主婦に特化した人材サービス『しゅふJOB』(事業運営者:株式会社ビースタイル)の調査機関しゅふJOB総研が2018年11月に実施した調査によると、専業主婦・主夫であることに、後ろめたさや罪悪感のようなものを覚えたことが「ある」人は25.4%、「少しはある」人は31.2%、「ない」人は41.7%。半数以上は後ろめたさや罪悪感を覚えたことがあると答えている。
専業主婦はなぜ後ろめたい?
後ろめたさを感じたことのある理由は、
「自分の稼いだお金でないと何となく自由に使うのに気がひけます」
「経済的に依存している気がして、罪悪感がありました」
など、経済的自立がないことに起因するものが多い。
「専業主婦だとお金持ちと思われることがあるのが嫌だ」
「夫に、人の稼いだ金で楽をしていると言われた」
など、第三者や夫からの見られ方を気にする声もある。
それでは収入のあるワーキングマザーはどうかというと、職場では同僚より早く帰らないといけないことに後ろめたさを覚えたり、保育園では子どもを預ける罪悪感を覚えたりしている。働く女性も、専業主婦も、どちらも100%ハッピーというわけにはいかない。
一方、主婦調査では後ろめたさを感じたことがないとの回答もある。そこでは、家事労働・ケア労働は無償であっても大事な仕事であるということに加え、 “働いていてはできないこと”の価値を肯定的に捉える声が上がる。
「主婦も立派な仕事なので」
「子育ても家事も間接的に収入につながっているから」
「1日中子どもの面倒をみるより、外で働いているほうが楽だとずっと思っていた」
「子どもたちの成長のすべてを見ることができたから」
「仕事をしていてはできないこと(PTA役員、子どもの習い事でのことなど)に時間を使うことができた」
「収入がなくぜいたくができなくても、家庭をおろそかにするほうが罪悪感」
興味深いのは、世代別の数字だ。専業主婦・主夫であることに罪悪感が「ない」と答えている比率は、30代以下が29.8%なのに対し、40代では36.2%、50代では53.6%に上がる。
専業主婦生活が長くなった50代は喉元過ぎて解釈が美化されている可能性もあるが、周囲の多くが専業主婦だった世代と今の30代では取り巻く環境が違う。女性活躍とさかんに言われ、人数的にも専業主婦のほうがマイノリティになりつつある。
1955年からの主婦論争
この「後ろめたい/後ろめたさなんか感じる必要ない」論争。「しゅふJOB総研」の調査は、もともと専業主婦であることに罪悪感を覚えてしまう人がいることに問題提起する意図だったのだが、テレビで紹介された際、調査自体が罪悪感を押し付けているかのように捉えた一部視聴者の間で炎上した。
作家の橘玲氏は、専業主婦のさまざまなリスクを指摘した著書『専業主婦は2億円損をする』の中で、編集者に専業主婦批判はタブーになっており「専業主婦を敵に回してもなにひとついいことはないから、そんなことする女性の筆者なんかいません」と言われて男性の自分が引き受けることにしたと書いている。
しかし、それでも発売後にこの本を紹介した記事が炎上し、ほかに50万部も売れた本もあるにもかかわらず、橘氏が書いた中で最も社会的な反響が大きな本だったと文春オンラインで語っている。
専業主婦を妻に持つ夫を取材した本連載の記事でも、「妻が専業主婦だと言うと『養えるなんてすごいですね』と嫌味みたいに言われることもある」「妻も最近は専業主婦をしていると言いづらいみたいだ」という声も聞いた。女性活躍がもてはやされ、外で働く人が増える中で風当たりが厳しくなっているゆえに、反発も大きいのだろう。
専業主婦の経済的リスクを指摘したときの反応を大きく分けると、おそらく2種類ある。
(1) 好きで専業主婦をやっているわけじゃない
私だってリスクが大きいのはわかってるけど、仕方なかった。専業主婦ってすごく大変で、できれば外で働きたいけど、そういう社会の仕組みになっていない。なのに私たちを責めないでほしい。
(2) 好きで専業主婦をやっているんだから、放っておいてほしい
