2016年8月8日に発表された天皇陛下のおことばを受け、崩御ではない形の退位について、さまざまな議論が交わされたことは記憶に新しいかと思います。その結果、2019年4月30日で平成時代の天皇が退位され、5月1日には新天皇が即位されることとなりました。
それに伴って浮上したのが改元の話題です。改元がこのように事前に予定され、予定どおりの日程でなされることは、日本において非常に珍しいことです。
元号は必ず「天皇」が定めてきた
日本の元号は、平成までで247を数えます。いろいろな理由で変更されてきましたが、実はここだけは守らなければならないという共通点があります。
理由はどうあれ、帝王や天子、日本で言えば天皇が勅定(天皇自らが定めること)するということです。ですから、王制が消滅したところでは元号が立てられないのです。ここから、天皇制と元号が関わるという図式が描かれました。
例えば、明治天皇の場合は自らくじを引いて「明治」を引き当てました。しかし、大正天皇と昭和天皇は枢密院の議決に従っていたため、即位の後に勅定を行いました。このような形式をとらないと、正式な元号とはみなされないのです。つまり、元号は必ず天皇が定めてきたのです。ただし、象徴天皇制の下では勅定ではなく認定になっています。
日本人は当然のように西暦と元号を併用しています。ただ、同時に「いまは西暦何年だけど元号では……」と、ぱっと答えられない人も少なくありません。そのため、2019年の改元に向けて、元号を廃止すればいいのではという声も上がっていました。
ですが逆に、「元号=天皇」という図式なのだから、もっと元号を尊重すべきという声もあります。この元号と天皇・皇室の関係性においては、次のような話もあります。
2017年に秋篠宮殿下の長女である眞子内親王殿下が会見をなされたときに、元号ではなく、西暦を使っておことばを伝えられたのですが、それは皇族としてどうなのかという意見が上がったのです。これは少し過激な意見ですが、そのようにみなす方もいるくらい、天皇・皇室と元号のつながりは深いということなのです。
明治・大正・昭和への改元がどのように行われたかを見てきましたが、平成への改元はどうだったのでしょうか。
みなさんも、小渕恵三官房長官(当時)が「平成」という文字を掲げていた様子はよくご存じのことと思います。リアルタイムで見ていなくても、その写真は多くの方が目にしていることでしょう。あのイメージが強いと、「平成」という元号は政府が決定したと思いがちですが、やはりこの時もしっかり天皇が認定をするというプロセスを経ています。
時間軸に沿ってもう少し詳しく説明すると、まず昭和54(1979)年に元号法という法律が決定されました。
なぜかというと、実は第二次世界大戦後、日本には元号に関する法律がありませんでした。「昭和」という元号が、ずっと習慣的に使用されてきたにもかかわらず、それをきちんと公認する法律は不思議なことに存在しなかったのです。しかし、それではまずいのではないかという声が上がるようになり、元号法の制定につながっていきました。
「平成」という元号が決められた経緯
元号法では以下のようなことが定められました。「元号は、政令で定める」「元号は、皇位の継承があった場合に限り改める」。つまり、政令に基づく形で新たな元号を決めることと、明治のはじめから使われているルールを追認して、一世一元とすることがうたわれました。
またこの法律には附則があり、「この法律は、公布の日から施行する」「昭和の元号は、本則第一項の規定に基づき定められたものとする」とされています。元号法が施行された際、すでに用いられていた「昭和」の根拠もここで明確にされたのです。
この元号法に基づき、昭和の次の元号のために、かなり前から有識者に相談し、多数の案が出されたのち3案に絞られ、最終的に1案となり、閣議決定が行われました。
すなわちここで、政令で定めるという元号法にのっとった形がとられ、その後、新天皇の允裁(天皇が決裁すること)を受けることで、ようやく小渕氏が発表するということに相成ったわけです。閣議決定も重要ですが、それだけでは不十分で、“天皇が自らそれを認定する”という大変重要な手続きがとられたわけです。
では、皇位継承の際に新しいものを定め、天皇が允裁し、政令で定められれば元号はどのようなものでもいいのでしょうか。さすがにそうはいかず、1979年に元号法を定めた際にも、どのようなものが元号にふさわしいかという基準が同時に定められています。
基準は6つあります。
① 「国民の理想としてふさわしいようなよい意味を持つものであること。」
②「漢字2字であること。」749~770年にかけて過去には「天平感宝」「天平神護」のような漢字4文字の元号が使用されていたような例もありましたが、現在では3文字以上のものはだめだということです。
③ 「書きやすいこと」。これは複雑な漢字は使用しないということです。
④ 「読みやすいこと」。実は過去の元号のなかには、どう読むかはっきりわかっていないものもあります。どう読ませるのか、必ずしも歴史の文書に書いていないからです。そのため現在では、最初から読みやすいものを選ぼうという趣旨です。
⑤「これまでに元号又はおくり名としてもちいられたものでないこと。」
⑥「俗用されているものでないこと。」これは、人名や地名、商品名、企業名などで使われていると不可という意味で、このハードルはなかなか高いものです。
そして、「平成」を決める際には、これらの基準以外にも重要なある条件が加味され決定されました。
最近では、元号をアルファベットで表記することが少なくありません。おそらく誰もが一度は書いたことがあるでしょう。明治はM、大正はT、昭和はSですので、それ以外のアルファベットになるようにと、Hの平成になったという事情があります。明文化されていないが守られる、このようなルールもあります。
日本の元号は「世界唯一」のもの
このようにそれぞれのプロセスを経て元号は決定するわけですが、日本以外の国では元号はどうなっているのでしょうか。
先に答えてしまうと、実は世界広しといえども日本以外に元号が現在も使われている国はありません。たとえば日本に元号を伝えた中国では、どうなってしまったのか見ていきたいと思います。
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中国では長い間、元号が使われてきましたが、1912年の清朝の滅亡とともに用いられなくなりました。その年に成立した中華民国が、1912年を紀元とする民国暦を採用したためです。これは西暦のようにある年を紀元として年を数える紀年法なのですが、元号ではありません。なぜかというと、しつこく繰り返してしまいますが、帝王がいないからです。
ただ、その後の中国でも例外として、短期間でいくつかの元号がつくられました。1つは洪憲(こうけん)という元号で、「中華帝国」を樹立した袁世凱が1916年に定めました。
しかし、袁世凱は3カ月ほどで皇帝退位を宣言したため、この元号もなくなりました。また、日本が満州国を建てた際に、「大同(だいどう)」と「康徳(こうとく)」という元号を使用したのですが、これらは偽年号(ぎねんごう)という扱いを受けており、満州国の滅亡とともに元号も消滅しました。
また、中国の文明圏であったベトナムでも、かつて元号が使われていました。966年に「太平」、980年に「天福」というようなおめでたい名称の元号もありましたし、四文字の元号が立てられたこともありました。
その後も元号はずっと使用され続けていましたが、1802年に阮福暎によって建てられた阮朝が第二次世界大戦後に滅亡したのに伴い、ベトナムの元号も姿を消しました。
このように元号が使われていた国では、帝王がいなくなると同時に元号が消滅しました。そのため現在では、日本だけが元号を使用しているのです。
中牧 弘允(なかまき ひろちか)国立民族学博物館名誉教授 1947年、長野県生まれ。埼玉大学教養学部卒業、東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。国立民族学博物館名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授、吹田市立博物館館長。宗教人類学、経営人類学、ブラジル研究、カレンダー研究などに従事。日本カレンダー暦文化振興協会理事長、千里文化財団理事長。