江戸時代から板橋宿の名所として知られる縁切榎(えんきりえのき)。大六天神のご神木が引き継がれ、3代目にあたる高さ約10メートルの榎がそびえる。ここを訪れる人が願うのは「悪縁を切りたい」ということ。だれだって神頼みしたくなるときはある。しかし、あと2週間で年が明け、人々はこぞって初詣に出かけるというのに、今、何を祈るのか。平成最後の年末の4日間にわたり取材時間を切り替えて定点観測した。
東京都板橋区の旧中山道沿いにある本町商店街の交差点の一角に「縁切榎」はある。
「江戸時代にある若い男性が、妻子と別れて出家しようとした。ところが、妻子がなかなか離れようとしなかったので、榎に祈って妻子との縁を断ち、この旧中山道を真っすぐ京都へと向かっていったという話があってね。それが縁切榎の由来になっているんですよ」
と商店街の店主は言う。
縁切りの効力は民間の信仰を集め、人々は榎に祈った。江戸時代末期、皇女・和宮が徳川家に嫁ぐ際には、婚期が短くなることを恐れて、わざわざ大きく迂回して通ったといわれている。
榎はニレ科の落葉樹だ。大きなものは幹の太さが1メートル以上に成長し、高さ20メートルにもなる。その榎の足元に小さな祠が祀られていた。栃木県足利市の門田稲荷神社、京都府京都市の伏見稲荷大社とともに、日本三大縁切り稲荷としてご利益あらたかな神社として知られる。
前出の同店主は、
「かつては通りの向かいにあったけれど、昭和47年に土地が買われてビルになったため現在の場所に移したんです。いまの榎は三代目。一日に少なくても20人は参拝します。土日ともなると、遠方からも来るので100人以上。外国人も来ますよ。夜中の2時、明け方の4時でも来る人がいるんだから」と説明する。
■1日目=12月18日(火)
14:18
「ネットで調べて今年6月初旬に来たんです。そのときの祈願が叶ったので、今日はお礼参りに来ました」
と埼玉県さいたま市の自営業・川村明美さん(仮名、45)は、すっきりした表情で話す。
「縁を切りたかったのは元夫。身内で自営業をやっているんですが、夫がお金を持ち出したんです。離婚を切り出す前に参拝し、絵馬に“夫と別れます”と誓いを書きました。
榎の力が強いので“別れられますように”などと願いごとをすると、切ってはいけないほかの縁まで切れてしまうらしいんです。
約1か月後に離婚を告げ、先週12月13日に円満に離婚できました。高校生の息子、中学生の娘も理解してくれ、私に付いてきてくれました。自営業のほうは、夫をクビにして、姉と2人でやっていくことになりました」
修羅場を迎えることなくスムーズに事が運んだため、年が明ける前に感謝の気持ちを伝えたかったという。
16:09
地元住民も入れ替わり立ち代わりやってくる。
「昨年、近所に引っ越してきて、今年の6月中旬、歩いているときにここを知ったんですね。それ以来、週に1回の割合で来ています」
と板橋区在住の建築会社勤務・益田恵子さん(仮名、35)。かなりお腹が大きい。
「本来の主旨とは違うと思いますが、1年前に流産をしましてね。それで、その流産という悪い縁を切りたい。そして無事に生まれますようにと思って、来ているわけです。これだけは、自分だけではどうしようもないですからね」
益田さんは来月、出産の予定である。きっと元気な子が生まれてくる。
16:44
「父が悪性の脳腫瘍でこの11月から入院しているのですが、状態が芳しくないんです。ネットやテレビでも見たし、噂にも聞いていたので初めて来てみました」
と板橋区の美容関係勤務・水野弓さん(仮名、44)。
「まずは“父の病気が治りますように”ということです。
もうひとつ、私の職場の人間関係が悪いんですね。先輩や後輩に、性格が歪んでいるというか、嫌な人が多いんです。私は職場を変わりたくないので、そういう人たちがクビになってほしいと思って」
と率直に打ち明けた。
知人男性から「縁切榎を参拝したら仕事上のトラブルが飛び散るようになくなった」と聞いて気になっていた。
「その男性は非常に鈍感な人なんですけれども、どうやら事故物件の部屋に住んでいたらしくて、暗くなると幽霊が出たり、人の気配がしたり、物音が聴こえたりしたんですって。次第に精神的におかしくなっていったんです。
