岐阜県中南部に位置する、人口約10万人の可児(かに)市。ここに、子どもからお年寄りまで年間40万人以上が訪れると話題の公立劇場、可児市文化創造センター・アーラ(以下、アーラ)がある。
映画祭、コンサート、寄席、演劇のほか、市民に向けたワークショップを年467回(2016年度)ものペースで開催。いまでこそ市民に広く開かれた存在となったが、2002年の開館当初は市民にとって敷居が高く、その売り上げは1000席以上のホールを持つ全国の施設のなかでワースト3。
この状況を抜本的な改革で一変させ、2014年、就任7年目にして、来館者数約20万人増加、観客数3.68倍増加という素晴らしい数字を叩き出したのが館長兼劇場総監督の衛紀生(えい きせい)さん(71)だ。
「僕はね、家族の枠を超えた、市民のみなさんの“人間の家”を作りたかったんですよ。誰ひとり孤立させない市民の居場所としてね。高齢者や小さな子どもとお母さん、不登校の生徒なんかに向けて、演劇やダンスを使った面白いワークショップをやっていますから、1度見に来てください。驚きますよ」
10月上旬、高齢者向けのワークショップが開かれるという一室は、不思議な熱気と笑いに包まれていた。
参加者は31名。「エリザベス」「ミーちゃん」などニックネームの名札をつけた60代以上の男女が円になって座り、自己紹介が始まる。ワークショップの講師がタンバリンを手に「いまの気分を太鼓の音で表して!」と声をかけると、「パ、パ、パ、パン。ユミサです♪」「パパパパパ、ドン! トシちゃんです。よろしく!」など、それぞれが好きな音で手短な挨拶をしていく。時折、個性的なリズムで笑いを誘う参加者もいた。講師が叩くタンバリンの音に合わせ、隣の人と肩を組んだり、両手を挙げてウエーブを起こしたり。身体を動かすうち、自然と和やかな空気が生まれていく。
この日のメインは4人1組で行う「即興演劇」。グループが決まると、講師からお題が出された。
「『●ん●い』の●の部分に文字を入れて、4文字の言葉をチームごとに書き出してみてください」
じんせい、さんせい、かんてい、まんざい、せんせい、たんてい、ばんざい……。
続いて、3つのキーワードをテーマに盛り込んだ即興劇のシナリオを考える。細かいセリフはノリとその場の思いつき。ストーリー展開と役割だけ決めると、すぐ練習に入った。持ち時間は10分。各チームの選んだキーワードが何か、ほかのチームは劇を見ながら当てるというゲームだ。もちろん演じる側は、劇中キーワードを口にしないのがルール。
─アクション!
「ちょっとアンタ、その女、誰なのよ!」
「こ、こいつは……あれだよ、前の女房との間の……娘!」
「は? 娘? ふざけないで!」
迫真の演技で修羅場が幕を開けた。男に飛びかかり胸ぐらをつかむ女と親しげに絡ませた腕を頑(かたく)なに離さない女。三角「カンケイ」に巻き込まれた女の怒りはヒートアップし、殺人事件に発展。逮捕された女は弁護人と「メンカイ」するが、素知らぬ顔で男の間抜けな過去をベラベラ明かしていく。だが、とある男の真実を知ると、徐々に「ハンセイ」の色を見せ始め─。
恥じらいを捨て、真剣に演じる男女が、演劇コミュニケーションを通してつながっていく。達成感を共有しハイタッチを交わす演者に、手を叩いて大爆笑する観客。そこには、まるで「学園祭前夜」のような高揚感と一体感が漂っていた。
見事な貫禄で「復讐女」を演じたかよちゃん(77)は、夫を亡くして1年間、ほぼ家に引きこもっていたと明かす。
「友達の誘いで参加するようになってね。最初は、なんて馬鹿げたことをするんだってビックリしたわよ! でも、通い続けるうちに自分をさらけ出すことが楽しくなって。ここでは大いに発散して馬鹿になろうと(笑)。新しいお友達もできて、いまはこの場所が私の生きがいですね」
乳がんを患うみーちゃん(71)は放射線治療の帰りにその足で参加。「病気しても、ここへ来ると頑張ろうと思える」と満面の笑みを見せ、自称人見知りの男性参加者あとさん(73)も「町内の健康サロンより、みんなで楽しいことができるココが最高!」と、はにかむ。3人とも連れ合いに先立たれた単身者だが、アーラに通い始めて気持ちが少しずつ上向いたという。
演劇は素人でも、それぞれの知恵や人生経験がぶつかり合い、それが表現となる。思わぬ視点や解釈に共感し、互いの理解が深まっていく。まさに“安心できる他者”と出会える市民の居場所─。
