東京・渋谷。底冷えするような寒さが身を包む師走の道玄坂を上り百軒店 (ひゃっけんだな)の細い路地に足を踏み入れると、そこは1969年に産声をあげたロック界における伝説の聖地。
蔦の絡む赤い煉瓦の建物。
桃色の看板に『B.Y.G』の青い文字が夜の闇に浮かぶと、ロケットのカウントダウンとともに、今宵も素敵なロックンロールショーが始まる。
今夜、スポットライトを浴びるのは、日本のロック界を半世紀にわたって牽引してきた長身のギタリスト。黒い革ジャンに身を包みサングラスをかけた─鮎川誠。
使い込んだ傷だらけのギブソン・レスポール・カスタムが伝説のロッカーだったことを物語る。
鮎川がブルースロック・バンドのさきがけとなった『サンハウス』を博多で結成したのは1970年。ファンから熱狂的に支持されるも1978年、3枚目となるライブアルバムをリリースしたその日に、惜しまれながら解散した。
希望を失い、幼い双子の女の子を抱えた鮎川の頭には、「ロックは30歳を過ぎた子持ちの男がやる仕事だろうか」という思いが頭をもたげていた。
しかし鮎川より、「夢を信じる強い気持ち」を持っていたのが鮎川の妻・悦子であった。
「運命は与えられるものではない、自分で獲得するもの」
この強い思いを胸に、1歳になったばかりの双子の姉妹を悦子の両親に託して2人は上京。しかし現実は厳しく、希望の光が見えない。
そんなある日、鮎川のレコーディング中、うまく歌えない新人歌手から、見学していた悦子がマイクを取り上げ歌ってみせた。
─衝撃だった。与えられたことをやってるやつと、心から夢を追うやつは違う。
帰りのタクシーの中。さらなるひと言が夢の扉をノックする。
「私も、レコードが作りたい。歌いたいの」
まるでひとり言のように、つぶやく悦子。
─レコードを作る!?
鮎川は驚いて、悦子の顔を見た。悦子の声でレコードを作って、それを自分らで聴く。
「そんな素敵なこと、考えたこともなかった。そのとき、俺、すごい素敵な夢もろたんよ」
ステージで耳を澄ますと、鮎川には今でも亡き伝説の歌姫の囁くような歌声が聴こえる。
あさもやの湖に
水晶の舟を
うかべて
ちょっとだけ
ふれる感じの
口づけをかわす
歌詞はこの後、“これが私のすてきなゆめ”と続く。大きな瞳を輝かせ、力いっぱい声を弾ませ“ユメ、ユメ”と連呼する─。
歌姫の名前は、シーナ。
すべては、ここから始まった。
◇ ◇ ◇
いにしえの時代から博多は、海上貿易の拠点として活気にあふれる街。1970年代初頭の博多もフォーク喫茶『照和』を舞台にチューリップ、海援隊、井上陽水、甲斐バンドなどが巣立ち、メジャーデビュー。多くのアーティストを輩出したことからビートルズを生んだリバプールにちなみ、博多は“日本のリバプール”と呼ばれていた。
1978年に夫婦でバンド『シーナ&ロケッツ』を結成、大ヒット曲『ユー・メイ・ドリーム』などで知られることになる鮎川誠とシーナこと妻・悦子。伝説の歌姫とギタリストの恋は、1971年博多のダンス・ホール『ヤング・キラー』で生まれた。
「演奏しているとき、お客さんが聴いてくれているのか、とても気になって、ドアが開くたびに本能的に目がいく。悦子が青いパンツ・スーツで入ってきたとき、“わっ、カッコいい”と目ば奪われた」
と話す鮎川。一方、悦子は、
「ジョン・レノンみたいなヘルメットをかぶり、丸い眼鏡をかけて、ピース・マークのついたアーミー・コートを引っかけ、てっきり外国人かと思った。キース・リチャーズよりカッコいい。これが彼との出会いでした」
しかし鮎川が素敵だったのはルックスだけではなかった。
