手を動かしながら、何気ないおしゃべりを欠かさない。
小バエが数匹転がった電灯カバーをはずした古市盛久さん(39)は、首をかしげながら話しかけた。
「なんでこんなにいっぱい入ってくるんでしょうね?」
家事代行を依頼したジェリー・ルーさん(65)は、古市さんが乗ったイスがぐらつかないよう手で押さえたまま答える。
「さあねえ。光を求めてやってくるんだろうね。ふふふふ」
「ジェリーさん、から拭きだけしますね」
「ああ、そうね。そうしてちょうだいな」
イスから下りた古市さんは、カバーの内側を丁寧に拭きながら「腰の具合はどうですか?」と尋ねる。
「だいぶいいんだけど、しゃがむのが怖いんだよねえ」
そこから世間話になっていく。
カチッ。
再びイスの上に立った古市さんがカバーを取りつけると、目尻を下げたジェリーさんが声をかけた。
「グッジョーブ!」
満足そうな笑顔を浮かべる古市さんが経営するのは、『株式会社御用聞き』。5分100円からの家事代行を行う会社だ。電球や電池の交換、あて名書きなどを請け負う。「瓶のふたを開けてほしい」という依頼が全体の1割にも及ぶ。
ほかにも、家具や粗大ゴミの移動、大掃除の手伝い、浴室のカビ取り、トイレ掃除やパソコンの設定サポートなど『たすかるサービス』というメニューもある。作業の難易度が若干上がるため5分300円からの料金設定だ。
リピート率は8割を超える。活動エリアは東京23区内をはじめ、清瀬市や町田市など近郊都市や、神奈川県の一部へと拡大中。2月からは、愛知県刈谷市でサービスをスタートさせた。
ちょっとしたことだけど、自分ではできない。でも、誰にも頼めない。そんな困りごとを、古市さんは「生活のささくれ」と呼ぶ。
「指にささくれができましたと病院に行く人はほとんどいないと思います。ところが消毒もせず放っておくと、出血したり膿がたまることだってあるでしょう。人々のそんなささくれのような人生の痛みに一緒に向き合えたらいい」
8年前にひとりで始めたこのサービス、今では主な担い手は大学生になった。研修プログラムをみっちりたたき込まれ、指導役の社員との実践を数回行ってから、訪問する。
「入れ替わり立ち替わり、もう5~6人は来たかな。誰が来てもきっちり仕事してくれますよ」
冒頭の依頼者であるジェリーさんは、5年以上前から月に数回ずつ計100回以上サービスを受けている。この日は、洗濯機下と電灯カバーの掃除で10分間。かかった料金は、作業費の200円に出張料400円を足しても600円だ。
「腰が悪いのでしゃがめない。トイレや風呂掃除、床拭きもしてもらう。ほかの家事代行のチラシを見ると、すごい金額。そこまでのフルコースのサービスはいらない。ちょこっとでいいんです。でも、5分や10分単位なんて御用聞きさん以外はやってない」
両親ともに中国人というジェリーさんは、インターナショナルスクールに通った。親、兄弟は現在、全員米国に住む。仕事はメディア関係で多忙を極めた。近くにひとり娘(23)が住むものの「こんなことは頼めない」と苦笑する。
そして、少し恥ずかしそうにつぶやくのだ。
「御用聞きに頼むほうがいい。古市さんに会えるし。彼らとのおしゃべりが楽しいんですよ」
このおしゃべりがミソだ。御用聞きの大きなコンセプトは「会話で世の中を豊かにする」なのだから。
「お身体は大丈夫ですか?」「どこが痛いのですか?」「病院に行ったほうがいいですよ」
そんな会話を繰り返すうち、支援や介護が必要な状況なのに要介護認定されていないと判明したことは1度や2度ではない。地域包括センターなど公的機関につなぐ仲介役にもなりうる御用聞きは、少子化と核家族化で孤立する高齢者を支援する“ソーシャルビジネス”の側面を持つ。単なる「便利屋」ではないのだ。
2025年を境に、団塊の世代800万人が75歳以上の後期高齢者になる。行政や福祉、民間と、生活者をつなぐ拠点を目指す御用聞きは、2025年問題という社会課題を解決する使命を負っている。
原点は「6枚の古銭」と「ありがとう」
そんな大役を担う古市さんだが、1度はどん底を味わっている。
