「とっくりでのお酌は注ぎ口を使ってはいけない」
近ごろ、社会人を困惑させるこんな酒席でのマナーが存在すると、話題になっている。
某バラエティー番組で紹介されたのが発端だそう。
あの、どう見てもここから注いでくださいと言わんばかりの注ぎ口は、使ってはいけなかった!? このマナーの根拠としては「戦国武将を暗殺するため注ぎ口に毒を塗ることがあったため」、「注ぎ口は『円(縁)の切れ目』という語呂から縁起が悪いため」などがあるのだとか。いや、そんなの聞いたこともなかったけど……。
ほかにも「出されたお茶には手をつけないのがマナー」「お祝いのお返しに、弔事を連想させるから緑茶はNG」といった、にわかには信じがたいマナーも台頭しているよう。これらは“謎マナー”と総称され、ネットを中心に現在、話題沸騰中だ。でも、こんな謎マナーを見ていると「どこまで守るべきなのか?」と困惑は深まるばかりだ。っていうか、そもそもマナーの定義って何!?
マナーとしきたりを混同しがちな日本人
まず、NHKの大河ドラマや映画などのマナー監修も手がけるマナーコンサルタントの西出ひろ子さんに話を伺った。そもそも、日本人のマナーに対する認識に誤りがあると西出さんは指摘する。
「本来のマナーとは『相手の立場に立って思いやる心』のことを指します。『こういう際にはこうします』という決まりごとではなく、その場の人たちとスムーズにハッピーな人間関係をつくっていくもの。みなさんのマナーに対するもともとの考え方を直してほしいというのが私の意見です」
とっくりの謎マナーに対する西出さんの見解はこうだ。
「『どんな思いでとっくりは作られたのか?』と作り手の意向を思いやって尊重すれば、あの注ぎ口には、『ここから注いでください』という意図が込められているとわかるはずです」
作り手という“相手”を思いやるならば当然の考え方だ。
一方で、「丸いところから注ぎたい人のことも否定はしない」と西出さんは言う。
その注ぎ方をネットで見て正しいと信じた人もいるだろうし、何かのジンクスにのっとってやっている人もいるかもしれない。何にせよ、重要なのは相手への思いやりだ。
ならば、「出されたお茶には手をつけない」というマナーがおかしいことも明白だろう。こちらには「相手の条件を全部のむことになるから」という根拠があるという。さらに「出されたお茶を飲み干すのがマナー」「4分の1ほど残すのがマナー」「すすめられるまでは手をつけてはいけない」など、お茶にまつわる謎マナーは枚挙にいとまがない。
「お客さんがお茶を飲もうが飲むまいが、それは相手の自由。出す側が『飲まなかったら失礼』『飲んだから失礼』と思うほうがマナー違反です。また、『お茶に手をつけない』というマナーを頑(かたく)なに守っていたら、出した側が『おいしくなかったかな?』と不安に思ってしまいますよね」
海外には、マナーについてこんなエピソードがある。
「世界中で“究極のマナー”と言われているのは、イギリスのヴィクトリア女王がとった行動なんです。ある国の王族がフィンガーボウルの使い道を知らずに誤って中の水を飲んでしまった際、女王はその方に恥をかかせないため自分も中の水を飲んでみせたそう。この思いやりによって、その場が気持ちのよい食事会になったのです」(西出さん)
「しきたり」と「マナー」は異なるもの。マナーは「相手のことを思いやる」が大前提なので、状況に応じて変えていい。まさに、ヴィクトリア女王のように。型に固執するのは本末転倒なのだ。
“型破り”と“型なし”は本質がまったく違う
伝統的なしきたりを重んじる世界の代表として、書道家で「デザイン書家」の肩書も名乗る山崎秀鴎さんにもお話を伺った。山崎さんはこれまでに伝統的な書のほかに、『ラストサムライ』や『あの夏、いちばん静かな海。』など、数々の映画や書籍などの題字を手がけてきた。彼の「デザイン書家」という肩書には、特別な意味が込められている。
「映画のタイトルを書く場合、あとでポスターに載り、スクリーンに映り、縮小されたり白抜きになったりします。それらすべてに使える字は、おそらく伝統的な技法だけの書道家には書けません。拡大しても縮小しても白黒反転しても使えるよう、すべてを想定した完成度の高い文字を、私は『デザイン書』と名づけたのです」(山崎さん)
伝統から逸脱した手法を取り入れることも山崎さんはあるそうだ。例えば、『あの夏~』の題字はトイレットペーパーに書いた。半紙では出ない独特の滲(にじ)みを狙ったのがその理由だ。伝統やマナーに縛られた人なら卒倒しそうなエピソードだろう。
「きちんと書の基礎を身につけたうえで、普通の書道家ができないことを私はしています。『確かに見たこともないような書き方だけどなかなかいい字だよね』と書道家にも思わせる説得力を持っているつもりです。“型破り”と“型なし”は違いますよね」
山崎さんの言う「基礎」を「思いやりの心」に置き換えてみると、マナーと通ずるところが多いと気づく。大前提(基礎、思いやりの心)を押さえていれば、あとは時と場合にあわせてどんどん変えていい。まさに伝統やしきたりとの上手な付き合い方ではないだろうか。
マナーではなく型にこだわるのは危険!
なぜ、「謎マナー」は生まれてしまうのか? その原因を西出さんはこう考察する。
「マナーで大事なのは想像力です。相手、シチュエーションによって臨機応変にどう対応すべきか想像する。でも、想像力を働かせるのが苦手なのが日本人。だから、まずは型を作ろうとしてしまうんです。型に合わせていれば、考えなくていいので楽ですよね。『昔はこうだったから』という時代にそぐわない根拠が、謎マナーを次々と生み出してしまうのではないでしょうか」(西出さん)
インバウンド客が増え、東京オリンピックの開催も控えた今こそ、日本人の思考の転換期ともいえるのではないだろうか。例えば、イスラム教徒の男性は室内でも帽子をかぶっているが、「室内では帽子を取るのが礼儀」と型にこだわって脱帽を強制するのはどうだろう。つまり、日本人がこだわっているのは、マナーではなく型のほうなのだ。
「日本は“礼儀の国”と言われていますが、決してそうとは言い切れないと思います。ただ、お行儀がいいだけ。お行儀って型ですよね。お行儀とマナー、すなわち礼儀は違うものですから」(西出さん)
マナーは想像力を働かせることが重要。たくさんの人が共存する現代で、いまだにマナーを◯か×かで考えている日本は時代と逆行している。
そんな“マナー後進国”だからこそ、「とっくりでのお酌は注ぎ口を使ってはいけない」のような謎マナーが脚光を浴びてしまうのかもしれない。
(取材・文/寺西ジャジューカ)