「実は、納骨をすませていないんです。今でもフラリと戻ってくるような気がして……。でも、いつまでもこのままというわけにはいきませんので、一周忌が終わったら、お墓に入れようと思っています」
1月下旬、寒空の下。自宅前で『週刊女性』にそう声を振り絞って語ったのは、有賀洋さん。1年前の1月30日、52歳という若さで急逝した有賀さつきさんの実父だ。
同期の八木亜希子にも伏せていた
生前の有賀さんは、自らの病状を周りに知らせず、闘病生活を隠していた。
「激やせしていたんですが、“ダイエット中”だと言い張りました。抗がん剤の影響で毛髪が抜けてウイッグを着用していたときも、“このカツラ、便利なんですよ!”と明るく話していたそうです」(スポーツ紙記者)
'18年1月中旬に体調が悪化して入院。食欲がなくて点滴を受けていたが、それでも元気な様子だったという。
「フジテレビの同期だった八木亜希子さんとは、LINEでやりとりしながらも、病気のことは伝えなかったそうです。突然のことで、お父さんも娘さんも死を看取ることはできませんでした。亡くなったことが報じられたのは6日後の2月5日。病名も明らかにされなかったので、いろいろな憶測を呼びましたね」(同・スポーツ紙記者)
有賀さんが病名を伏せたのは、本人の強い意思だった。乳がんだったという報道もされたが、それは事実ではないと、洋さんが初めて明かす。
「実は、卵巣がんだったんです。さつき本人が知られたくないということで、私も隠していました。大阪に卵巣がん治療の名医がいるということで、亡くなる3年前に手術を受けました。私も立ち会ったんです。
それで治ったと思っていたんですが、急に体調が悪くなって入院したんです。2週間たって、もう少しで退院と思っていたら、朝7時ごろに病院から連絡がきて、たった今、亡くなったと……。本当に急でした。
退院したら、この家で一緒に住む予定だったんです……」
3年前に妻に先立たれた洋さんは、一軒家でひとり暮らし。時折、涙を流しながら、有賀さんのことを振り返る。
「結果的に、私がさつきを殺したんです……」
今でも後悔の念に苦しむという洋さんは、そう言って肩を落とす。
「私は東大を出て、電電公社(現在のNTT)に入社しました。3年間ニューヨークに赴任して、現地で家族と暮らしました。それで、さつきは“帰国子女”なんてもてはやされたんです」
'88年に八木亜希子、河野景子とともにフジテレビに入社。
“花の3人娘”と呼ばれ、バラエティー番組に出ずっぱり。いわゆる“女子アナブーム”で人気となったが、有賀さんにとっては大きな負担となっていたと話す。
「アナウンサーという仕事は、本当に過酷です。夜中の11時に番組をやって、それも生中継だから当然、失敗は許されない。ものすごいプレッシャーで、さつきの神経はすり減らされたんです」
アナウンサーという仕事の過酷さ
スポーツニュースを担当しながら、『オレたちひょうきん族』や『とんねるずのみなさんのおかげです』といったバラエティー番組でも活躍。後に“元祖・アイドルアナ”とも呼ばれた。'92年にフジテレビを退社して、タレントに転身。華やかな世界で輝いたが、洋さんはそれが命を削ることにつながったと考える。
「私生活でも、電車にすら乗れない。そのへんを歩けば人に騒がれる。さつきが亡くなった後、確定申告を私がやりましたが、領収書はものすごい数でしたよ。でも、さつきは自分の人生を貫き通しました。それはひとりの人間として立派だったなと思います」
有賀さんは、'02年にフジテレビ時代の上司だった13歳上の和田圭氏と結婚。女児を授かったが、'06年に離婚。有賀さんは会見で和田氏との結婚は間違いだったとも語った。
「'15年に、日本テレビ系のバラエティー番組『解決!ナイナイアンサー』に出演した際、“話し合って別れようと決めた2日後に妊娠が判明し、刑務所に入る覚悟で結婚した”と発言。寝室を別にして夫婦生活を拒否していたことも明かしました。あからさまな物言いにはバッシングもありましたね」(芸能レポーター)
有賀さんが和田氏と離婚したとき、娘は3歳。洋さんは、なんとか離婚を思いとどまらせようとした。
「和田さんとも直接会って、幼い子どもがいるんだから、なんとか離婚しないでほしいとお願いしましたが、ダメでしたね。
でも、いま思うに、しかたがないこと。男と女ですから、いろいろあります。ただ、かつての上司だった和田さんは家庭内にもそのヒエラルキーを持ち込んでいたと聞いた。男がそれをやるのはどうかと思いますよ。まあ、いろいろ話してしまう娘もどうかと思いましたが……」
ひとり娘は、和田氏と生活
有賀さんの離婚以来、洋さんが和田さんに連絡することはなかった。
シングルマザーとなった有賀さんは、仕事と家事と育児に忙殺。どれも手を抜かず、人一倍の頑張りを見せた。母娘の二人三脚で12年。有賀さんは最後までひとり娘を気にかけて、この世を去った。
「孫は今、高校1年生です。インターナショナルスクールに通っており、乗馬も習っています。昨年4月から和田さんの家に住んでいます。さつきが亡くなった後も、和田さんは再婚をしていないのは、娘への思いやりかもしれませんね。
離婚後は孫の親権をさつきが持っていましたが、今は和田さんが持っています」
有賀さんの亡くなった直後、12年間も疎遠だったひとり娘と実の父である和田さんの間には、どこか“他人行儀”な空気が漂っていたという。
「小学校入学以来、ほとんど顔を見ていなかった娘と再会した和田さんは終始、凍りついたような表情だったそうです。
母を突然亡くしてショックを受けている娘を抱きしめたり、優しい言葉をかけてあげたりすることもできず、娘が父親と見てくれるか不安だと言うばかりだったそう」(前出・芸能レポーター)
だが、その心配は晴れたと洋さんの声は明るくなった。
「さつきの命日には、都内のホテルで和田さんと孫と私の3人で会うことになっています。孫のことが解決できて、これで心残りがなくなった。
もう和田さんとのわだかまりはないです。一緒に住めるくらいだから、孫ともうまくいっているのでしょう。昨年末、孫にクリスマスカードを送りましたが、返事はないですね。忙しいし、そういう年齢だからしかたないです(苦笑)」
『週刊女性』は和田氏にも胸中を聞こうと、娘と暮らす都内の自宅前で声をかけたが、
「私はプライバシーに関わることは話さない方針です。娘のことは特に答えません」
と、いっさいの取材をシャットアウトしているという。有賀さんの遺志は家族に受け継がれている─。