20代後半は不動産仲介業で成功。有頂天なときを迎えていた。交渉術に長けた凄腕仲介マンは電話だけで契約をものにし、ときには億単位のカネを動かした。ホテルのレストランに関係者を呼んでフルコースの大盤振る舞い。髪をツンツンに逆立てた今風のヘアスタイルで葉巻を吸った。
そんななか、知り合いに「フルちゃん、次はどんな金儲けする?」と言われ、背中に“稲妻”が走る。トイレへ駆け込み、鏡でわが身をしげしげと見直した。
「今の自分は、自分がいちばんなりたくなかった類の人間になっているのではないか。俺がやりたいのはこんなことじゃない」
翌月には不動産業の看板を下ろした。
2009年、「高齢者にやさしいビジネスをやろう」と会員制の買い物代行サービスを思いつく。高齢者が買い物難民になっていると聞き、それを子育て世代が100円代行すれば当たると考えた。
ところが、会員数わずか100人とさんざんな結果に。社員7人の給料が滞り1年で倒産寸前に追い込まれた。損失は約1億7000万円に上った。
「事業設計が素人で、ダメ経営者の典型でした」
ある日、アスファルトの道の上につっぷすように倒れ込んだ。
「ふらふらして地面が抜けて下に落ちていく感覚がありました。うつぶせのまま顔を上げたら、景色がモノクロで。ハッとわれに返った瞬間が地獄で、絶望的な感情に襲われました。自分には生きる価値がないと考えました。人生でいちばんつらい時間でしたね」
通りすがりの人が「大丈夫ですか?」と起こしてくれた。
東日本大震災の半年前のことだった。
どん底を味わった者は、謙虚という名のスタートラインに戻る。
登録しながらサービスを受けなかった会員のもとへ、お詫び行脚に出ることにした。
「謝罪なんていらないから、ちょっとあの棚の上にあるもの、取ってもらえない?」
「2000円あげるから、お風呂場のカビ取りやって」
「3000円あげるから草むしりやって」
遂行すると、一様に「ありがとう!」と逆に感謝してくれた。
最後に訪ねた80代の女性宅。玄関のドアが30センチほど開いていたので「すみませーん。いらっしゃいますか?」と入って行った。
女性は、悲しげな顔で「インターホンが壊れているの」と話した。定期的に訪問してくれるヘルパーに修理を頼むのは気が引ける。ヘルパーの来訪に気づけなかったら困るので、夜もドアを半開きにしたまま寝ている─。
女性とのそんな会話から、彼女がいかにヘルパーを心待ちにして暮らしているのかが伝わってきた。
壊れたインターホンは電池切れだった。新しいものを買いに出て取り替えてあげると「ピンポーン」と呼び出し音が鳴った。
うれしいと喜んだ女性のやせた頬に、一筋の涙がつたっていた。
「これで安心して眠れるわ。ありがとう。でも、財布はヘルパーさんに渡しているから、これで勘弁してね」
古銭の50円硬貨を6枚渡してくれた。古くは昭和31年の刻印のものもあった。
もらった瞬間、古市さんの背筋が震えた。
「俺は今まで何をしていたんだと思いました。高齢者にやさしいビジネスをすると決めたのに、実際に高齢者と触れ合ってもいなかった。お詫びをしに1軒1軒回ったら、いろんなことを頼まれて。ほんのちょっとのことなのに、泣くくらい感謝されて……。初めて生活者の真のニーズにふれたような気がしました」
100円家事代行に命を懸けようと決めた瞬間だった。
母が浴びせ続けた「やめなさ〜い!」
古市さんが「腹の据わった女性」と表現する母・寿恵さん(65)は、息子が実家にやってきてこう宣言したのを覚えている。
「思いついた! 5分100円で御用聞きをやるよ!」
すぐに「やめなさ~い! そんなの利益が出るわけがない。成功しないわよ」と猛反対した。
幼いころは、静かな子どもだった。クラスの寄せ書きなどでは《羊みたいにおとなしい古市君》と書かれた。
「小さいときからまったく手がかからない、聞き分けのいい子でした。私たちを怒らせたり、手を煩わせたりすることもありませんでした」
家族は父方の祖父母と両親、2歳上の姉と双子の兄がいる。兄と姉と同じ私立の中高一貫校に通った。学校以外では合気道を習った。
思春期を経て、「羊」は卒業。本人いわく、「自分がやりたいことをやる唯我独尊的な」キャラクターが徐々に顔をのぞかせる。