お祓いをしてもらったとき、“悪霊がついている”と言われたそうです。それでここに参拝したら、あっという間に怪奇現象がなくなり、顔色もどんどんよくなっていったんですよ。父も私も、そうなれたらいいなと思って」
と水野さん。本当に、ここのご利益はすごいと強調していた。
16:52
「今日で100回目ぐらいかしら。20年前はタバコを断つために来て、すぐに達成できました。5年前には断酒に成功しましたね」
と板橋区の化学薬品会社勤務・田島香織さん(仮名、52)は成功体験を明かす。
「今回、来たのは、母が高血圧で脳動脈瘤。弟が腎臓が悪くて通院しているんですね。それで“病気が治りますように”とお祈りしているんです。お陰さまで、2人とも症状は穏やかになってきています」
17:07
本堂で5分、初代の榎に手を当てて3分、真剣な表情で拝む男性がいた。板橋区の通信関係会社勤務・中山忠明さん(仮名、50)だった。
「7年前にここを見つけてからほとんど毎日、通勤のときなどに来ています」
と中山さん。
祈っている内容とは――。
「13年前、胃潰瘍で手術した母が医療ミスに遭いましてね。一定の金をもらって和解したのですが、それ以降、脳に血が届かなくなって認知症になったんです。あんなに他人に気遣いができる、人の気持ちを察することのできる母が性格まで変わってしまった。
10年前から特養老人ホームに入っていて要介護5です。だから、こうして毎日、母と病気との縁切りを願ってここへ来ているわけです」
その甲斐あってか、平癒とはいかないものの、状態は平行線という。
「認知症はなかなか治らないものですが、状態は悪化していません。少しはご利益があるようですね」
と中山さんは微笑んだ。
病気と闘う家族のために祈る人の思いは強い。
17:36
「ネットでパワースポットと出ていたので、2か月前に来てから今日で4回目です」
というのは、埼玉県ふじみ野市在住の不動産会社勤務・藤村雅治さん(仮名、36)。
「職場の悪い人間関係を切りたいと思いまして。面倒をみてきた後輩が、仕事を覚えた途端、ボクの足を引っ張りはじめたんですね。ボクより多く仕事をしているという上司へのアピールがすごいんです。無理してまで仕事を多くやってきてね。嫌なヤツでしょう。
ええ、少しずつですが、効いてきている感じはあります。機械が壊れてヤツの仕事ができなくなったりしてね(笑い)」
■2日目=12月19日(水)
参拝者すべてが取材に応じてくれるわけではない。およそ半数は取材拒否だ。絶対に言いたくない内容の祈りもあるのだろう。事実、狭い境内に掛けられている絵馬には、
〈〇〇さんが奥さんの××さんと離縁して、△△(自分)と結婚しますように〉
〈〇〇 私利私欲に溺れて卑しい男め おまえだけは絶対に許さない(中略)地獄の業火に焼かれて死ね!〉
と恐ろしいものも。
近所の店主によれば、
「夜中、人目を忍ぶように来て、藁人形を釘で打つ、おぞましい人までいる」
という。
12:45
「この半年で6回目ですね。まだ離婚は切り出していませんが、私にも子どもにも暴力を振るう夫と離婚したくて来ています。“別れられますように”と書きました」
と教えてくれたのは、東京・世田谷区の主婦・藤岡美和さん(仮名、48)だ。
「ふだんはおとなしい人なんですが、仕事のストレスで突然、キレるんです。息子も反撃できる年ごろですが、それも力で抑えつける。
言葉の暴力も。でも、いまは一人息子が大学受験のシーズンを控えており、影響が出るとまずいので離婚はできません。2月に市立大、3月に国立大の受験があって、4月に入学してから言い出そうと思っています。息子も別れたがっていますので……」
言葉に悲壮感があふれ、切実な感じがした。
13:25
東京・目黒区の自営業・土屋智子さん(仮名、47)は2度目の参拝だ。福岡県在住の友人と一緒だった。
土屋さんは、およそ半年前に婚約した。ところが、
「うちの両親は賛成してくれたのですが、相手方の両親と親族が猛反対でね。相手も自営業なんですが、相当にお金持ちなんですよ。興信所を使って私のことを調べて“この女は金目当てじゃないか”とか、“財産目的だ”などとひどいんですね。結婚の時期も延びていて、まるで小室圭さん状態ですよ(笑い)」