講師のひとり新井英夫さん(51)は「福祉、社会教育、アートが少しずつ入った寄せ鍋のような空間」と言い表す。
「ここでは互いの役割や肩書を忘れ、固有名詞の自分に戻れる。そうやってみなさんが“非日常”を過ごすことで、もっと生きやすくなるんじゃないかと思うんです。衛館長はある意味、従来のアート(芸術)を道具にして世の中にアプローチし、まちに新しいアート(関係性)を生み出そうとしている。今の日本の芸術界で、重要な人ですね」
0〜3歳の子どもと母親向けのワークショップでは、珍しい楽器の音色や講師のユーモラスな動きに反応して、子どもたちが大はしゃぎ。手足をばたばた動かし声を上げる。巨大な和紙がふわふわ風を起こして頭上を舞うなど、ここでも“非日常”が用意されていた。舞台のセットのなかで30人の親子が遊んでいるようにも見える。
ワークショップが終わると、そのまま交流の場として部屋が開放されていた。
「主役はママです。ママがイキイキしていると子どもも安心して遊び、感受性がアップする」
と衛さんは言う。
2歳の娘と参加した、ゆうさん(24)は、こんな本音を口にした。
「家事と子育てに追われ、うわーってなることが実はあって(苦笑)。講師の方々を見ると、子どもへの接し方とかどんな音や遊びに娘が反応するかとか、勉強になります」
「子育ての悩みが解消される」と話すのは、3歳の娘を持つあすかさん(31)。
「反抗する娘に、家ではイライラしちゃって。成長でもあるけど難しいですね。娘と2人きりだと間が持たないというか、しゃべる言葉も同じ調子で……。誰とも話さない日もあるので、ここで友達とおしゃべりできると私自身も気分転換になって、笑顔でいられるんです」
◆
衛さんは“演劇人”として、「演劇コミュニケーション」の力を誰より信じ、アーラを拠点に変革を起こそうとしている。その背景には、長年、演劇評論家として活動し全国にある400もの劇場ホールを目の当たりにしたからこそ抱いた、「日本の劇場」に対するある違和感と、ある強い思いがあった。
演劇との出あいは意外なきっかけ
1947年(昭和22年)1月、東京・下北沢にて7人兄弟の末っ子として誕生。幼少期から寄席や映画に通い詰めるなど、芸能が身近にある環境で育った。学生時代は専ら野球少年だったため、学業は二の次。
「小学校から高校1年生の秋まで、家で教科書を開いたことはなかったです。試験1週間前から徹夜で勉強し続けて、あまりの詰め込みぶりに銭湯で目が回って倒れたこともありましたよ(笑)」
しかし野球部引退後は勉学にも励み、一浪こそしたものの、早稲田大学に進学。大学でも野球をやるつもりだったが、浪人した学生は運動部に入ることが難しいことを知る。
本格的な演劇人生は意外な形で幕を切った。
「たまたま目にとまったのが『新劇団自由舞台』でした。早稲田演劇はまさに隆盛期で毎年、新入生が200名以上入部していました。
稽古は10時〜21時まで、年末年始以外休みはなし。学生劇団ですけど、地方公演もやるし、ほぼプロですよ。授業には出てないけど、大学には一般の学生よりはるかに通っています(笑)」
その没頭ぶりは、大学2年生にして劇団の中心的存在になるほど。
「先輩たちから引き継がれてきた一種の儀式なんだけど、照明などの道具を仕込むとき、怒鳴り合うんですよ。その雰囲気や仲間との関係性がすごく好きだったんですよね」
大学は3年生の終わりに中退。しかし演劇への情熱は冷めることを知らず、21歳からは演劇評論家としての道を歩むことに。『衛紀生』というペンネームで連載を始めるようになる。
演劇評論家としての顔
演劇評論家としての衛さんは、妥協を許さなかった。さまざまなアルバイトをしながら、年間250本以上、多いときには420本もの芝居を鑑賞し、評論を執筆。演劇界を向上させるべく、ときには手厳しい批判を書くことも厭(いと)わなかった。
「批判を書くのは大変で、言葉を費やさないといけない。褒めるのは簡単なんですよ。数行でいい。だけど、どこが悪かったのか相手と共有しないと変化に結びつかないじゃないですか」
妻、柴田英杞(しばた えいこ)さん(59)は、演劇評論家としての衛さんの顔をこう記憶している。
