「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止する」と規定する優生保護法のもとで行われた、障がい者らへの強制的な中絶や不妊手術。国は「人口資質の向上」を掲げ、高い生産性を実現するために、障害を持つ者の子孫を極力残さない「優生思想」に基づく政策を続けてきた。子宮摘出や子宮への放射線照射といった違法行為も明らかになっている。
障がい者は、国民としてカウントされているのか疑問
なぜ差別的な政策が続けられ、地域や自治体ぐるみで推進されてきたのか? この問題に取り組む『優生手術に対する謝罪を求める会』の大橋由香子さん、『DPI女性障害者ネットワーク』の米津知子さんに話を聞いた。
国は、刑法の堕胎罪で中絶を禁じながらも、「不良な子孫」を残さないために優生保護法で中絶を容認、ときには強要し、人口の「量と質」を管理してきたと大橋さんは言う。
「戦争中は“産めよ増やせよ”でしたが、戦後は“少なく産んで賢く育てる”となりました。そして避妊法の前に、中絶を普及させた。このように誰もが人口政策の網にかけられています。優生思想を浸透させ、影響させたことを変えるために、国は間違いを認め謝罪すべきです」(大橋さん)
強制不妊手術が多かったのは1950年代なかば以降だ。社会開発、保険福祉が言われ始め、'60年代には大規模な障がい者収容施設が計画される。
「障がい者に福祉を提供すると、コストがかかるため、障がいのある人の出生を減らしたかったのでは。障がい者は、本当に国民としてカウントされているのか疑問です」(米津さん)
強制不妊手術をめぐって地域や家族も積極的と言えるほど、協力・加担してきた事実がある。
「例えば、知的障害の女性が暴行されて妊娠したらかわいそうという親心がある。本来、それは暴行する側が悪いが、施設で働く人たちも、中絶や手術が障がい者を守ることになり、結果的にいいことだと思っていたのでは?」(米津さん)
「一生懸命な職員ほど、近所に知的障害の人がいれば施設へ入所させたり、精神病院の患者さんに手術させたり。上から命じられたら熱心に件数を増やそうとしてしまう」(大橋さん)
優生保護法から母体保護法に改正されて22年がたつ。障がい者を差別する「不良な子孫の出生の防止」との文言はなくなったが、なぜ改正するのか、国はきちんと説明していない。
「優生保護法の背景にある優生思想や、強制不妊手術の存在を知られないために言わなかったと勘ぐりたくなります」(大橋さん)
強制不妊手術をめぐる問題について、マスコミが取り上げたこともあった。しかし、大きな関心を集め社会的問題として広がっていくことはなかった。
「被害に遭った当事者は語りにくかった。それに近い人も語りにくい。当事者でない人が、自分に引きつけて考えることも難しかったでしょう」(米津さん)
「国会に訴えても、なかなか広がらなかった。それだけ忘却されてきました。だからこそ、“そんな法律があったのか”と最近になって注目が集まったのではないでしょうか」(大橋さん)
障がい者への見方が変化していった結果と言えるのだろうか。ただ、現在でも、胎児に障害があるかを検査する「出生前診断」を希望し、障害があるとわかると、中絶を選択することも多いと言われている。
「“出産できるピーク”を強調して、“早く産まないと妊娠しにくくなる、障害がある子どもが生まれやすくなる”と女性たちにプレッシャーをかける情報があふれています。自治体が流す婚活や妊活の情報にも盛り込まれている。産む・産まないは女性の権利なのに、幸せを決めつけられている状態です」(大橋さん)
人間の価値を「生産性」ではかる考え方は、最近ものさばっている。米津さんは、ポリオにかかったことで手足に障害を持つ立場から、こう話す。
「そういう考えは、自分を苦しくしてしまうのでは? なにかうまくいっていないことがあると、許せなくなるのではないか。障害のあるなしにかかわらず、うまくいかなくてもいいと思えれば楽になるはず」(米津さん)
障がい者らの大量殺人事件を振り返って
