が関わっていることを示す

 これまで、生態学者、行政、土木の事業者は日本各地で対立してきた。それぞれの立場で主張し合い、何か問題が起きるたびに作業も硬直する。

「ノリさんは存在感も圧があるし、強面(こわもて)の抵抗勢力かと思われがちですが(笑)、仕事を必ずやり遂げます。よりよいものを作るにはどうすればいいかを検討するために本気でぶつかるんです。ノリさんは研究者の意図を翻訳しポジティブな解決策に導いてくれる翻訳者でもあります。今は繁殖期だから工事を止めてくれ、納期は譲れないとなれば施工順序を提案してくれる。オカヤドカリの山と海岸との往来を遮りたくないといえば柵の構造のアイデアを出してくれる。捕獲したノネコを東京へ送り里親を探す活動の認知を広めるための施設『ねこ待合所』も、もっとみんなにアピールできるよう猫のデザインにしようとノリさんが提案し、施工してくれました」

 それぞれの価値観を認め、よりよい方法を探る。価値観が違っても、それぞれがやるべきことが見えてくると、すべてはポジティブに回りだす。宮川さんは全体のグランドデザインを提示する日本初の「保全工事アドバイザー」となり、父島の自然保護に重要な役割を担うようになっていった。

 自然保護は1度柵を作れば終わりではない。多くの人に興味を持ち続けてもらうことが必要だと宮川さんは語る。

「なんでも作りっぱなしはいけない。みんなとコミットメントして動かしていくことが大事なの。俺がやりたいのは“楽しい自然保護”。人が興味を持たない保全活動は長続きしない。エコツーリズムという形で自然保護の啓蒙活動、島民の経済活動を両立させることができれば、学者、行政、島民が一体となって自然を守ることができる。それを観光客が見守り続けてくれる」

石やサンゴを容器にいれて来訪者数をカウントするなど自然に親しむ仕組みも考案

 2000年、40羽まで減っていたアカガシラカラスバトの現在の推定数はおよそ400羽といわれている。

 絶滅危惧種を守るためには人を締め出すことを考えがちだが、あえてエコツーリズムを推進し、自然保護を啓蒙することで思いをつなげることが可能となった。世界自然遺産登録のためにIUCN(国際自然保護連合)の査察官が来たときも、環境省の担当者だけではなく、アイボの研究者や島民でガイドでもある宮川さんがそれぞれの持ち場の役割や思いを伝えた。佐々木さんは、「その土地の人たちがそれぞれの役割を果たしながら自然を守っているこの小笠原のスタイルも、2011年の世界自然遺産登録の大きな決め手になったと思います」と話してくれた。

窪塚洋介も魅せられた「小さな惑星」

初めて小笠原を訪れた窪塚洋介。宮川さんの印象を「ジェダイマスター」と話す   (C)PLANETIST FILM PARTNERS

「俺はサーファーで、波に興味があってアートが好きなだけ。別にハトに興味があったわけじゃない。だけど、この島には原資がない。圧倒的な自然しかない。人が来るにも時間がかかる。そういう負の要素をすべて逆転させる必要があったんだよ。俺には学歴も資格もないけど、必要性を説いて説得するにはそれだけの知識がなきゃいけない。生物学、地質学、幅広い科学の知識を独学で学んできた」

 宮川さんは、世界自然遺産にすることで、自然保護と経済の活性化をワンパッケージにできると思っていた。イルカの島と認知されたことで人が来て、類いまれなる自然に触れ、ここでしかできない体験をすればそこから認知されていく。やがて、人々は小笠原諸島に注目し、憧れの場所となっていった。

 今年、アメリカから返還されて50周年を迎えた。

「ここまで30年以上かかったよ。なんだかわからない宿命を背負っちゃって、やらされているような強迫観念があった。でも、それが今なくなった。ああ、大切なものを守ることができたって、そういう気持ち。今初めて人としてスタート地点に立っている感覚なんだ。やり遂げるまでにたくさん学んだし、インテリジェンスも身につけた。今はただ生きていることに満足してる。これから初めて俺にとっての本物の運命がやってくるんじゃないかと楽しみだよ」

 今年、宮川さんを中心に据えたドキュメンタリー映画『プラネティスト』(2019年5月、順次ロードショー)が完成した。監督の豊田利晃さんは、前出の森永さんの書いた小説を読み、小笠原と宮川さんに惹かれていた。

 2014年から4年かけて原始の地球の姿を撮影した『プラネティスト』。人はこの島に来て何を感じるのか。小笠原の自然に触れたアーティストたちが、新たな気づきを得て、魂の本来の力を取り戻していく。その克明な記録がフィルムに焼きつけられた。俳優でアーティストである窪塚洋介さんもそのひとりだ。小笠原を訪れた感想をこう述べている。