「ダメな芝居のときはカーテンコールの拍手が鳴っている最中でも、着ている黒いコートをマントのように翻し、客席をスッと立って怒って帰るような、おっかない、近寄りがたい人でした(笑)。でも、それくらい情熱にあふれていたんですよね」
だが演劇評論家として軌道に乗ってきた矢先、突然、試練が訪れる。父親が、続くように母親までもが倒れ、言葉をなくした寝たきりの両親を介護する日々が始まったのだ。
ひと言で介護といっても、それは決して生半可なものではない。20代後半の身にのしかかった負荷は大きく、半ば心を閉ざしかけたことも。
「母が救急病院に運ばれたとき、2階の病室から下を眺めると、晴れ着を着た家族連れが除夜の鐘を聞きながら初詣に行くために歩いているんですよ。だけど、自分の目の前には亡くなる間際の母がいる。複雑な気持ちでした。いま自分に起こっている事態をそういうことでのみ込めるというね。気づかないうちに、周りを見る余裕がないほど必死になっていたんでしょうね。人と話すことも避けがちになって、物書きの道も1度は諦(あきら)めかけました」
それでも弱音を吐くことなく、付きっきりでひとり、最期まで両親を看取った後、再び立ち上がった衛さんは、以前の何倍も強くなっていた。介護によるブランクも乗り越え、30代ではテレビ、ラジオにも活躍の場を広げていく。
しかし華々しい活躍の一方、ある思いが日に日に強くなっていくのであった─。
東京の演劇界に失望
「考えさせられる芝居がなくなっていったんですよ」
’80〜’90年代にかけ東京を中心に巻き起こった“小劇場ブーム”により、劇場の数、演劇に関わる人口こそ増えたが、次第に演劇自体は娯楽志向を強めることに。これに強い違和感を抱くようになったのだ。
「Imagination(想像)とCreation(創造)を作動させて、作品と自分とのあいだを往復し、自分だけの物語を作るところに、知的スリルや鑑賞の面白さはあるわけですよ。だけど、観客の“目”の欲望に従順な作品を作りすぎた結果、考えさせられる芝居が減っていったんです」
娯楽志向を強めた東京の演劇界の荒廃ぶりに失望を隠せなかった。そんな衛さんのなかに、ある決意が芽生える。
「地方から東京を包囲してやろう」
さっそく思い切った行動に出る。テレビやラジオをすべて降板、12本あった雑誌連載も1本に減らしたのだ。
「編集者とケンカしながら無理やりやめました(笑)。収入は10分の1以下になりましたよ。確定申告に行くと、税務署の職員から気の毒がられました(笑)」
40歳を過ぎてから10数年にわたり、およそ400もの劇場ホールを来訪。そして、ひとりの少女に出会い、衝撃を受ける─。
’90年代初め、出会いは長崎で待っていた。「あゆみちゃん」という名の小学4年生だったその少女は、知覚過敏と自閉症スペクトラムのため学校になじめずにいた。だが、それぞれの子どもの障がいに合わせた芝居を作る『のこのこ劇団』に通い、前向きに生きる希望を見いだしていたのだ。
「僕は上演される舞台を見て評価をするのが仕事だったんだけど、それは演劇の機能のほんの一部分でしかなかったことに気づいたんです」
そこには、いままで自身が携わってきた演劇とは異なる、もうひとつの“演劇”の形があった。
「芝居としては面白くないし、芸術的価値や評価はゼロに近い。だけど、社会的価値にあふれている芝居でした。そこにこそ光を当てなければ、演劇人としては貧しいんじゃないかと思ったんです」
それまでの自分は「演劇愛好者だった」と、衛さんは自らを評する。同時にそれは、明確な課題が生まれた瞬間でもあった。
「一部の愛好家による“芸術の殿堂”ではなく、すべての人間にとって心の拠(よ)りどころとなる市民劇場を作りたいと思いました。誰しもが自らの家と呼べるような、社会的価値のある劇場、“人間の家”をね」
実際、’95年の阪神・淡路大震災の時には、仮設住宅で孤立してしまった高齢者や障がい者がコミュニケーションをとる機会を持てるようにワークショップを開催。社会的価値を模索していった。
そして、北海道・札幌駅前の劇場プロジェクトに携わることに。ついに夢が実現すると意気込んだが、知事の交代などにより、計画は志半ばで頓挫してしまう。大きな挫折だった。
「もうこれで一生、劇場に関わることはないだろうなと思いました」
自身の手で実現することは、もはや難しいかもしれない─。
’97年からは大学で教鞭を執り、次の世代にバトンを託そうと一線を退いた。
アーラ館長として、大改革!