外で働いていることばかりに価値を置くのはおかしい。家事や育児という立派な仕事をしていて、私たちだって十分活躍している。なのに専業主婦はつまらない仕事みたいに見下さないでほしい。
この2つの意見は一見、真逆にもかかわらず、どちらも主婦の仕事に対して価値が評価されていないことへの、不満でもある。
「主婦は働くべきか」からはじまり、「主婦だって立派な仕事である」「専業主婦は三食昼寝付きでいい身分」といった主婦の見られ方をめぐって議論が繰り広げられる、 いわゆる「主婦論争」には半世紀以上の歴史がある。
上野千鶴子『主婦論争を読む(1・2)』や妙木忍『女性同士の争いはなぜ起こるのか』などでは、1950年代からの議論が整理されており、中には「専業主婦、くたばれ」といった過激な発言まで繰り広げられた様子が書かれている。
過去何度も繰り返されてきた論点の1つに、経済的自立を重視する立場、それに対して経済的なものでは測れない価値を強調する立場の対立軸がある。結局、この対立は家事労働が無償であることに起因している。
解決策として、専業主婦にその働きを評価して現金支給をする主婦年金というものが提起されたこともあったが、財源の確保は現実的ではなく、この論点は決着のつかない平行線をたどっている。
ここに、最近加わっているのが自己選択の議論だ。妙木忍氏も上記書籍で1990年代後半から2000年代前半の第5次主婦論争では「自己決定・自己責任論」が論点の1つになったと指摘する。
つまり、「積極的に自分で選んで楽しんで専業主婦をしている人はいいが、自分で選んだくせに、大変だとか評価されないとか不満を言っている専業主婦は文句を言うくらいなら、外で働けばいい」という主張をする論者が現れたのだ。
しかし、これこそが上記にも書いた(1)「好きで選んだわけじゃない」タイプの反発がでてくる背景でもある。つまり、好きで選んだとは限らないのに、専業主婦は大変だと言うと「自分で選んだんでしょ」と言われてしまう、あるいは専業主婦を養える世帯が減っている中で選べること自体に対して「専業主婦になれるなんていいですね」と嫌味を言われてしまう――。
しかし、人生の選択をする場面で、それを選ばざるをえない状況があったり、数少ない選択肢の中で次善の策として選んでいたり、選ぶように方向づけられてしまうような社会規範があったりしないだろうか。
例えば専業主婦にならない限り十全な育児ができないように見える社会環境、育休が取れない立場や配偶者の転勤が頻繁で就業と家族で生活することがトレードオフになってしまう企業の仕組み――などによって、そう方向づけられる場合もあるのではないか。
そうした制度や枠組みを疑うことなく、自己責任論に帰してしまってはたしていいのだろうか。なにか課題があるにもかかわらず当事者たちが「自分で選んだんだから」と自己暗示をかけることで、本当は改善されたほうがいい既存の課題含みのシステムは放置され、ときに強化される可能性もある。
比べる対象としての専業、共働き
こうした家事の価値をめぐる論争と自己責任論に加え、かつてないほど、専業主婦と共働きは、お互いがお互いを意識する存在になりつつあることも主婦論の炎上に油を注いでいる可能性がある。
マートンという社会学者が“準拠集団”という概念を使って“相対的不満(相対的剥奪感)”という理論を展開している。人は自分の置かれている絶対的な環境よりも、誰かと比べて「この人たちより不利な境遇にあるが、あの人たちよりは恵まれている……」というように「相対的」な不満を抱える――というものだ。
そのときに、比べたり規範に従ったりする対象のことを “準拠集団”というのだが、人が準拠させる集団は、所属している集団に限らない。
自分の置かれている環境とあまりに違う立場、例えばまったく環境の違う外国人と自らの置かれている環境を比べて「自分はあの人より幸福か」と考える人は少ないだろう。