2016年7月26日未明、神奈川県相模原の県立知的障害者福祉施設「津久井やまゆり園」で、元職員の植松聖被告(28)が入所者19人を殺害、入所者・職員あわせて26人にケガを負わせた。2年が過ぎた現在では、事件の現場であった施設の解体が進む。
風化が指摘されるなか、相模原事件について語り継ぐ当事者がいる。任意団体『にじいろでGO!』代表で、知的障害のある奈良崎真弓さん(40)だ。
「事件は早朝だったので、最初は、ぼーっとニュースを見ていて。夕方になると、知人と一緒に入った居酒屋で、やっぱり事件のニュースが流れていたんです。寒気を感じたと同時に、なぜか高い声で笑っていた」
実は、1989年の東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件のときも、ニュースを見て同じように反応していたと兄から聞かされた。何か世間を騒がす衝撃的な事件があったとき、笑うことで、感情のバランスをとろうとするのだろうか。
「その後、1日半だけ、まじめにテレビを見てました。19人の仲間が亡くなったことの悲しさを感じました」
植松被告は事件前、大島理森・衆議院議長あてに手紙を出している。その中で《障害者総勢470名を抹殺することができます》《障害者は不幸を作ることしかできません》などと書いていた。奈良崎さんは、それを報道で知った。
「心が割れた」
植松被告の“主張”は、障がい者へのヘイトスピーチでもある。そのため、さまざまな障害を持つ当事者たちが声を上げ反論した。しかし、被害者の立場に近い、知的障害を持つ当事者たちからの声はなかった。
「『親の会』が本人と一緒に声を上げてくれるのではないかと思ったけれど、しなかったんです」
施設で働いていた職員が起こした事件だ。奈良崎さんは誰を信じていいのかわからなくなっていた。
「これまで支援者とは、友達やきょうだいと同じような感覚で付き合ってきたんです。でも、(距離の近い人に)殺されるかもしれないと感じ、縁を切らないといけないとも思いました」
「本当に生きていていいのか」
事件後、奈良崎さんは恐怖を抱き続けた。知的障がい者であることを示す療育手帳を普段は持ち歩くが、このころは家に置いていた。
「障がい者の社会ではなく健常者の社会にいようと思った。そのほうが平和な気がしたから」
事件から2か月後の9月、日本障害者協議会が主催する緊急集会が参議院議員会館で開かれた。奈良崎さんは「本当に生きていていいのか」と問いを投げかけた。
また11月には、支援者らとともにイベント『知的障がいのある自分たちの経験を話し合おう―相模原障害者施設のこと―』を企画。呼びかけに賛同した当事者10人と支援者、事務局員ら20人ほどが参加した。
「私たち障害のある仲間のことも大事だけど、生きているとはなんだろう、って。人は単純に傷つけられるし、傷つく。そう事件を通じて知った。障がい者と健常者とを分けるのではなく、つらいことを一緒に考えたいと思うようになりました」
企画に参加した人を中心に、一緒に事件などを考えていく団体を作った。「にじいろ」は7色のことで、さまざまな人がいることが当たり前であることを示す。
ただ、事件のことを詳細に、何度も話をするのはつらいという気持ちもある。
「事件のことは忘れてはいけないけど、それだけを話していても、しんどいだけ。聞いているほうもしんどい。だから、今後の生き方や障害のこと、自分のことなどについて、仲間同士が語る場を作ったんです。障害があってもなくても、ここにいたら笑っていてほしい」
今年7月にもイベントが組まれた。在宅で暮らす障がい者たちは、施設で暮らす障がい者の生活を知らない。暮らしぶりをビデオつきで紹介した。
「障害の有無に関係なく、みんなが暮らすことが大事」
来年度は、事件についてのワークショップ開催を予定している。
「相模原事件は、平成最後のみんなの印象に残る事件だと思う。海外の当事者らは、事件に関するいろんなメッセージを出している。地方でもワークショップができればいい」
相模原事件も、強制不妊手術も、役に立たないとされた者を選別する「思想」が根底にある。障害の有無にかかわらず、人は人として尊重されるべきだ。