高校時代は10万円の時計が欲しいからとアルバイト。とことん節約し、学食で友達が食べ残したうどんの汁を「これ飲んでいい?」とお相伴にあずかったと聞いた寿恵さんは、「そんなこと、やめなさ~い!」と泣き笑いで叫んだ。
大学生になると「やめなさ~い!パターン」はさらに増える。
「お母さん、二十歳の記念に写真撮ってくれる?」
上半身裸で、黒のスパッツをはいた息子にカメラを渡された母は「なんで裸?」といぶかしがるもパシャッと撮影。
あとで聞いたら、総合格闘技『パンクラス』の練習生応募に使う写真だった。テレビ中継を見てプロレスの魅力にとりつかれていた息子は、入門まで逆算してトレーニングメニューを考え、肉体改造。
「書類審査も通ったから、あとは親の許可だけなんだ」
とサインを迫った。
「やめなさ~い! 格闘技なんて見るのも耐えられない。大反対!」と母は叫んだ。
幸いにも、尊敬していた合気道の師匠が「おまえは人生をなんだと思ってるんだ! 30代で現役が終わったら、残りの人生をどうするのだ」と諭して、熱を鎮めてくれた。
祖父のように死にたい
そんな古市さんに最も影響を与えたのは、亡くなった祖父の泰治さんだ。
戦後、満州から引き揚げ、口では言えない苦労をしながら不動産業を成功させた祖父のもとには、政治や経済、文学など、さまざまな分野で名を馳せた人たちが集まった。ソファに腰かけた祖父のひざの上に乗せられた古市さんは、大人の話を聞き続けていた、と母・寿恵さんは振り返る。
「カリスマ的な父でした。人を魅了する。困っている人がいたら手を差しのべようと動く。家族全員、父のことが大好きで尊敬していた。盛久のこともすごく可愛がっていました」
古市さんが小学5年生のとき、祖父は東京都中野区に3階建てのビルを建てた。1階を女子学生限定の17部屋のワンルームにして賃貸マンションに。すべてに防音設備が施された。地域に複数ある音楽系の大学生たちが自宅で練習できなくて困っていると聞いたからだ。なかには、映画『ラストエンペラー』のテーマ曲を演奏した二胡の名手、姜建華さんも。年に数回、近隣の人を集めて音楽会を開いた。
さまざまな大人たちと過ごした時間によって、古市さんのコミュニケーション能力は育まれた。そして、豊饒な時間は、祖父ががんになってクライマックスを迎える。
大学3年のとき、泰治さんと父・精宏さんが父子同時に大腸がんと診断されたのだ。父は抗がん剤治療の末、回復したが、末期だった祖父はほどなくして亡くなった。85歳だった。
祖父の希望で、最期は自宅での緩和ケアに。そこで家族以外の人が大きな力をくれた。
当時、祖母は認知症。15分ごとに「あれがない」「これがない」と何かを探し回る。そんな祖母とがん闘病中の夫の世話をする寿恵さんに、末期がんの舅の在宅看護は無理な話だった。
途方に暮れる家族に「僕が仕事を辞めて最期まで付き添います」と申し出たのは、病院の清掃員を務めていた男性だった。病室でふとしたおしゃべりがきっかけで、祖父と仲よくなった人だ。
祖父が亡くなった日のことは、古市さんの脳裏に焼きついている。家族全員で身体をマッサージしていたら、不思議なことが起こった。
「祖父に面倒を見てもらった人や仲間たちが、どんどん集まってきました。危篤だということを誰にも知らせていないのに、みなさん“嫌な予感がして”とか“会いたくなって”と」
息を引き取った祖父の周りに、人々が二重の輪をつくってむせび泣いていた。
祖父のような人になりたい。祖父のように死にたい。
20歳にして、生き方、死に方の手本を目に焼きつけた。
「お金を稼ぐことのみで評価されるのではなく、ひとりの人間として評価されることの価値を祖父に教えてもらった気がします。尊敬する経営者のひとりですね。つらいこともあったはずなのに、祖父はいつも笑っていました。よく話し、そして人の話もよく聴く。あんなふうに生きたい。あんな男になりたいと強く思いました」
偉大な祖父の生きざまと死にざまが、古市さんの人生の背骨をつくった。
母の寿恵さんも「今思えば、盛久にとって父を看取ったことが、高齢者に眼差しを向ける大きなきっかけになったと思う」と振り返る。
これに、家のなかに他人を迎えてともにケアした経験が加わり、すべてひっくるめて御用聞きの骨格につながった。
その足元は妻が支える。