「あの地を訪れたことのある者としての“誇り”のようなものが心のどこかにあるような気がしてます。言葉を超えた『青』や『透明』との出会い、息づく生態系、風の声、そのすべてが何か別の惑星のようにも思える。当時、小学生の息子も行きましたが、この時期にあの途方もない自然とその力に触れることができて親としてとてもよかったと思います。彼のDNAに刻まれたその記憶はきっと一生の宝物や支えになるんじゃないでしょうか。ひとりでも多くの人に、あの島の魅力が伝わることを願っています。これからの時代に必要な自然や叡智や歴史、閃(ひらめ)きの宝箱だと思います」

 世界自然遺産に登録され、ドキュメンタリー映画が完成しても、宮川さんの物語は終わらない。祖父から父へ、宮川さんへと受け継がれた魂は、娘や孫たち、そして、宮川さんの魂に共鳴する次の世代に引き継がれ、脈々とつながっていく。

 6年前に父島に移住したスフォルツァ・ルディさん(37)はイタリアにルーツを持ち、日本、スイスなどさまざまな土地で暮らしてきた。

「最近まで自分の故郷はないなと思っていたけど、今は父島に家族ができて、ここが帰ってくる場所と思えるようになりました」

 現在、翻訳業を営みながら小笠原諸島のフリーペーパー『ORB』を発行している。

「ノリさんは僕にとって人生の案内人です。父島のためにできることを何か始めたい、すでにフィーチャーされている自然だけでなく、文化的な側面を打ち出していきたいと思っていました。雑誌に助言をくれ、背中を押してくださったのがノリさんです」

 宮川さんは、インタビューの最後をこう締めくくった。

「俺はこれまで、アート作品を作ってきたんじゃないかと思う。ヒッピーだからね、コラージュが得意なんだよ。宇宙の成り立ちや禅の教えを自然保護に応用してきた。世界自然遺産になったことだって、アートだよね。アートには哲学がある。この世でいちばん美しいアートは自然だよね」

島がくれた「ブレない軸」

 42年、宮川さんとともに歩んできた妻のゆき乃さんは、こう振り返る。

「いろいろなことをやってきたようだけど、彼の中にはずっと1本貫いている軸がありました。信じてやり続けることで、それを理解して人が集まってきてくれるようになった。これからも思うままにやりきってほしい。子育て中はいろいろ大変なこともあったけど、この年齢になって振り返ってみると、私がこの島に来て彼のそばにいた意味がわかるようになりました」

 長女の空(くう)さんは、「家族らしくなったのはここ数年」と笑う。

「土日も夏休みも観光業はハイシーズン。父はほとんど家にいませんでした。3年前に私の娘、父にとっては初孫が生まれて、ずいぶん変わりましたね。スーパーに買い物に行くことなんて今までなかったのに、孫と2人でスーパーに行ってお菓子を買ってきたりするんですから(笑)」

 空さんの夫で、ともにコーヒーショップを営むサーファーの雄介さんも、「伝説のサーファー・ノリさんがこんなになるなんて、島の波動が変わるくらいの出来事です!」と言うほどだ。

孫と過ごすひとときは賢者のような雰囲気から一変して「おじいちゃん」の顔になる

 宮川さんがずっと持ち続けてきた「軸」とはなんだったのだろうか。

「要するに、“絶対に人は美を求めて生きる”という信念なんです。人は困ったときは天に従おうぜっていうのが俺の提案。本当の自然に触れて、自分の中に起こることを感じれば、夢も希望もない社会に、夢と希望を与えることができる。そのきっかけとなるのが、この惑星、ボニンアイランドなんだと思っています」

 宮川さんは自然の翻訳者であり、案内人だ。ひとつひとつの命、ひとりひとりの価値観の違いをつなげ、世界を回す。波のいい日は海に出て波に乗り、父島の森を見回る。頼まれればガイドをし、林野庁や環境省との会議にも顔を出す。知り合いにサーフィンを教えることもあれば、撮影のコーディネートをすることもある。孫との散歩も楽しんでいる。

 そして今日もひとり、サーフボードを抱え、小さな惑星の波をとらえるため、海に出かけていく。

 

(取材・文/太田美由紀 撮影/伊藤和幸)

おおた・みゆき◎大阪府生まれ。フリーライター、編集者。育児、教育、福祉、医療など「生きる」を軸に多数の雑誌、書籍に関わる。取材対象は赤ちゃんからダライ・ラマ14世まで。取材で培った知識を生かし、2017年、保育士免許取得。NHK Eテレ『すくすく子育て』リサーチャー。家族は息子2人と猫のトラ。現在、初の著書執筆中