友人は「仕事運の悪さを切りたい」と話した。
14:33
「私は主人との離婚。娘は病気と縁を切るために、初めてここへ来たんです」
と東京・北区の介護士・森山みきさん(仮名、53)。娘の佐藤真代さん(仮名、31)は同区在住の専業主婦だ。
母親のみきさんは、
「主人は“オレが、オレが”という亭主関白タイプで、私が何を言っても受けつけないんですよ。束縛も強くて、私が仕事でほかの男性と会話をすると焼きもちを焼いて、仕事に支障をきたすんです。10年前にうつ病になり、1か月前から仕事を休んでいるんです。娘も離婚をバックアップしてくれています」
としんみりと語る。
娘の真代さんは、17歳のときからパニック障害で通院していた。
「糖尿病と甲状腺の橋本病もあって、今年7月に倒れてしまったんですよ。いまは薬を飲んでいるんですが、服用をやめて、子どもを授かれるようになりたい。そのためにも病気との縁を切りたい。ここは、『ポケモンGO』をやっていたら、よくこの場所が出てくるんで、なんだろうなと思って調べてわかったんです」
と話した。
きっかけは何にせよ、ひとりで祈るより、ふたりで祈るほうが心強い。
14:50
深い帽子に、大きなマスクでリュックを背負った30代と思われる女性。取材をお願いすると、キッとした目で睨みつけ、一言も発せず立ち去った。誰にも言えない、重い祈りもある。
18:16
「15~16年前、1回来て、それ以来ですね」
と板橋区の不動産会社勤務・岡本太さん(仮名、38)。妻(42)と小学生の息子(11)と3人連れだった。
「不動産業界は五輪バブルで盛況ですが、ボクの仕事はうまくいっていない。その悪い流れを切りたい」
と岡本さん。
妻は、
「悪い縁を切りたいと祈りましたが、それほど真剣ではないですよ」
と話す。
息子は、
「……特に、ない(笑い)」
という。
仲のいい家族なのだろう。
■3日目=12月20日(木)
9:41
「“縁切りでは都内で一番ご利益がある”と聞きました」
と東京・町田市の会社員・立石梓さん(仮名、20)。仕事が休みの日を利用し、電車で約2時間かけてきた。
「職場恋愛で約10か月付き合った元彼と今年9月に別れたんです。真面目でおとなしい人だけれど、ひとことで言うと、疲れちゃった。毎日、会いたがるし、1日に20通もメールやLINEが来るんですよ。すぐに返事しないと、ぶつぶつ言われるし。
別れたあと、職場で私の机の上に嫌がらせの手紙を置いたり、会うたびにひどい言葉を言われるんです。“性格クズ!”“死ねばいいのに!”とか。睨みつけたりもする。恨んでいるんでしょうけれど、度が過ぎるんです。職場で毎日、顔を合わせるので、本当にしんどい。上司に相談して、あと1回やったらクビと宣告されています」
縁切榎に社務所はなく、宮司もいない。絵馬は近くの蕎麦店、美容室で販売している。売り上げは、ほこらの管理や慈善事業などに寄付する。
立石さんは、絵馬を1000円で購入して書いた。
〈元彼と縁を切りたい。彼がほかの女の子と幸せになれますように〉
ただ決別するだけでなく、元彼の幸せを祈る穏やかな心遣いがあった。一心に祈る姿からは“限界”が近づいている様子がうかがえる。このあと、どうするのか。
「親族の紹介でお見合いをしたんです。その人とうまくいくかどうかは、まだわかりませんが、もし、ここで願いが叶わなかったら、京都にいい縁切り神社があるというので、そこへ行こうと思っています。清水寺もいいと聞くので、そこへも。それから、もしここで願いが叶ったら、今度は東京大神宮へ縁結びに行こうと思っています」
警察には相談していないという。祈るだけならば、元彼を傷つけずにすむ。終わった恋とはいえ、一度は互いに思い合った元彼女の気持ちに元彼は気付けるだろうか。
11:30
「5~6年前から通算300回は参拝している」と板橋区のメーカー勤務・田代真紀さん(仮名、45)は振り返る。
近くに引っ越してきたのは、夫と別居するためだった。