「荒々しいギタープレーに、彼の魂がこもり、ギターを弾くのが楽しくてたまらない、という彼の強い思いが私に伝わり、まるで吸い寄せられるように、私は彼を見つめた」
と、出会った日のことを自著で告白している。
2人のキューピッドを自認する『サンハウス』のドラマーで俳優でもある浦田賢一さんが、当時を振り返る。
「演奏が終わり、2階の楽屋に戻ってからもずっと下で待っている女の子のことが気になり、階段を下りて“何しようと?”と聞くと“ギターの人紹介して”。それで2階に向かって“マコちゃん、この子があんたのこと好いとるよ”と声をかけたんだ。マコちゃんは奥手やから、僕が声かけなきゃ何も始まらなかったな」
悦子を連れ、天神商店街の喫茶店に入って音楽の話をすると悦子のロックの知識に鮎川は舌を巻いた。
「なんで、そげん音楽に詳しいと? もっと話をしたいっちゃ。
それに、オンナひとりで帰るのは、危ないよ」
ちょっとだけ心配したけれど、鮎川の澄んだ優しい目を見て、この人なら信用できると思った悦子は、鮎川の叔母が切り盛りする飲み屋の2階の下宿で一夜を明かした。後で大きな騒動を引き起こすことになるとも知らずに……。
家出少女と同棲生活
すっかり博多が気に入った悦子は、夏休みの間だけでもこの街に住もうと2人で部屋を探した。見つけたアパートは、貧乏なバンドマンばかりが集まって住んでいる、まるでバンド版『トキワ荘』。悦子にとって見るもの、聴くもの、すべてが珍しく新鮮に感じた。
中でも当時2人が足繁く通っていたのが、九州でいちばん最初にできたロック喫茶『ぱわぁはうす』。当時、この店でアルバイトをしていた松本康さんは、今も鮎川が初めて店に来た日のことを覚えていた。
「オーダーを取りに行くと、メニューも見んと“牛乳”と言うので、“ミルクですか?”と聞き返すと“牛乳でよか”とつぶやいて、ポケットからコッペパンを取り出してムシャムシャ食べてる。そんなマコちゃんの照れた顔が忘れられない。仲よくなり、新しいLPを買うとマコちゃんの家に行ってよく一緒に聴きました。僕が42年も輸入レコードショップをやり続けてこられたのも、マコちゃんたちとブルースやクラシック・ロックを聴き込んできたおかげです」
現在、天神で輸入レコード店『ジュークレコード』のオーナーを務める松本さんの店は山下達郎をはじめ、全国のブルースファンが足を運ぶ知る人ぞ知る店になった。
2人のアパートをよく訪ねたのは、浦田さんも同じだ。
「ギターを教えてもらうために、僕もしょっちゅうバイクに乗ってアパートに通いました。僕らはあのころから50年近く、お酒も飲まずに顔を合わせれば朝までセッション。お酒を飲むと今日が終わってしまう。そんなのもったいない。マコちゃんは今も昔も探究心の塊。永遠のロック少年です」
そんな鮎川たちの音楽談議に目を輝かせていた悦子。
毎日が楽しくて、とても家に帰る気にならず、
「心配しないで、楽しくて 自信満々で生きていますから」
という手紙を両親に書いた。もちろん住所を伏せて。
ところがある日、ノックの音でドアを開けると、眼の前に悦子の父が鬼の形相で立っていた。アパートの外で、
「一緒に帰ろう」
と諭されたが、悦子は、
「いや!」
と言って父をにらみ、頑として首を縦に振らなかった。
悦子の父は、鮎川の顔も見ないで目をそらし無言の怒りをあらわにしていた。
実は悦子は、このときまだ高校3年生。北九州市の若松で洋装店を営む両親の目を盗んでは店の売り上げを持ち出し、中学生のころからプチ家出を繰り返していた。高校生になるとロックフェスへも足繁く通った。
鮎川との出会いも、高校3年生の夏の出来事だった。
「一緒に暮らし始めたときは、高校生とは思わんかった。大人っぽい雰囲気やから22、23歳かち思うとった」
と鮎川は言う。