しかし、「会社の同期の中でも最初に営業に配属された人は皆出世してるのに……」とか「将来、あのグループにいれてもらいたいから振る舞いをまねしてみよう」とか、過去に所属していた集団や将来所属することになるかもしれない集団は、現在の自分の所属がなくても “準拠”させることがある。
高度経済成長期で農家の次男、三男がサラリーマンとなり、大半の家庭で妻が専業主婦になっていった時代、多くの女性にとって、専業主婦は「選ぶ」ものというよりは、多くの人にとっての「自然な流れ」だったに違いない。まれにパイオニアの職業婦人がいても、その数少ない層はあまり「私だってああいうふうになれたかもしれない」という“準拠集団”にはなりにくかったのではないか。
ところが、今は、専業主婦、共働き家庭にとって、お互いは今、「もしかしたら自分だって選べたかもしれなかった選択肢」なのかもしれない。だから、比べてしまう。そして相対的な不満、“相対的剥奪感”を感じてしまう。どちらも、選んだことに自信がなく、どこかで後ろめたさを覚える――。
そんな中で自己評価の“相対的”な価値を上げて自己納得をしようとしたときに、自分の選んだ選択肢のメリットではなく、選ば(べ)なかった選択肢のデメリットを上げてしまうことがないだろうか。
例えば「私がこういう子育てをしたから、子どもはすくすくと成長している」と認めてほしいときに、「働いているお母さんの子は、可哀想」「専業主婦家庭で育つと、親離れが大変」などと言い換えてみるとどうか。こういうことをしてしまうと、対立は深まっていくことになる。
主婦論争の大きな対立軸として、経済的価値と、そうでない価値の軸があると述べた。後者の数値化・可視化できない価値を人にわかってもらったり、自己評価したりするのは、前者よりも難しい。家事や育児は成果が見えづらく、原因と結果の因果関係が明確でない。こうして対立構造はうまれ、アンビバレントな感情を抱いている“準拠集団”の側に自分自身が飛び移りにくくもなっていく。
どちらかを選ばざるをえない社会が対立をあおる
この連載では、専業主婦を前提とした日本社会のOSを見直していく必要があることをたびたび訴えてきた。子育てなどのシステムが片方の親が専業主婦(夫)として家事育児に専念しなくても成り立つように設計されていて、望まない場合に「専業主婦(夫)を選ばざるをえない」状況をできるだけ減らすこと。
そして、経済的価値がすべてではないが、そうではないほうのプライスレスな経験、例えば子どもと向き合う十分な時間が、経済的自立の犠牲と引き換えでなくても得られること。つまり、両親ともに長時間労働をしなくても普通に働き、普通に子育てもできること。
専業主婦も、共働きも、「もしかしたら自分だって選べたかもしれなかった選択肢」であったと同時に、「いつ自分がそちら側に行くかわからない選択肢」でもあるはずだ。それが誰にでもいつでも選べるものなのであれば、選べなかったことを後悔したり、選ばなかった選択肢の価値を引き下げたりする必要もない。
専業主婦の期間を経て再就職する人や、フリーランスのような柔軟な働き方をする人が増えている。真の意味で多様な選択が可能な社会になったとき、専業主婦とワーキングマザーといった対立軸や主婦論争は、ようやく終わりを告げることになるのではないだろうか。
中野 円佳(なかの まどか)◎ジャーナリスト 1984年生まれ。東京大学教育学部を卒業後、日本経済新聞社に入社。大企業の財務や経営、厚生労働政策を取材。立命館大学大学院先端総合学術研究科で修士号取得、2015年4月よりフリージャーナリスト、東京大学大学院教育学研究科博士課程。厚生労働省「働き方の未来2035懇談会」、経済産業省「競争戦略としてのダイバーシティ経営(ダイバーシティ2.0)の在り方に関する検討会」「雇用関係によらない働き方に関する研究会」委員。2017年4月より、シンガポール在住。カエルチカラ言語化塾、海外×キャリア×ママサロン等のオンラインサロンを運営。2児の母。著書に『「育休世代」のジレンマ』(光文社新書)、『上司の「いじり」が許せない』(講談社現代新書)。