あれから8年。
あれから4年。
東日本大震災の復興半ばにある岩手県釜石市。2011年から8年、今年も3月11日がやってきた。
その釜石市が町をあげて歓喜に沸いたのは、'15年3月2日。ラグビーワールドカップ(W杯)の開催会場(全国で12会場)の発表で、釜石市の名前があがったからだ。復興の旗頭になったW杯。あれから4年がたち開催はもう目の前、今年9月に迫っている。
将来、きっとプラスになる
人口約3万3000人の釜石市。同市鵜住居地区にあった鵜住居小・釜石東中跡地に「釜石鵜住居復興スタジアム」が新設された。今月23日には三陸鉄道リアス線が全線開通し、休止中だった鵜住居駅も再び動き出す。
今、釜石市は加速度的に勢いづいている。
ラグビーワールドカップ釜石開催支援連絡会副代表の中田義仁さん(50)は、
「釜石でやる意義は、ほかの開催地とはちょっと違うと思うんですよ。昨年8月19日、スタジアムのオープニングイベントをやりましたが、6000人の超満員でした。この盛り上がりが、大きなひとつのきっかけになるんだと確信しましたね」
と手応えと喜びを実感。
「その後も『絆』という旗を作ったり、子どもたちがホタテの貝殻に色をつけて大きな絵を描いたり、ボランティアが市内でイベントを行ったりしています」
着々と準備が進む中、中田さんが期待を寄せるのは、子どもたちへの、有形無形のW杯効果だ。
「誘致の決定後、教育委員会が6人の中学生をイングランドに派遣しました。ラグビーをやっている生徒ではありません。子どもたちの目、中学生や高校生の目は未来を見ていて、そういった力が将来の釜石を後押ししてくれるんじゃないかと思う。W杯は、未来のためにきっとプラスになると信じています」
そう力強く語った。
3人に1人は高齢者という釜石市。今も仮設住宅で暮らす人もいる。
スタジアム近くの住民は、
「……大歓迎ではないね。町の整備だって終わってないし、復興や地域振興を優先してほしいという気持ちもある。スタジアムより先にスーパーを作ってほしかったけどね」
と複雑な心情を吐露しつつ、
「W杯が終わった後も、スタジアムに空きがないようにしてほしい。なによりW杯で町に人が戻ってくる、そのきっかけになったらいいな」
と希望をにじませる。
宮古市でスポーツ用品店を営む志賀鉄太郎さん(48)は、
「非常に楽しみです」
と満面を通り越し全身に笑みという喜びよう。釜石で行われる試合は家族4人で観戦する予定だ。だが、当初は違った思いだったという。
「大会後の維持管理・運営を考えると、被災地で打ち上げ花火をあげていいのかな、と。複雑な心境でした。でも決まったからには100パーセント応援しようと思いました」
釜石市はかつて“ラグビーの町”として、その名を日本全国にとどろかせた。1978年から日本選手権7連覇を達成した新日鐵釜石ラグビー部が、“北の鉄人”として日本ラグビー界に君臨していたからだ。同部は'01年にクラブチーム「釜石シーウェイブス」に生まれ変わり、今も町のシンボルになっている。
その「北の鉄人」のOBが、東日本大震災直後、まず動いた。元日本代表の松尾雄二氏、石山次郎氏らが都内で復興支援団体「スクラム釜石」を立ち上げたのだ。8年後('19年)に開催されることが決定していたW杯日本大会の試合会場に釜石を! 実質的にそういう名乗りだった。
目標が欲しかった
同じOBでも、現役引退後も地元で暮らしてきた氏家靖男さん(63)の受け止め方は、少し違ったという。
「多くの人が財産を失い、人もたくさん亡くなりました。あれだけの被害状況を見て、釜石市でW杯を開催するということを地元の人間たちは考えもしませんでした」
「スクラム釜石」に呼応するように、釜石市でも声があがった。その朗らかな声の主は、鵜住居で旅館「宝来館」を営む岩崎昭子さん(62)。
「'11年のゴールデンウイークのとき、県のラグビー推進室にいる佐々和憲さんが、“おかみさん、'19年にはラグビーW杯があるから、釜石にもいろんな人が訪ねて来てくれるよ”って私に言ってきたんです。そのとき“それだったら釜石でやってけれ”って言っちゃったんですよね。
あのころは、希望が、夢が、目標が欲しかった。それでポロッと言っただけだったんですよ」
その後も釜石市関係者の会合などでラグビーの話になると「希望が欲しい」と言い続けたという岩崎さん。
「W杯が実現するしないじゃなく、何か目標が欲しかったんです。家族を失ったり、どん底にいるみなさんに対し、明日のことを言っていいのかという思いは確かにありました。でも生きるためには明日があるよ、希望があるよ、と思えることが必要でした」
声は波紋を描き、少しずつ周囲に広がっていく。そして、「ラグビーはパスをつなげるスポーツ。私たちも希望というボールをパスし合ってきた。たどってきた過程はまさにラグビーでした」(前出・岩崎さん)
結果、釜石市は大きな希望を手に入れることになる。
発表は「宝来館」の大広間で待った。そこには「釜石シーウェイブス」のジュニアチームの子どもたちも集まっていたという。
「選ばれるという思いと、こんな小さくて不便なところでは無理なのではという思いが半々でした。でも選ばれて、さあこれからだ、っていう思いが強くなりました。
それに子どもたちがすごく喜んでいたんですよ。あんなに喜ぶ顔を見られてうれしかった。この子たちに夢を持たせることができたことが成果かなって思いますね」
と前出・岩崎さんは涙ぐみながら振り返った。
W杯は通過点
発表を聞いたラグビー少年、少女たちは“釜石のラグビーを強くする”と県外の強豪校に進学したり、“W杯で通訳をしたい”とインターナショナルスクールに進んだり。「自分は釜石のラグビーのために何ができるだろう」と考え、巣立っていったという。
前出の氏家さんも、子どもたちに何かをもたらす大会になることを期待する。
「大会が子どもたちのためになればと思っています。チームを応援するだけでなく、例えば海外から釜石に来た人を、子どもたちがグループで案内したり。そうすれば生きた英語にも触れられるいい機会にもなります。
そして子どもたちには試合も見てほしい。会場に入れなくても、大型のテレビなどでみんなと一緒に見る。そんなふうにできたらいいんじゃないかな」
釜石市では9月25日の「フィジー対ウルグアイ」、10月13日の「ナミビア対カナダ」の2試合が開催される。世界のナショナルチームが、真剣勝負に挑む大一番だ。
「正直、大会までワクワクして仕事になりません」
と笑う前出・志賀さんは、
「11月が来たら終わっちゃうロスも……」と気が早い。
前出の氏家さんは、
「もし今、現役選手だったら私も試合に出たかったですね」
と笑うが、ボールを持つとアスリートの顔に変わった。
前出・岩崎さんは、
「世界中の人に楽しんでもらえる空間づくりをしたい。日本の会場の中でいちばんここがよかった、と言われる大会にしたいですね」
だが、その後、先々のことにも思いを巡らせる。
「私たちが考えていることは、大会が終わった後のことです。W杯を目指すだけで終わるのではなく挑戦は続きます。この先、『ラグビーの町』として何をするか考えていかなければいけません。W杯は通過点だと思っています」(前出・岩崎さん)
ノーサイドの笛が鳴った直後から、新たな釜石の歴史がまた動き始める。その真ん中で主役を張るのは、ラグビーW杯で世界を肌で感じた釜石の子どもたちだ。