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「平成という時代を振り返ってみると、この30年でスポーツのグローバル化が劇的に進みました」

 こう話すのは、数多くのスポーツ中継を担当し、名勝負をお茶の間に伝えてきた元NHKのエグゼクティブアナウンサー、工藤三郎さん。

スポーツの“形”が変わった平成

 平成7年、野茂英雄がメジャーリーグに挑戦し、そのあとイチローや松井秀喜といった野手もメジャーでチームを支える戦力として認められるように。大谷翔平に至っては打者と投手の“二刀流”で、ベーブ・ルースの再来とまで評されている。

 また、野球の世界一を決めるべく開催されたWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)では、平成18年と21年を“サムライジャパン”が連覇した。

 テニスでも錦織圭が日本人男子選手として、初めて世界ランキングでベスト10入り。大坂なおみは4大大会の全米、全豪で優勝し、世界ランキング1位に上りつめ、女王となった。

 “サムライブルー”も躍進。平成9年には前大会の予選最終戦の“ドーハの悲劇”を乗り越え、サッカー日本代表がワールドカップ初出場を決めた。

 オリンピックでは平成4年のバルセロナ大会で、競泳女子の岩崎恭子が平泳ぎで世界競泳史上最年少の金メダリストとなり、平成26年のソチ、平成30年の平昌大会でフィギュアスケートの羽生結弦が、2大会連続で金メダルを獲得した。

 このようなグローバル化の背景には、スポーツビジネスの急成長があり、選手の意識や、環境も激変したことが理由にあげられる。

 工藤さんは、伝える立場からスポーツ界の変遷をこう話す。

「時代の転換を感じたのは、平成5年のJリーグ開幕のときですね。当時、プロスポーツといえば野球と相撲が中心で、ほかの競技はほとんどがアマチュア競技だったわけです。

 それがプロスポーツとして、ビジネスとして成立させることによって、選手側にも金銭面の待遇や練習場所といった、いろいろなことがメリットとして還元されるようになった。スポーツのありようが変わってきたのです」

 スポーツ団体が、元選手など身内だけによって構成される、いわゆる体育会系の運営ではなくなったことも影響している。プロの経営者の目が入ることで、選手たちにも大きなチャンスになっているという。

「育成や宣伝を組織的に、効率的に行うノウハウがJリーグの運営の中ででき始めてきて、ほかの競技にも波及し始めています。最近ではバスケットのBリーグが成功した例といえるのではないでしょうか。

 昔ながらの先輩・後輩といった関係や、体育会の仲間の中だけでやっている競技会ではなく、もっと開かれた形で運営をしていけば、選手たちの意識も変わってくるでしょう。“井の中の蛙”ではなく、それこそ“世界”を見据えて挑戦できる環境にもなると思います」(工藤さん)

 スポーツ界の仕組みが変わり始めた、平成という時代。その“現場”にいた人の、今だから話せる証言を聞いていこう。

オリンピック名場面、プレーバック

 平成に開催されたオリンピック・パラリンピックは、夏季7回、冬季8回の計15回。日本の総メダル数は、実に夏季195個(パラ227個)、冬季51個(パラ88個)! メダルの有無を問わず、そこにはさまざまなドラマが−−。

 平成最初に行われた夏季バルセロナ五輪では、岩崎恭子(当時14)が200メートル平泳ぎで金メダルを獲得し、「今まで生きてきた中で、いちばん幸せです」のひと言が大流行。

 平成6年に開催された冬季リレハンメル五輪は、それまで夏冬同じ年に開催していた五輪を隔年開催にするために、前回の冬季アルベールビル五輪からわずか2年後に開かれたことも話題に。荻原健司選手を筆頭としたノルディック複合団体が金メダルを獲得するなど、日本のノルディック複合は黄金時代を迎えた。

 続く夏季アトランタ五輪では、田村亮子選手が決勝で敗れ、まさかの2大会連続の銀。男子サッカーでは、大本命のブラジルを破る“マイアミの奇跡”を起こすなど、五輪でもサッカー人気は不動のものに。

 2年後の冬季長野五輪は、何といっても男子ラージヒル団体の金メダルに尽きる。前大会で銀メダルに終わる原因を作ってしまった原田雅彦選手が、汚名返上の大ジャンプ。「立て、立て、立ってくれ!」の実況が忘れられない。

「用意していた言葉ではなく、心の底から出た言葉でした」

 とは、多くの平成五輪で実況、キャスターを務めてきた前出・工藤アナ。その後の「船木ぃ~」と見守る原田選手の姿を含め、平成スポーツ史の名場面だ。ちなみに、今をときめくカーリングも長野で正式種目に。

 平成12年の夏季シドニー五輪では、高橋尚子選手が日本の女子陸上競技として初の金メダルを獲得。なんと女子マラソン中継の最高視聴率は59・5%を記録。

レジェンドが続々と生まれた

 2年後の冬季ソルトレークシティー五輪は、長野で金の里谷多英選手がフリースタイルスキー女子モーグルで銅メダル、同じく前回金の清水宏保選手がスピードスケート男子500メートルで銀メダルを獲得した。

「伸身の新月面が描く放物線は、栄光への架け橋だ」の名実況を生んだ体操男子団体総合や、「ママでも金」宣言を有言実行したヤワラちゃんを筆頭に、夏季アテネ大会は16個の金メダル獲得。歴代で最多金メダル数の五輪となった。

 平成18年開催の冬季トリノ五輪のハイライトは、フィギュアスケート女子シングルの荒川静香選手の金。誰しも1度はイナバウアーのまねをしたはず。

 前回のアテネ大会の「チョー気持ちいい」に続く名言、「何も言えねえ」が飛び出した男子100メートル平泳ぎの北島康介選手が、2大会連続制覇を達成した夏季北京五輪も印象的。