’06年12月、転機は突然、訪れた。篭橋義朗(かごはし よしろう)事務局長(現教育長)から、「アーラの館長をやってほしい」という依頼が舞い込み、再び腰を上げたのだ。だが、その道は初めから明るいわけではなかった。
「彼が就任した当初、市民にとってアーラはまだ遠い存在でした。ハコもの的認識に近かったと思います」
大胆な改革が必要だった。衛さんはまず、アーラの職員たちに目を向ける。目指すべきアーラ像を組織内で共有し士気を高めるため、月に2回館長ゼミを開催。24人の職員たちひとりひとりの意識改革から始めた。
いまや衛さんと冗談を言い合えるほど打ち解けている職員の坂崎裕二さん(46)も、最初は戸惑いが大きかったと振り返る。
「“アーラは市民の心安らぐ人間の家にする”と所信表明され、文化芸術を提供する施設なのに、何を言っているのかと正直理解に苦しみました(笑)。だけど、可児市民のことを本当に思ってくれていると伝わってきて、ついていこうと。いまでは職員全員、同じ方向を向いています」
衛さんは館長として、持ち前の教育者気質、ときには親分気質を存分に発揮しながら、次々改革に着手した。
「一部の愛好者や、時間と金のある特権階級の人だけに喜ばれるものじゃなくて、シングルマザーや不登校児をはじめとした、社会的、経済的、心理的に劇場からいちばん遠い人にまでアーラを届けたかったんです」
性、肌の色、職業、年齢、障がいの有無、所得の多寡(たか)など、あらゆる区別をなくし、徹底的に“すべての市民”に目を向けたプログラムを組んでいったのだ。
例えば、チケットに関しては、金銭的に門戸を広げると同時に、客席が埋まるほど観客の受け取り価値は上がるとの考え方から、公演2週間前に15パーセントオフ、当日には半額になる『Dan-Danチケット』を提供。この全国でも類を見ない斬新な取り組みには、前出の篭橋教育長も驚いたという。
「いまでこそ広く市民にも理解されるようになりましたが、衛さんから“ニューヨークでは当日券が安いらしいよ”と話をされたときは、まあニューヨークはそうだろうけど……と(笑)。前もって買ったほうがいい席で観られるとはいえ、なんで当日券のほうが安いんだって、苦情もたくさんきました。
彼は、大胆な企画をいつも先に旗揚げしちゃう(笑)。そこがうまいところでね。僕らは実現するしかない状況で関係各所をまわる。説得しがいがありましたね」
また第一線で活躍するゲストを呼び、劇場について広く話し合う場『あーとま塾』を開催。同塾10月の登壇者であり、社会活動家・法政大学教授の湯浅誠(ゆあさ まこと)さん(49)は、アーラの特筆すべき点をこう語った。
「普通は、劇場にいかに人を集めるかを考え、有名人を呼んだりするものですが、アーラは社会課題が先にあるわけですよ。社会課題の解決のために劇場ができることは何かという問題の立て方をしている点が、決定的にほかと違うんですよね」
大胆な試みの一方で、観客に対する細やかな気配りも忘れない。公演の際、誕生月を迎えた観客には、職員手作りのバースデーカードとともに、可児の花であるバラ1輪を席に置いておき、館長自らお祝いの言葉を述べに客席へ向かう。
「誰でもできることだけど、そのひと手間をかけることで、趣味、嗜好(しこう)で来ているお客さんから、根を張るお客さん、いわばアーラのファンになってくれるんですよ」
こうした小さな心遣いの積み重ねが、常連客の創出につながっていったのだ─。
市民に愛される「居場所」
市民を巻き込んだプロジェクトもある。演劇製作の際、キャストとスタッフが1か月半にわたり可児に滞在することが特徴的な『アーラ・コレクション・シリーズ』では、市民サポーターが活躍。役者やスタッフたちのご飯を作ったり、館内に飾る大型宣伝パネルを作ったりと陰から支えている。
「可児って、面白い場所も行事も特産物も、誇れるものが何もなかったんです。だけどアーラによって、この土地が誇れる場所、自慢したい場所になったんです。アーラを通じて可児が好きになりましたし、自分に誇りを持てるようになりました」
そううれしそうに語ってくれたのは、市民サポーターの佐橋あゆみさん(56)。
同じくサポーターの月川まゆみさん(65)も、心の拠りどころとなっているようだ。
「ここに来ると誰かに会えるし、用がなくてもフラーっと通ってパンフレットをもらって帰ったり(笑)。思わず来てしまうんですよ」