今までのプチ家出とは違い、長すぎる家出に、若松の実家では占い師に悦子の居場所を占ってもらうなど大騒ぎになっていたのである。
悦子の父があきらめて帰ると、すぐ母がやってきた。
「僕がフーテンなどではなく、九州では誰でも知っている名門・九州大学の学生だとわかって、お母さんの好感度も上がったち、悦子は言うとった」
2人を許す気になったのか、母は殺風景な部屋を見渡すと、冷蔵庫や炊飯器といった電化製品からタンスなど生活道具のほとんどを買ってくれた。
バンド活動が忙しくおろそかになっていた学業にも身を入れ、卒業するころには、悦子の父も、「ようやったねぇ。マコちゃんは最高学府を出とるけん」と自慢するようになっていた。
出会いから44年。夫婦となり、波乱に満ちた生涯を歩んでいくことになる2人。悦子にバトンを渡したのは、女手ひとつで鮎川を育てた母・梅子だった。
息子ひと筋の母に愛されて
日本を代表するギタリスト鮎川誠は1948年、福岡県久留米市に生まれた。父はマッカーサーとともに日本にやってきた進駐軍。久留米・筑後・大牟田地区を統括する司令官J.Dフレイジー。母は昔、有馬藩の料亭だった『萃香園』で働いていた。母・梅子が働いているところを父・フレイジーが見初め、やがて身籠り一子・誠を授かった。
しかし父・フレイジーは鮎川が3歳のときに東京の基地に移り、やがてサンフランシスコ講和条約が締結されるとアメリカに帰っていった。
「一緒にアメリカに行こうと、父に懇願されていたようですが母は弟妹のことが気がかりで、首を縦に振りませんでした」
父母の愛情はこまやかで父が転勤後も母はよく父のことを思い出しては愛しそうに話してくれた。カメラが趣味だった父が鮎川を撮りためたアルバムは今も大切な宝物だ。
「父とは帰国後も月に1度、ローマ字で文通していました。ボクが“切手を集めとる”と書くと、世界の珍しい切手をどっさり送ってくれました」
父が帰国すると、母と息子は、戦前の師団長公舎で戦後、市長公舎となった高牟礼会館の住み込みの管理人となった。
「6畳ひと間でしたが、父に買ってもらったシンガーミシンで、母はボクの洋服をハンチングからチョッキまで、すべて縫ってくれました」
その母と息子のもとに、軍から父の死を知らせる便りが届いたのは中学2年のとき。
母・梅子は帰国してから父はいないものと覚悟していたのか、取り乱すこともなく気丈に振る舞っていた。
ただ、父からの仕送りがなくなったため母は一大決心。博多の中洲でボート屋を始め、鮎川も放課後、電車で1時間かけて博多に行き、母を手伝った。
息子ひと筋の母。母を思いやる息子。そんな親子2人が6畳ひと間で毎晩楽しみに聴いていたのがラジオだった。
“ビルル”に憧れ初ステージへ
「父がプレゼントしてくれたラジオと蓄音機が部屋にあり、父が置いていったフランク・シナトラやビング・クロスビーのレコードがアメリカとの最初の出会い。やがて、ラジオから流れるレイ・チャールズの『ホワッド・アイ・セイ』を聴き、ゾクゾクするような魔力に魅せられ、もう1回聴きたくて久留米中のレコード店を探し回って手に入れました」
やがて中学3年を迎え、受験勉強の傍らFEN(米軍極東放送)を聴くようになった鮎川は、衝撃を受ける。
「初めてビートルズを耳にしたのがこのFEN。DJが“ビルル”と発音していたので翌日、学校で友達に“お前、知っとうか。あのビルル”と話したところ、隣の席の生徒の弁当を包む新聞紙を見て、そのバンドの名前がビートルズだと知りました(笑)。R&Bよりも若々しく激しくて、心を奪われました」
1964年こそ、ビートルズがイギリス、アメリカはもとより、全世界を席巻する記念すべき年。この歴史的な年を最も多感な年ごろに迎えることができたことを、鮎川は今でも感謝している。
