稀勢の里

 教室に作られた実物大の土俵と黒板に貼られたたくさんの写真。その下には偉大なる先輩に対する生徒たちの激励のメッセージと、横綱昇進を伝える記事の数々……。

 茨城県の南部、龍ケ崎市にある母校の市立長山中学校の空き教室に『稀勢の里資料室』が作られたのは、いまから7年前のことだった。

母親が漏らした言葉

「資料室は学校の30周年記念事業として'12 年に作られました。当時、稀勢の里は大関に昇進し綱取りが期待された時期。同じ年の9月に稀勢の里は学校を訪問してくれたんですが、ある生徒が“相撲の世界に入って学んだことは何ですか?”と質問したとき、“我慢した人間が最後に成功する”と生徒たちにエールを送ってくださいました」(学校関係者)

母校・長山中学校の『稀勢の里資料室』には写真などが展示されている。

 昨年9月の秋場所から、日本人横綱ワーストとなる8連敗を喫し、1月16日に引退を発表した稀勢の里。彼の土俵人生はまさに“我慢”そのものだった。

 小学2年生ごろから相撲を始めて、中学卒業後に鳴戸部屋に入門。17歳9か月という若さで十両昇進を決めた。

「厳しい稽古で身体が土俵の砂で真っ黒になっていてね。部屋の外でも、タイヤを縛ったロープを胴体に巻きつけ引っ張ったり。本当に苦しそうでしたが、ぐっと耐える表情が忘れられないです」(部屋の近くに住む男性)

 厳しい稽古のかいあって、'06 年には貴乃花や白鵬などに次ぐ史上4位の若さで三役に。そこからやや伸び悩むも、我慢の相撲で、'12 年には大関に、3度にわたる綱取り挑戦を経て'17 年に横綱へと昇進する。

 稀勢の里の母が働いていた会席料理・うなぎ料理『山水閣』の岡田治子さんは当時をこう振り返る。

行きつけの料亭『山水閣』は幼少期からの付き合い

「横綱就任の祝賀会のあと、うちに来てくれました。とても疲れていたのに、ご本人が“大丈夫”と言ってくださって、50枚近くの色紙にサインをしてくれました」

 しかし、横綱に昇進後、左上腕や左大胸筋などを負傷。そんなとき、陰ながら応援したのは母だったという。

「ケガをしてからは、お母さんはまったく気が休まらない様子で……。でも、周囲には番付表を届けたり、一生懸命応援していました。引退を聞いたときは、“やっと気がほぐれた”“ホッとしちゃった”と周囲に漏らしていたそうです。

 親としたら当然でしょう。血気盛んに相撲を取るよりも、温かく包み込むような指導者ってほうがよく似合う。これからお部屋ができるのが楽しみだねって話をしましたよ」(後援会関係者)

 横綱在位はわずか12場所。それでも、彼の今後の活躍を多くの人が期待している。