御用聞きを始めて5年ほどは資金繰りができず苦しそうだったが、寿恵さんは「盛久のことは、きっと嫁が支えてくれると思った」と明かす。
6つ年上の妻が33歳、古市さん27歳で結婚したいと挨拶に来たときのことだ。
当時の仕事は不安定だったので、「もう少し経済的に安定してからのほうがいい」と反対した。息子より、嫁の人生を思ってのことだった。
ところが、逆に嫁から説得された。
「彼はこうと思ったらやり遂げる人。お母さんが思っているよりずっとしっかりしています。どうか見守ってください」
この人となら大丈夫。ふたりとも、突き進む強さを持っている。
そう感じた母は「やめなさ~い」を封印した。
利用者の孤独も受け止める覚悟
右腕といえる人材にも出会えた。社員第1号の松岡健太さん(25)だ。古市さんから全幅の信頼を寄せられている。
「あの人懐っこい笑顔と、ピュアな心根が素晴らしい。マツケン(松岡さん)が加入したことで、御用聞きは黒字になったんですよ」
福祉関係の大学に通っていた5年前に出会い、大学卒業と同時に社員になった。そこから現在までの3年間で御用聞きは事実、黒字に転換した。
松岡さんは言う。
「(黒字転換は)御用聞きが認知され始めた時期と僕が入ったのと同じタイミングだっただけです。とにかく古市さんの“御用聞き”を追い続けるエネルギーがすごいので。絶対あきらめないというか。過去の失敗話を聞くと、自分だったらくじけてしまいそうな壁を乗り越えてきている。すごい才能のある人です。普通はできませんよ」
相棒の目に“超人”のように映る古市さんの強みは「受容する力」だろう。
以前、リピーターの70代女性から、御用聞きをすませた古市さんに連絡が入った。
「私の大事なものがなくなった。あなたが盗ったのではないか」
つい数時間前まで、笑顔で「ありがとう」と玄関まで見送ってくれた女性の変貌に戸惑いながら、古市さんは「活動した詳細は、ヘルパーさんやケアマネージャーさんに報告していますよ。もう1度一緒に探しましょう」と手伝った。いわれのない疑いなのに、やわらかな笑顔で。
担当のケアマネージャーからは「いよいよ(認知症の兆候が)出始めましたね。御用聞きチームは生活者さんへの逃げ道をつくってあげてください」と言われていた。
認知症の場合、本人の訴えをむやみに否定してはいけない。周囲への依存や理不尽な反発を繰り返すなか、女性が依存できる役目を御用聞きが担わなくてはいけない。
「悲しかったですね。何度も依頼を受けていて、自分を頼ってくれると思っていたので」
古市さんはにらみつけられ「あの人を追い出して!」とまで言われてしまった。
「でも、その方は悪くないんです。認知症が、そうさせているので」
御用聞きは、人々の孤独を受け止め、向き合う仕事でもあるのだ。
今年1月から利用し始めた都内在住の佐々木包子さん(82)は、買い物代行や病院への付き添いを頼む。
「お正月明けから足が痛くなって動けなくて。本当に助かっています。病院の待ち時間とか長いでしょ? その間のおしゃべりが本当に楽しい。来てくれるのを、いつも首を長くして待ってます」
佐々木さんは当初、介護保険の手続きが始まるまでのつなぎとして依頼したが、今は「ずっと利用したい」と考えている。
介護保険には、例えば床の掃除はできても窓拭きは含まれないなど、細かい縛りがあり、高齢者に「使いづらい」と感じさせてしまう。御用聞きの需要は大きいのだ。
高齢者と若者の心の触れ合い
佐々木さん宅を何度か訪問している粕川花琳さん(22)は、東京医科歯科大看護科に通う4年生だ。「難しいことは何もしていないのに、こんなに喜ばれてうれしい。人生勉強にもなります」と話す。
御用聞きの担い手となる学生の登録数は現在145名。
「生まれて初めて人に喜んでもらえた」と泣く子がいれば、「お客さんに泣かれちゃいました」とべそをかきながら、うれしそうに報告してくれる子もいる。
会話する相手が宅配便の配達員とコンビニの店員だけ。1週間の対話時間が1時間を切る。そんな高齢者と出会い、老いや人生の孤独に触れ、若者たちは愕然とする。
古市さんはそんな学生と高齢者の心の機微を感じ取りながら、「御用聞きルール」をいくつも導き出してきた。