その一方で勉強にも身を入れていたと話すのが、幼なじみの操寿三郎さん。
「マコちゃんの家に遊びに行って偶然、机の中にしまってあった成績表を見たら800人以上いる生徒の中で成績が1番。でも、そんなことを鼻にかけることもありませんでした」
名門・県立明善高校に進学した鮎川は、ここで本格的にギターを手にする。
「友達に誘われて入った新聞部に、エレキギターを弾ける人がいて、放課後は部室にこもってビートルズなどを練習していました」
やがて高2のとき、念願のエレキギターを手に入れる。
「ビートルズのジョージ・ハリスンのギターに似たテスコEP8を4500円で売ってくれるという友達がいて、修学旅行の積立金を“一身上の都合で行けない”と偽って返してもらい手に入れました」
そんな鮎川に初めてステージに立つチャンスが巡ってきたのは、高校3年の夏だった。
「本屋で音楽雑誌を立ち読みしていたら、操君が“マコちゃん、俺ドラム叩きよるんや。今から練習に行くけど、見に来んね”と声をかけてきて、行ってみると駄菓子屋の離れの納屋が秘密のスタジオやった。その日初めて会った誰かもわからない人と即興で音楽ができあがっていく。まるでマジックみたいやったね」
と当時の状況を振り返る。
しかしもっと驚いたのは操さんたちバンドのメンバー。鮎川のギターの腕前に驚き、この日のうちに鮎川はメンバーの一員に迎えられた。
しかも、練習の目的は久留米市内の石橋文化ホールで行われる『サマービート66 エレキ祭り』に出演することと聞き、鮎川の胸は高鳴った。
「『ロックンロール・ミュージック』から始まるセットリストは、ビートルズの来日公演とほぼ一緒。“エレキは不良”といわれた時代に風穴をあける画期的なライブ。ものすごくドキドキしたのを覚えています」
同じステージに立った幼なじみの操寿三郎さんは、
「目の前にプールと観覧席があり、マコちゃんの中高の友達が100人以上も勢ぞろいして見守っていました。当時から人気がありましたね」
双子の娘を残して上京
1浪の末に1968年、九州大学農学部に入学したその日から鮎川は、博多のプロのバンドとダンスホールのステージに立ち腕を磨いた。しかし鮎川の中では、不満がマグマのように渦巻いていた。
「ビートルズもストーンズもブルースからインスパイアされている。ブルースをやりたいという思いが日を追うごとに強くなり、1970年『サンハウス』を結成しました」
『サンハウス』は“日本のリバプール”と呼ばれた博多に誕生した本格的なロックバンド。のちに「めんたいロック」と呼ばれるムーブメントのさきがけとなる。
「マコちゃんの出現は衝撃でした。それまでのバンドは洋楽ナンバーをコピーするのが精いっぱい。ところがアドリブはもちろん、自在に名曲を操る。いってみれば、高校野球レベルだった博多にメジャーリーガーが現れたようなもの。『サンハウス』のライブに来た観客は食い入るようにマコちゃんのプレーを見つめていました」(前出・松本さん)
その噂はたちまち広まり、『サンハウス』は1975年にファーストアルバム『有頂天』を出しプロデビューを果たす。
ところが博多出身のバンドが次々と東京に行って成功を収める中、『サンハウス』は「自分の故郷を捨ててまで、上京するのはカッコ悪い」という理由で頑なに上京を拒んでいた。
しかし、鮎川にはその気持ちとともに「母ひとり置いて東京には行けない」という切実な思いもあった。
『サンハウス』がデビューした翌年、鮎川の身に思いがけないことが起きる。
