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橋田「ゆっくり話をするのなんて何年ぶり?」
小山内「毎年5月の橋田賞のパーティーは行ってますよ」
以前はご近所同士だった橋田と小山内。今回のように会ってゆっくり話をするのは数十年ぶりなのだそう。
橋田「パーティーではお辞儀するので忙しくて、ゆっくりお話しできなくて。だから久々にこうしてしげしげとお顔を見て。小山内さん、昔はウチから見えるところにおいでになったのよね」
小山内「私の母が体調を悪くして熱海のお山へ引っ越してきたんだけど、ある日“もしもし、私、橋田ですが”“どちらの橋田さんですか?”“シナリオライターの橋田です”と電話があって。私にとっては大先輩ですから、ビックリして座り直しちゃったの(笑)」
橋田「そんな。座り直さないでしょう(笑)」
小山内「それであなた、“お友達になってくださる?”って。女学生じゃあるまいしね。でもライター同士で情報交換もあるし、一緒にプールで泳いだりしてね」
橋田「私が45歳くらいのときでしたでしょうか。もちろん小山内さんのお名前は存じ上げてましたけれども、知り合いではなくてね。それで家を建ててらっしゃる人が近くにいるでしょ、聞いてみたら小山内さんという方だっていうんで、お電話してみたの」
小山内「お友達が区画を譲ってくれてね。そこに小さい家を建ててときどき来ていたんだけど、母がそこへ住みたいと言ったので、私たちは近くに土地を買って引っ越して。その後、近くに越してきたのが赤木春恵さん」
橋田「そうそう」
小山内「これは古い話だから言ってもいいと思うんだけど、その赤木さんの家には片岡千恵蔵とかね、かつてのスターたちが集まって、よく夜通し麻雀したりしていたの」
橋田「えー、全然知らなかった」
小山内「私とあなたはバカ笑いをするようなお付き合いではなかったけれど、赤木さんたちがいると、ちょっと違う楽しさがあったね」
橋田「赤木さんはいつも笑ってらっしゃって。愚痴や文句を言っても明るい方でね」
小山内「屈託がないのね。“まあ橋田さんのセリフの長いこと!”なんて(笑)」
橋田「私のドラマに初めて出ていただいたのはNHKの『四季の家』。当時は姑役といえば山岡久乃さんや京塚昌子さんがいらしたけど、また違った感じの姑だった」
小山内「私はTBS系ドラマの『加奈子』で花火屋のおかみ、同じくTBS系の『おゆき』で寄席のおかみをやっていただいて。『3年B組金八先生』の校長役は当時、女性の校長がとても少なくて、モデルになった方がふっくらした方だったの。それで赤木さんに(笑)。街で“校長先生”と呼びかけられてとてもうれしかった、と言ってましたね」
橋田「それなのに『渡鬼』で意地悪なお姑さんをやらせてしまって。でも、赤木さんはどんなきついことを言っても明るいから、いろいろと助けられました。書いたセリフをきっちり言ってくれる方でしたね。直してくれと言われたことは1度もありません」
小山内「そうそう私、赤木さんからよく洋服をもらったの。言い方悪いけど、わりとさんざん着たやつを(笑)。それをね、パーティーなんかに着て行くと、物はいいから“いつもいいもの着てるわね”と言われて。あ、橋田さんからもいただきますから、あれば言ってください」
橋田「私、あんなに洋服ありません(笑)」
小山内「そんなご縁もあって、赤木さん、橋田さんと何度か旅行もご一緒してね。泉ピン子さんも一緒にハワイへ行ったことありましたね」
橋田「私とピン子が同じ部屋で枕を並べて朝からしゃべってたら、隣の部屋にいた小山内さんが来て“うるさい! 私はもっと寝たいの”と怒られたのよ。それでピン子と2人、どこか外へ食事へ行ったんですよ」
今年、橋田は94歳、小山内は89歳になるということで、話題は「老い」、そして「死」について。
死ぬときまで好きにするなんて図々しい
橋田「本当に老後だなと思ったのは90歳になってから。身体のほうぼうが弱って、肌もシワだらけになって、終わりだなと思いました。だから安楽死のことばかり考えてるの」
小山内「橋田さんは今までさんざん勝手な生き方してきたんだから、そんなこと言っちゃダメよ。私よりも標高の高いところに住んで、視聴率もギャラも高くて、好きに生きてきたのに安楽死だなんて。死ぬときまで好きにするなんて、図々しいわよ」
橋田「でもね、みんなから“なんで安楽死を考えるのか”と言われるんだけど、私は“90歳になったらわかるわよ”と言ってるの。90歳になったら、死と向き合う時間が出てくるんだから。それはどんなに説明したっておわかりにならないでしょう、ほかの方には」
小山内「じゃあ私は、あと1年と少しでわかるのね?」
橋田「わかると思いますよ。でも、あなたは周りに人がいらっしゃるからいいけど、私なんか誰もいないから、どうやってうまく死ぬかってことばかり。ところで私はほうぼうが弱ってるんだけど、あなたは足がお悪いみたいね?」