 ソフトボール日本代表も金、フェンシング男子フルーレの太田雄貴選手の銀メダル獲得も話題に。アテネ大会で、アーチェリー男子個人銀メダルに輝いた“中年の星”山本博選手を含め、このころから、あまりなじみのないスポーツが脚光を浴びるように。

 続く、冬季バンクーバー五輪は金メダル0に終わるも、浅田真央選手が銀メダルを。

 平成24年の夏季ロンドン五輪では、ボクシング男子ミドル75キログラム級の村田諒太選手、体操男子個人総合の内村航平選手が快挙を達成。また、パラリンピックでは、車いすテニスシングルスの国枝慎吾選手が2大会連続(ダブルスを含めると3大会連続)で金メダルを獲得するなど、日本でもパラリンピックへの関心度が高まるようになった。

 続く冬季ソチ五輪では、フィギュアスケート男子シングルで羽生結弦選手が金を、男子ラージヒル個人の葛西紀明選手が銀を獲得して“レジェンド”に!

 平成最後の夏季冬季大会リオデジャネイロ&平昌五輪では、バドミントンやカヌー、パシュートやハーフパイプでメダルを獲得するなど、日本のお家芸以外の躍進が目立つようになったのは記憶に新しいところ。

 ほんの一部を振り返ってもこれだけのドラマがあるオリンピック。

 そのドラマを間近で見てきた、工藤アナに直撃!

そのとき感じた言葉を紡ぐことが大事

「負けた人にも、報道で取り上げられないところにドラマがあります」

 長野五輪の男子ラージヒル団体や、北京五輪の女子ソフトボール決勝など、数々の名場面に立ち会ってきた工藤三郎さんはこう語る。

名実況と呼ばれるもののほとんどは、視聴者の気持ちと重なりやすい、期待の選手が勝ったときに生まれます。ですから、期待していた選手が負けたときほど難しい実況はありません。肩入れしすぎると、負けたときに取り繕った実況しかできなくなる。あくまで冷静に、事実をお伝えする。期待の選手が負けたということは、それ以上に称えるべき選手がいるということですからね」

 “勝者を称えつつ、敗者の健闘も忘れない”。冬季ソチ五輪で、誰もがメダルを獲得すると信じて疑わなかった高梨沙羅選手が4位に終わった際、直後のインタビューで工藤さんは、「よく頑張りました」と最後に声をかけ、大きな好感を呼んだ。

「斟酌(しんしゃく)せずに、“敗因は?”と聞くこともプロフェッショナルな姿だと思います。ですが、選手の姿を取材し、見続けてきた側からすると、そのときに感じた言葉を紡ぐことも大事。バルセロナ五輪の400メートル決勝で、高野進選手が8位でフィニッシュしたときもそうです。“メダル獲得ならず”ではなく、自然に“高野は世界の8位”という言葉が出てきたんです

 この決勝前の予選で起きた、あるエピソードが印象に残っていると工藤さんは話す。

「準決勝で、メダル候補との呼び声が高かったイギリスのレドモンド選手が足を引きずるアクシデントに見舞われました。失格をまぬがれたい彼は何とか走ろうとした。ところが、見知らぬおじさんが侵入し、彼を抱きかかえてしまった。

 後にわかるのですが、レドモンド選手の父親だったんです。格上の彼のアクシデントがなければ、高野選手の決勝進出はなかったかもしれない」

 ロンドン五輪の際、レドモンド選手が会場に姿を現すと、大歓声に包まれたという。

「私たち同様に、それぞれの国にドラマがある。だからこそ、誰が勝ってもスポーツの凄みや醍醐味が伝わるように、アナウンサーは実況をしなければいけません。できることなら、日本人選手以外にも関心を抱いてほしいですからね」

 長年、スポーツとかかわってきた工藤さんにとって、平成の30年間でスポーツはどう変わったのか尋ねると、

“やる”“見る”以外に、“サポート”“マネージメント”“プロモーション”といった要素が顕著になったことでしょうか。単なる興行ではなく、エンターテイメントやビジネスとしてスポーツを成り立たせるように変わりました。同時に、平成の幕開けとともに、ベルリンの壁、ソ連が崩壊したことで、東西冷戦は終結。オリンピックが政争の道具として扱われる機会も激減しました」

 だからこそ、オリンピックは商業的な側面を強めていったともいえるだろう。

 また、「アナウンサーに限った話」として、こんな指摘も。

「インターネットによって情報が手に入りやすくなり、実況の形も進化しました。バルセロナまでは、選手の情報は英字新聞か現地取材でしか得られなかった。ところが、ロンドン五輪になると、ネットを通じてリアルタイムで全競技が視聴できる時代になり、実況における情報も格段に増えました。先の平昌五輪では、アイスホッケーの試合において、NHKでも実験的にロボット実況を投入したほどです」

 驚くことに、AIはそつなく実況をこなし、評価も上々だったとか。

 となると、今後は工藤さんのような名実況が生まれなくなる!?

「アナウンサーにとっては踏んばりどきです(笑)。“生身の人間の実況がいい”と言ってもらえるように、私たちも選手たちに負けない努力をしていかなければなりません。今後は、さまざまな実況が登場することが予想されますから、試合だけでなく実況にも注目すると、よりスポーツが楽しめると思いますよ」


《識者PROFILE》
くどう・さぶろう ◎元NHKのエグゼクティブアナウンサー。プロ野球を中心に実況を行い、平成オリンピックのほとんどの大会で現場入りしている。