「悦子のお腹に赤ちゃんが宿っとるのがわかって、両家が集まり“こら結婚させないかんばい”となった。この2年後、母はがんに侵され59歳の若さで亡くなってしまったけど、結婚したこと、子どもが生まれたことをすごく喜んでくれて、ボクの生涯で1度だけの親孝行やった」
双子の赤ちゃんが生まれると2人は北九州市若松の悦子の実家で暮らし始める。
悦子の実家は洋装店を営んでいたが、祖父母の代から芸事・芸能の大好きな一家。
悦子の父・敏雄は米軍基地のハウスボーイをしていたモダンボーイ。
そんな敏雄に、今でも感謝していることがある。それは『サンハウス』を解散して双子の娘を抱え悩んでいたときのことだった。
「福岡におっちゃダメばい。やっぱ東京でね、勝負かけんとね。そしたら全部ハッキリする」
それでダメだったらあきらめもつく、と敏雄は言うのである。
「耳が痛かった。未練タラタラがいちばんカッコ悪い。お父さんの叱咤激励があって東京で勝負する決心がついた」
と言って鮎川はタバコに火をつけ、サングラスの奥の目を潤ませた。子どもたちを両親が見てくれるなら、今しかない。その思いは夢を信じる悦子も同じだった。
がん闘病中もライブに立った妻
去年、NHK朝の連続テレビ小説『半分、青い。』で劇中歌に選ばれ話題となったシーナ&ロケッツの大ヒット曲『ユー・メイ・ドリーム』。この曲は1980年、日本航空CMソングにも採用され、ヒットチャートを駆けのぼりテレビ出演も増えていった。
「ロックバンドはテレビに出ない時代。でもボクら30歳になって組んだバンド。自分たちのスタイルで演奏できるなら、テレビでもなんでも出る。若松の両親、子どもたちの通っている幼稚園でも応援してくれる。批判の声は耳に入らんかったね」
と話す鮎川。双子の陽子と純子が小学校に上がるころ、ふたりを呼び寄せ東京・下北沢で生活をともにした。やがて三女・知慧子も生まれる。
その知慧子さんは自慢の両親について、こう話す。
「小学校のころ、普通の家とは違うなと気がつきました。運動会や授業参観も両親はライブのときと同じ格好。母はボディコンを着て緑のおばさんをやっていましたから(笑)。その反面、どんなに疲れていても家事など手を抜かない。古風な頑張り屋でもありました。
父はとても博識で、好奇心旺盛。何を聞いても答えてくれる身近な先生みたいな人。ライブ以外は父と母はずっと一緒に家にいる。ラブラブでしたね」
ライブは家族にとってみんなで出かける大切な恒例行事。三姉妹そろって、踊りまくっていたという。
シーナ&ロケッツがデビュー35周年を迎え、2014年7月、ニューアルバム『RO
KKET RIDE』をリリースした直後、悦子が病に侵されていることがわかった。
ある日、血圧を測ると上の数値が200近くあり、大学病院で見てもらうと子宮頸がんだと診断された。しかし2人は抗がん剤治療や放射線治療を受けない道を選ぶ。
「悦子はハッキリがんと共存して、自分の音楽を続けますと先生に言いよりました。ボクも子どもたちもそげん言うた悦子を誰も止めんやった」
それには、わけがあった。
「悦子の父は入院する前日まで、祭りの太鼓を叩いていました。そんな父が入院して間もなく身辺整理をする時間もなくあっけなく亡くなった。それなら家で好きな酒を飲んでいたほうがよかったのではないか、という思いがありました」
ラジオ出演やライブはほかのメンバーだけで行い、悦子はひたすら静養に努めた。
そのかいあって、8月には一時的に体調を持ち直す。9月13日に行われた結成35周年の日比谷野音のワンマンライブでは、痛みをまったく感じさせない完璧なパフォーマンスを披露。さらに故郷・福岡でのライブを精力的にこなし、10月の北海道ツアーでも釧路、根室、中標津のステージに立ち続けた。