例えば、依頼者が特定の担い手を気に入って毎回指名してきても、3回以上続けて行かせない。関係性が近すぎると慣れ合いが起きる。加えて「私はあの人が担当でないとダメ」といった共依存になる危険があるからだ。
現場での数々の経験から学び、糧にしていく。これもまた古市さんの「すごい才能」なのかもしれない。
「依頼者から学ぶことが多い」
と古市さん。依頼を受けるなかには対応が難しい人もいるそうだ。いちばん多いのは「怒りコミュニケーション」の人。中高年の男性に多い。
まず「来るのが遅いじゃないか!」で始まる。
「いえいえ、時間どおりですよ」と古市さんは淡々と対応する。
「まず、見積もりですが」
「見積もりとかいいから、すぐやれ!」と怒鳴る。
掃除のため「換気するので窓を開けますね」と言うと、「寒いじゃねえか!」と怒る。「えっ? 暖かいでしょう?」と返すと「なんだその口のきき方は⁉」と迫ってくる。
しかし、作業が終わって「ありがとうございました。また来ますね」と頭を下げると、「いつも悪いね」とそれまで聞いたことのない温かい声を返してくれるのだ。
「お父さんに呼んでもらえないと、僕ら食っていけませんよ」
そう言い残してドアを閉める。心がぽっと温まる瞬間だ。萎縮する学生たちには「よく聞いててごらん。怒ってないから。通い続けると関係性は変わるよ」と説明する。
「僕らは依頼者から見たら、前掛けをした変な団体。介護職でもなければ、行政サービスでもない。税金払ってるんだから来い、とも言えない。利用したいという依頼者の意思があって、料金をいただく見返りがあって初めて出会える。できることはやる。できないことはできませんと言う。介護保険の枠組みとかではなく、僕らの力の限界。でも、そこをぎりぎりまで挑戦すると、わかってもらえます」
末期がんでも働ける御用聞きへ
前掛けをした変な団体なのに、役員はそうそうたるメンバーが顔をそろえる。ライブドアホールディングス前代表取締役社長で、小僧com株式会社代表取締役会長の平松庚三さん(72)が最高顧問。会長を務めるのが世界初の乗るだけで測れる体脂肪計を世に出した「タニタ食堂」の前代表取締役会長の谷田大輔さん(76)。2013年に御用聞きと出会い、出資を始めた。
「古市君に会うと非常に話もしっかりしていて、面白い事業だと思った。しかも、お客さんとのコミュニケーションがいちばん大事なんだと熱く語ってくれた。私も後期高齢者だから想像もできる。納得させられた」
谷田さんに御用聞きの情報を伝えた三男の昭吾さんはその後半年間、御用聞きの取締役を務めた。前掛けをし、現場にも出向いた。
「マイナスをゼロにすることだけに目がいくと、本当にいいものは生み出せない。みんなが笑顔になれる事業のほうが長く続くよ」
御用聞きの会長に就いたころに言われた谷田さんのアドバイスは、古市さんの胸に響いた。そこから、会社のコンセプトを谷田さんらとともに時間をかけて作り上げた。
「会話で世の中を豊かにする」
そして、未来のケースストーリーは「末期がんでも働ける」御用聞きだ。
過去に末期がんの身体で「働かせてくれ」とやって来た男性が忘れられない。和紙に筆で「働かせてくれ」と手紙をしたため、泣き叫ぶように訴えてきた。
「俺は働くことで人生をつくってきた。妻は俺の治療費が高くて困っているんだ」
63歳だったが、真っ白な髪で見た目は80代にしか見えなかった。しかたがないので、週に1度、商店街でジャズをかける仕事をしてもらった。喜んでやってくれた。
「生き抜きたかったんだと思う。応じられない自分に耐えられなかった」
男性の姿が、がんになり会社をたたんだ父や、がんで逝った祖父の姿と重なった。
3か月に1度、祖父の墓参りをする。墓がきれいになっているときがある。
墓前に手を合わせ、祖父に願う。
「じいちゃん、みんなが最後まで笑って過ごせる人生が送れるよう、俺、頑張るよ」
取材・文/島沢優子
しまざわ・ゆうこ◎ジャーナリスト、日本文藝家協会会員。日刊スポーツ新聞社勤務後、フリーに。テーマは福祉、教育、スポーツなど多岐にわたる。著書に『桜宮高校バスケット部体罰事件の真実』(朝日新聞出版)、『部活があぶない』(講談社現代新書)など