山村美咲ちゃん(仮名=以下同)は小学校6年生。垢じみたセーターの上からも、胸のふくらみが見てとれる。ブラジャーをしていないのだ。
美咲ちゃんの両親は数年前に離婚。現在、父子家庭の状態だ。典型的な仕事人間のお父さんは、娘にブラや着替えが必要なことに気がつかない。
そんな美咲ちゃんが今日も向かうのは、某スーパーの休憩スペースだ。周囲の大人にさかんに声をかけ、優しい言葉のひとつも返されると、喜んでついて行ってしまう。危険と注意してくれる人はいない。
「あんたのお母さんは私のほうが可愛いって!」
主婦、河北玲子さんの経験。
小学4年生の娘・玲奈が友達数人を遊びに誘った。ところが呼んでもいない男の子・翔太くんがついてくる。同じ学校の上級生で、通学路が同じなので玲奈も顔ぐらいは知ってはいる。だが、話したことはない。
帰るよう促したが、翔太くんは“僕が遊んであげる!”と帰らない。さらには、みんなのおやつをひとりで平らげ、勝手に冷蔵庫を開けてつまみ食いをする。ようやく家に帰ったのは、夕食を平らげたあとの午後7時過ぎだった。
主婦、近藤絵理さんはショックで茫然としてしまった。
小学2年生の娘・早苗のクラスに理恵ちゃんという女の子がいる。両親は共働きで、
遅くまで帰らない。
かわいそうにと思い自宅に遊びにくるよう伝えたら、連日、早朝から夜まで居座って絵理さんに甘え、つきまとって離れない。あげくの果ては、ひざに乗ってしがみつき、娘の早苗にこう言い放った。
“あんたのお母さんはあんたより私のほうが可愛いって! 私のほうがずっとずっと大事だって!”
“放置子”とその家族の特徴は?
呼ばれてもいないのに他人の家に上がりこみ、飢えたように甘える。常識に欠けていて、“そろそろ帰ってくれないかしら?”といった空気を読むことができない。親切心から付き合っていると、心底疲れ切ってしまう。
「こうした子は“放置子”と呼ばれています。インターネットの中で使われている言葉で、福祉などの専門用語ではありません。
だから定義することはできませんが、ネットの世界では、“わが子がどこで何をしているのか親が関心を持たず、ほったらかしにされている児童”を示すのが共通認識になっています」
こう語るのは、松蔭大学コミュニケーション文化学部の深谷野亜准教授だ。
深谷准教授によると、10年ほど前からネット上で、“実はこんなことが……”と、くたびれきった口調で語られる中で自然発生した言葉だという。
哀れで、凍りつくほど孤独で、それでいて手に余る子どもたち。親からは愛情や居場所を与えてもらえず、必死になってそれを探している姿なのだ。そしてほぼ小学生だけの問題であるという。
「放置子も中学生になれば、自分で生きていける場所を見つけます。いい出会いがあればいいのですが、一時の愛情を求めて恋人をつくり、その家に入り浸ったり。半ば家出のような形で、渋谷などの繁華街で同じような境遇の子と夜通しつるみ時間をつぶすこともあります」(深谷准教授)
“呼ばれもしないのに他人の家に上がりこむ”行動には、実は筆者自身にも身に覚えが。
大量のマンガ本を持つ近所の高校生のお兄さんの部屋に勝手に上がりこみ、マンガ本を読みふけっていた記憶があるのだ。私って、もしかして放置子だったの……?
「そのお兄さんの親御さんが、“勝手に家に入って困りますね”と、あなたのご両親にクレームをつけたとしたらどう反応したでしょう? 親であれば、とりあえずは“すみません”と謝るのが普通です。そのあとで子どもを叱る。しかし、放置子の親御さんは“ああ、そうですか。だったら追い出してください”と意に介さない。
そして子どもが帰ってきても“行ってはダメ”とも言わない。SNSやゲームなど自分が今していることが第一で、親であるという意識がまったくない。親の意識がないから子どものしていることに無反応。これが放置子の保護者共通の特徴なのです」(深谷准教授)
こうした子どもへの無関心は、明らかにネグレクト(虐待)である。そしてネグレクト状態に置かれた子どもの魂の悲鳴が、あの過剰なつきまといや甘えであり、“あんたのお母さんは私のほうがずっと大事!(あんたがいなければ私がいられる)”という悲痛な叫びなのだという。
子どもは、親と接する中で、人との距離感や常識、自己抑制というものを学びとる。
「子どもにとって、親から愛情を受けることは大切です。自分を愛してくれる親を大切に思うからこそ、自分の願望だけで考えてはダメだと理解できるのです。
例えば5つしかないから揚げをひとり占めしてしまえば親のおかずがなくなってしまうので“親の分を残そう”と思えるでしょう。ところが放置子は愛情を受けることなく、かまってもらえないまま育つため、“相手の都合と自分の希望の兼ね合いを読む”学習機会がもてない。それがこうした子特有の距離感のなさの原因です」(深谷准教授)
放置子はなぜ増加したのか