しかし11月21日に行われた『ヒステリックグラマー30周年記念イベント』が、悦子のラストステージになる。
「立つことができなくなった悦子は、蓮の花のようなソファに座ったままカッコよく10曲歌い切りました。
ライブでハイヒールをはいてステージを走り回る悦子は、これまで何度も奇跡を起こしてきました。だから天国に行くとは、亡くなる寸前まで思わんやった。メンバーにも言わんかったし、本人も“マコちゃん、待っときね。また歌うけんね”言うとったし、一発大逆転する、そういうすごい人ち、いつも思うとった」
翌年1月には、もう1度ステージに立つために、懸命にリハビリにも取り組んだ。
しかしそうした願いも虚しく、2015年2月14日、午前4時47分。悦子は静かに息を引き取った。
くしくも時計の針が差した時間は、「47分(シーナ)」。病室では、『ユー・メイ・ドリーム』、そして、ラストアルバムに収められた『ROKKET RIDE』が、静かに流れていた。
亡き妻に誓う“ロック”な最期
悦子が亡くなって間もなく4年の月日が流れる。鮎川は今も悦子とともに生活していた下北沢の家に暮らしている。家の中は当時のまま。何ひとつ変わっていない。
「悦子が用意してくれた安心できる空間でずっと生きてる。4年たつけど、まだ生活のなかに悦子が溶け込んでるいうか、何ひとつ困ることがない。
だから、悦子が死んだあとも旅に出ようとか思わなくて。そういうのわかるかな……」
何も変わらぬ家でギターを弾いていると、今にも悦子がキッチンから顔を覗かせ、
「ホッペを触って」
と言ってくるような気がする。鮎川はそんな悦子がたまらなく愛しかった。
「喪失感に襲われることもあるけど、今はもう死を受け入れてる。やるだけやった。頑張ったね、見守ってねという気持ちやね」
男子厨房に入るべからずを実践してきた悦子が亡くなり、今では鮎川がキッチンで包丁をにぎることもある。
「バンド解散が頭をよぎったこともありましたが、ボクがギター弾かんと、メソメソしたらきっとがっかりする。誰かに言われて作ったレコードは1枚もなくて、自分とシーナで作ったものに誇りをもってるちゅうか。一緒に本気で命をつぎ込んできた音楽。そやけん、目ん玉が黒いうちはぶっ飛ばすよ」
その言葉どおり鮎川は2017年、69(=ロック)歳を記念して全国47都道府県ツアー「47(SHEENA)ROKKET RIDE TOUR」を行い全県踏破を達成した。
「ロックはタイムレス。ストーンズだってチャック・ベリーだって、ロックは今の音楽。心のワンジェネレーション。あのころがよかったじゃない、今が最高」
悦子が亡くなった年の4月7日から始まった「シーナの日」には、亡き妻を偲ぶ仲間が集う追悼ライブを毎年開く。
悦子が亡くなってから、よりいっそう精力的に鮎川はライブ活動に打ち込んでいる。
◇ ◇ ◇
黒い革ジャンを脱いで首筋を伝う汗をぬぐい、再びギターを手にすると鮎川は観客席を振り向いた。
─アンコールナンバー
割れんばかりの拍手が場内を包み込み、スポットライトがステージ中央を照らす。
鮎川はライブのメンバー紹介で、今も亡き妻の名前を呼ぶ。すると不思議なことに、
「私の夢はこのバンドでずっと歌うことです。聴いてください。『YOU MAY DREAM』」
と言った悦子の顔が浮かんだ。元気だった悦子のこれがラストメッセージ。悦子とともに歩んできた「シーナ&ロケッツ」の夢に終わりはない。
(取材・文/島右近 撮影/坂本利幸)
しま・うこん ◎放送作家、映像プロデューサー。文化、スポーツをはじめ幅広いジャンルで取材・文筆活動を続けてきた。ドキュメンタリー番組に携わるうちに歴史に興味を抱き、『家康は関ヶ原で死んでいた』(竹書房新書)を上梓。