アーラの取り組みは、市民のなかに着実に浸透しつつある。
「演劇的な手法を用いて、家庭や社会はもちろん、学校にも安心できる場所のない学生にコミュニケーションをとる機会を作りたい」
そうした衛さんの思いから、地域の小学校や高等学校で出張ワークショップを行うこともある。2012年から開催した岐阜県立東濃高校では、それまでクラスメートと交流を持つことにすら無気力だった学生たちに変化が。前年と比べ、遅刻件数は2471件から953件に、中退者は28人から9人に減るなどした。
同プロジェクトの中心的存在であり、衛さんとは30代のころからの戦友でもある文学座・西川信廣(にしかわ のぶひろ)さんは、
「見た目は怖いけど、話すととても人間味があって。嫌なことにちゃんと怒りを持っている人。議論しても相手が正しいと思えば聞いてくれる。頑固なところは頑固ですけどね(笑)」
と、仕事はもちろん、衛さんの人間味あふれる性格にも信頼を置いている。
「衛さんの理念がいろんなプロジェクトに投影されていて、僕ら現場の人間が二人三脚でやっていくんです」
そんな2人のタッグは介護分野にも及ぶ。2019年、岐阜医療科学大学に看護学部と薬学部を新設するにあたり、前出の東濃高校の事例が注目されたのだ。
「劇場には体温が必要だとよく言うんですけど、看護や介護にも体温のあるコミュニケーションが必要だと常々感じてましてね。病人を抱えたとき、どうしても家族は重荷を背負わなきゃいけない。私自身、両親を抱えたとき、マイナス思考に陥りました。すると本来上れる坂も上れなくなるんですよ。そんなとき、ちょっとした演劇的なゲームを家族と一緒にすることでコミュニケーションをとることは本人はもちろん、ご家族のためにも必要だと思うんです」
アーラから全国へ、最後の挑戦
衛さんの挑戦は終わらない。
「ここなら第2のアーラができるかもしれない」
そう言っていま注目するのは、香川県丸亀市だ。新しい市民会館を作るのに際し、アーラをモデルにしたいという丸亀市と市議会の熱意を知った衛さんは、力を貸すことを決意。可児の外にまで目を向け始めたのだ。
「こいつら本気やなって思ってくれたみたいで。自ら“1万人の丸亀市民に会うんだ”と公言されたんです。丸亀市民の生の声を聞いて、単なるハコモノではない劇場ができるということをちゃんと市民に伝えたい、とおっしゃってくれて。そこまでやっていただけるとは思っていませんでした」
と、丸亀市の市民会館建設準備室長・村尾剛志さん(49)。その宣言どおり、市民と対話するため、衛さんは今年5月から毎月丸亀に通っているという。
そしてこの丸亀市のプロジェクトについて、衛さん自身“最後の仕事”だと述べる。
「可児だけではなく、日本全国にアーラのような劇場が10個あれば、すべての人間にとってもっと暮らしやすい世の中になると思うんですよ。自分自身はやれてあと5年だと思うけど、日本全体の市民劇場のあり方を変える、その頭出しはしたいと思っています」
その思いはすでに現実のものとなりつつある。近年では冒頭のワークショップを含む『まち元気プロジェクト』が評価され、芸術選奨文科大臣賞を受賞。さらに全国トップ16施設に選ばれるなど、’90年代には理解されなかった衛さんの唱える劇場理論が、20年以上たったいま、ようやく全国に広まりつつあるのだ。
それにしてもなぜ、これほどまで“すべての人間”にこだわるのだろうか。
インタビュー中ふと、こんな言葉を口にした。
「お袋のDNAじゃないかなって気がするんですよ。お袋は一家心中のニュースを聞くと、“あるところにはあるんだから助けてあげればいいのに”っていうのが口癖だった。弱い立場の人を前にしたときに、ほっとけないんですよ」
「アーラこそ自分の居場所です。骨を埋(うず)める覚悟ですよ」と語る衛さん。鋭くも温かい眼光が照らす先に日本の劇場の新たなる形、その萌芽が確実に芽生え始めている─。
取材・文/岸沙織(きし・さおり)
大阪府生まれ。東京大学大学院総合文化研究科(超域文化科学専攻)修了。第六回「墨」評論賞準大賞受賞。ウェブを中心にさまざまな媒体で執筆中。
撮影/ 新納翔(にいろ・しょう)
写真家。消えゆく都市風景をテーマに活動。国内外での個展多数。写真集に『Another Side』『築地0景』『PEELING CITY』などがある。