こんな放置子たちが生み出された背景には、子どもを放置せざるをえない社会構造の変化がある。
1980(昭和55)年には全体の3分の1にすぎなかった共働き家庭は'97(平成9)年に逆転し、以降は共働きが多数派となった。
さらには、ひとり親家庭も急増。母子家庭にいたっては1983(昭和58)年に71万8000世帯だったのに対し、2016(平成28)年には123万2000世帯とおよそ1・8倍に増えている。
核家族化も顕著で、'16(平成28)年の核家族3023万世帯に対し、祖父母がいる3世代世帯は295万世帯と1割にも満たなくなっているのだ。
社会そのものが“学校から帰った子どもがひとりで放置されやすい”環境となっているのだ。
とはいえ、放置子は女性の社会進出や社会への共同参画の徒花というわけではなく、いつの時代も一定数は存在していたという。
1980年代ぐらいまでは、子どもたちは学校から帰るやいなや、ランドセルを放り出して遊び回ったものだった。
そんな時代背景の中、放置子もともに遊び、ときには晩ごはんのお相伴にあずかったり、近所の世話焼きおばさんから“お母さんが仕事でいないのなら、帰ってくるまでウチにいなさい”と保護されることも多かった。
同じネグレクト状態にあっても、コミュニティー全体が役割を分担しつつ、親に代わって見守る体制があったのだ。
「ところがいまは、子どもの放課後の時間は親が各自で管理する時代です。学童保育に行かせるとか、お稽古ごとに行かせるとかですね。経済的理由や親の無関心でその枠からはずれると、行くところがなくなって目立ってしまう。
放置子は実は昔から存在したんです。だが受け止める体制があったから目立たなかった。ところが今は体制がない。だから、かすかでも居場所があるとついしがみついてしまう。それがネット上で語られているのです」(深谷准教授)
大海原の真ん中で船から放り出されてしまったら、人や物、周囲のどんなものにも必死になってしがみつき、決して離そうとしないだろう。
放置子もまったく同じ状態だ。本能で優しい人を見抜き、少しでも可能性があれば全力でしがみつく。しかし、自己抑制ができないから、しがみつかれた側はすぐに息苦しさを感じ始めてしまう。
「だから放置子だとわかったら、いち早く児童相談所や小学校に伝えてください。個人で救うのはまず無理。疲れきって溺れてしまう。社会全体で育てざるをえないのです」(深谷准教授)
「ショックを受けるかも」という躊躇はいらない
放置子が“また捨てられた”と傷ついたり、ショックを受けることはないという。
「“児童相談所に相談されてしまった自分”にショックを受けるのは、自分を客観視できるからです。それができるなら、息苦しいほど他人にしがみついたりはしません。ショックを受けるかもと躊躇するより、一刻も早く保護すべきなのです」(深谷准教授)
大きな視野からは、親に親としての意識が育つ社会にすることが必要だという。
「今の教育は、可能性を引き出して自己実現を支援する“あなたのための教育”が中心で、他者のために自分が犠牲を払うという“他者のための教育”が手薄なのです。
例えば部活動ならば、以前は“チームのために頑張ろう”とか、“試合には出場したいけれど、ライバルが出たほうが勝てそうなので涙をのむ”といったことがありました。ですが少子化社会では、試合に出る人数をそろえることに苦労することさえあります。
そんな環境で育った両親の意識の中に、教育費から時間まで、親側の自己犠牲のもと、“この子が幸せならば私も幸せ”と感じる気持ちや、自己実現以外の喜びをどう育てるか……。とても難しい問題です」(深谷准教授)
社会全体にも“子どもは社会のものであり、コミュニティー全体で育てる”という意識改革が必要だという。
身近な範囲でのそれは、かつてのように地域全体で子どもの状態に気を配り、ときにはわが子同然に叱りつけ、叱られた子の親もそれを当然として受け止めることだろう。
アメリカなどに倣い、子どもの権利は親の権利よりも上位にあると周知徹底し、不適切な親であれば子から親を引き離すことを当たり前とする社会の熟度が求められる。
千葉県野田市の小学4年・栗原心愛さんの虐待死事件では、父・勇一郎容疑者が“娘を連れて帰る。名誉毀損で訴える”と強気に出て児童相談所を怯えさせ、虐待死へとつながった側面がある。
しかし、“子どもは社会全体のもの”という共通認識が徹底されていれば、児相が怯えることなく立ち向かい、心愛さんを救えたかもしれない。放置子の問題も、社会のあり方や、私たちの心の持ちようの改革から考えるべきなのだろう。
(取材・文/千羽ひとみ)
《識者PROFILE》
深谷野亜 ◎ふかや・のあ。松蔭大学コミュニケーション文化学部准教授、学生相談室長。大正大学、明治学院大学非常勤講師。共著に『こども文化・ビジネスを学ぶ』(八千代出版)のほか、『日本の教育を考える第三版・第四版』『育児不安の国際比較』(いずれも学文社)など