「約10年前から夫は仕事のストレスで激しく酒を飲み、いっさい生活費を入れなくなった。2人の娘にお金がかかる時期だったので離婚を切り出したところ、“離婚はしない”の一点張りだったんですね。離婚については、娘たちも“あれじゃあ、仕方ないね”と認めてくれていました。今年の1月、やっと離婚が成立したんです。下の娘もようやく成人式を迎えましたし、今日は“毎日、無事にすごせています”とお礼参りをしたところです」
最近、久しぶりに会った元夫は人が変わったように反省していて、娘の親としていい関係を築けているという。
12:12
2か月に1回、先祖の墓参りに来るたびに祈るのは東京・世田谷区の飲食業・北中光義さん(仮名、43)だ。
「5年前、幼い娘が鼻炎になってからです。娘は常に口呼吸しかできなくて、鼻ではできないんですね。鼻毛で菌などが防御できないから、風邪やインフルエンザになりやすいんですよ。一昨日からインフルエンザで熱が出ています。すぐ治るといいんですが……。特に成長に影響しているというわけではないんですけれど、見ていて、かわいそうでね」
13:33
東京・豊島区の医療関係会社に勤務する出原浩子さん(仮名、34)は、元彼との関係に心が揺れている。
「交際歴2年で昨年冬に別れました。3歳年下の売れないお笑い芸人の卵です。デートは家で過ごすことが多く、プレゼントをもらったことも一度くらい。それは我慢できたんですが、私の扱いが雑になってきたのが不満だったんです。私の優先順位が低いんですよ。彼は何よりもまず先輩、次に親やきょうだいで、私はその下なんですね。
それでいったんは別れたんですが、こっそり彼が出ているライブに行くなど復縁したくなってきた。きっぱり別れたい気持ちもあるので“切れるものなら切ってください”と祈りにきたわけです」
女心は難しい。
15:43
東京・八王子市の主婦・鈴木洋子さん(仮名、65)は車で2時間以上かけて来た。自分のために祈るわけではない。
「ひとりは、オレオレ詐欺みたいなのにしょっちゅう巻き込まれている人。悪い因縁を切って欲しい。もうひとりは娘の婚約者。数日後に結婚式を挙げるんですが、盲腸になってしまったので、薬で散らしてもう少し頑張ってもらいたい。この時期に手術したら、結婚式場をキャンセルしなきゃいけないでしょう。とても金額は高いんですよ」
盲腸を切る縁を切る、ということか。
15:56
30歳前後の女性。
「主人と離婚したくて。内容は詳しくは言えません」
妊婦さんのようだった。お腹の父親は聞けなかった。
17:01
東京・文京区の主婦・井口タキさん(仮名、80)は背が高く、細身で背筋がしゃんとした品のある女性だ。それほど遠くない距離だが、電車を乗り継ぎ、カートを押して歩いてくるから大変だ。
「みな、小さな嘘をついたり、人に対して小さな悪いことをしたりして、穢れながら生きているでしょう。80歳を迎えたので、そういう穢れを少しずつとって身辺を清めたい。新しい年を迎えるにあたって、どうしても年内に来ておきたいと思いましてね」
命ある限り、できるだけ来るようにしたいという。
■4日目=12月21日(金)
午後8時、街頭の灯りに榎はボウッと照らされていた。参拝客はぐんと減り、寒さが一段と堪える。蕎麦店、美容室が店を閉めた。絵馬を買うことはもうできない。
21:42
40代とみられる女性。
「あまり教えたくないんです。すいません」
21:45
50代とみられる男性。
「ダメでしょう、そりゃあ。はははっ」
21:49
30代と思われる女性。
「いえ、話せません」
22:03
板橋区の物流関係勤務・酒見達樹さん(仮名、42)は、
「母が1年前に大腸の末期がんになったんです」
と切り出した。
「父と初めて2人っきりの生活をして、次第に父の理不尽さがわかるようになってきたんですね。母に聞くと、母はかなり暴力を受けていたという。隠していたんです。父と話し合いましたが、最後は殴り合いの喧嘩ですよ。もう、許せなくてね。そういう父と縁を切るために来たんです」
22:55
50代らしき男性と、40代らしき女性のカップル。
「よしてくださいよ! そんなこと」
と男性は取材を手で制し、鋭い目つきに変わった。
午前0時を回ると、寒さが一段と増した。ラーメン店や居酒屋も閉まり、野良猫が寄ってきた。丑三つ時をすぎても参拝客はひとりも現れなかった。空が白々とあけはじめた。平成最後の年末に、榎はあといくつの願いを聞くのだろうか。