小山内「'17年にNPOの仕事でカンボジアへ鼻風邪をひいたまま行ってしまって。外は暑くて汗ダラダラ、でも建物の中はキーンと冷えてて、それを繰り返してるうちに本風邪になっちゃって。でも、病院嫌いだからイヤよって布団をかぶって寝ていたんだけど、布団を取ったら……集中治療室に入ってたの」
橋田「えっ、気を失ったの?」
小山内「気がつく人がいなかったら、死んでたでしょうね」
橋田「肺炎になると、戻れなくなる! でも、よかったねぇ」
小山内「ちょっと足が弱ってしまったけど、NPOで作った児童養護施設の『幸せの子どもの家』出身のチャリアという女の子が毎日、病院へ来て面倒を見てくれたの」
橋田「あなた偉いわね。そうやってすばらしい人をひとり、地球上に育てたら、それだけでプラスですよ。そういう人と巡りあえるっていうのも、あなたの人徳なのよ。よく考えたら私、“人間が嫌い”なんだと思うの。
いわゆる人嫌い。あなたは温かいけど、私はすぐ面倒くさくなって“なんでもいい、やめたい!”ばっかり。仕事しても石井(ふく子)さんと会うくらいでね。(私に)生きていてほしいと思ってくれる人もいないし、私が心配する人もいない。本当にこんなに爽やかな人生ありませんよ!」
「これはね、あんまりみなさんご存じじゃないお話なんですけど」と、小山内が語ったのはNHK『おしん』の裏話。
小山内「昔、一緒にプールへ行ったときに、橋田さんが“小山内さん、今度は私だめかもしれない”って突然言い出して。びっくりして“なんのこと?”と聞いたら、いま書いているのが朝から大根飯を食わせるような貧乏くさいドラマで、こんなものを朝から放送しても絶対ウケない、と言うの。そしたらとんでもない、始まったらすごいわけよ!」
橋田「『おしん』のときね。あの話は企画がなかなか通らなかったの。でも同じNHKの『おんな太閤記』で当てた後だったから、まあいいだろうってことでOKしてくださって。それで山形へ行って“撮影に協力してください”と言ったら、当時の知事さんは協力してくれなかったの」
小山内「でも私、イランへ行ったときにテレビから“OSHIN!”って聞こえてきてビックリしたことあったわ。『おしん』は国際的な番組なんですよ。だから、あのときの“今度はだめかも”はなんだったんだろうって」
橋田「ドラマが当たったら、後からさくらんぼ送ってきてくれたりしたんだけどね(笑)。赤木さんも網元のおかみさん役を引き受けてくださって。あれはすごくよかった」
最近のドラマはついていけない
最近のテレビドラマはほとんど見ないという2人。
その理由を聞いてみると……。
橋田「最近のドラマはセリフが短くて、ボンボン言ってすごいテンポだからついていけませんよね。『SUITS』なんか見ていても全然わからない。織田……裕二だっけ。彼はいい雰囲気になってたけど。あなた最近のドラマわかる?」
小山内「私、ドラマ見てないから。動物や昆虫のドキュメンタリーのほうが面白い」
橋田「私はBSで『相棒』や『十津川警部』のシリーズなんかの古いドラマばかり見てます。昔は夜に書いていたので、忙しくて見られなかったんですよ。あなた、あの織田裕二を育てたんじゃないの?」
小山内「育てたというんじゃないけど、その人にとって初めてっていうのはある。西田敏行とかね。でも織田裕二はしばらく見なかったけど、50代になって、いい感じの俳優になったね」
橋田「ドラマの内容は全然わからなかったけど(笑)。今年も『渡鬼』書いてくれと言われてはいるんだけど……私は遊びたいの。あなたは?」
小山内「ボランティアで忙しかったんだけど、私の顔を見ると“ドラマ書いてよ”という方がいるので、新しいものを考えているところ。元気な話にしたいなって」
橋田「そうよ、本業頑張らないと。私はもう充分働いたので、書きません(笑)。それにしても長いこと会ってなかった感じがしないけど、久々にお会いしたらやっぱり小山内さんだなって安心しました」
小山内「私もそんな感じね」
橋田「また一緒に旅行へ参りますか」
小山内「2人とも足を治さないとね」
御年93歳と88歳でも、お元気な2人。新作も期待しています!
《プロフィール》
橋田壽賀子(はしだすがこ)
脚本家。1925年、京城(現在の韓国・ソウル)生まれ。松竹初の女性シナリオライターとして活躍後、'60年代からテレビドラマへと軸足を移す。主な作品に『愛と死をみつめて』『おんな太閤記』『おしん』『春日局』『渡る世間は鬼ばかり』など。
小山内美江子(おさないみえこ)
脚本家。1930年、神奈川県生まれ。スクリプターとして活躍後、脚本家となる。主な作品に『3年B組金八先生』『徳川家康』『翔ぶが如く』など。'93年にNPO「JHP・学校をつくる会」を設立、世界中で学校などを建てる救援活動を行っている。