濱田龍郎(74)は「人たらし」である。頭にバンダナを巻き、身体になじんだ紺の作務衣をまとって顔中をくしゃくしゃにして笑う。誰にでも語りかけ人の目をまっすぐに見て、その話に耳を傾ける。そして最後に必ず言うのだ。
「大丈夫、心配せんでよか」
「わかった、気にせんでよかよ」
濱田の肩書は熊本で1999年に第1号認証されたNPO法人『ボランティア仲間 九州ラーメン党』の理事長。
家族もハマったボランティア
1989年、ラーメン店を経営していた濱田が熊本県益城町で設立した団体が母体。それ以来30年にわたって被災地を回り、配ったラーメンの数はなんと10万杯。雲仙普賢岳噴火災害、阪神・淡路大震災、東日本大震災、熊本地震など数々の被災地に、いつも濱田と家族を含む仲間たちが炊き出しをする姿があった。
ラーメン炊き出しという災害支援のほか障害者就労支援も行ってきた。現在は障害者が働く作業所のひとつとしてラーメン店を運営している。
2月21日、そのラーメン店に隣接した多目的スペースに、地域の友人知人たちが40名近く集まっていた。市井の社会活動家や団体に贈られる2018年度の『シチズン・オブ・ザ・イヤー』を個人として受賞した報告会が行われたのだ。
挨拶に立った濱田は、
「ボランティアは自己満足なのかもしれません。ただ、私は、“人は人のために生きてこそ人”を信条としてきた。人の笑顔を見ることが私の喜び。それだけなんです」
と言葉に力をこめた。続いて挨拶に引っ張り出されたのは妻の幸子さん(75)。
「愛してるって言ってあげて」と友人たちにからかわれ、マイクを握った幸子さんは、開口一番、「私は夫を愛していません」と爆笑を誘う。
「ラーメンの炊き出しボランティアに駆り出された初期のころは、夫の道楽に巻き込まれたと思っていました。でも結局、私たち家族も“はまって”しまったんです」
結婚して51年。3人の娘をともに育んだ幸子さんは濱田の最大の“理解者”である。
何人かのスピーチが終わると、地元出身の著名なミュージシャンである樋口了一さん(55)が、作業所で働く障害者たちと一緒にアカペラで歌を歌い、会場を盛り上げた。
その後は来客みんなにラーメンとおにぎりがふるまわれた。濱田はラーメンを運んだり、お菓子を配ったりしているのだが、いつの間にか座って来客と話し込んでいる。次のラーメンができるとまた立ち上がるが、どこにいるのか目で追うと、またも話し込んでいた。周りから大きな笑い声が上がるとき、いつもその真ん中に濱田がいる。
障害者たちが作ったクッキーやパンも販売され、みんな競うように購入する。誰もが笑顔で店を後にし、濱田も笑ってひとりひとりを見送った。
「こんなにたくさん来てくれるとは思わなかった。ありがたかった。楽しかった」
誰もいなくなったとき、濱田はぽつりとそう言った。
3月上旬になると、その姿は東北にある。東日本大震災が起こった2011年から毎年、ラーメンを持って赴いているのだ。
発災から2か月後、初めて東北に入ったときは、石巻でラーメンをふるまった。当時、仮設住宅の自治会長だった生出信明さん(63)は、その味が忘れられないと話す。
「濱田さんはボランティアに来たとは、ひと言も言わない。“みなさん、一緒にラーメンを食べませんか”と声をかける。“大変ですね”とか“がんばってください”とか、そんなことも言わない。ただ、笑顔を見たいという気持ちで来てくれているのがわかるんですよ。それがうれしい」
2016年の追悼式の後も、濱田は石巻の人々とラーメンを食べた。それから約1か月後、濱田の住む熊本県益城町を震源地に、28時間で2度も震度7に見舞われた熊本地震が発生した。心配した生出さんは、濱田さんの携帯を鳴らし続けた。
「こういう人に会ったことがない」
「笑顔で帰っていったばかりなのに、なかなか連絡がとれなくて心配でたまらなかった。本震の翌日、ようやく電話がつながったんですが、“こっちは大丈夫。これから炊き出しをするんですよ”と元気な声で言うので、びっくり。私にできることはないかと考え、すぐに募金活動を始めました。みんな濱田さんのことを知っているから反響が大きかった」
濱田は本震の翌日から自分の店の敷地内で炊き出しを始めた。震源地ゆえ行政はまったく機能しない。彼は紙に『民間ボランティアセンター』と書いて貼り出し、行政が受け入れきれない支援物資なども受け入れ、口コミとSNSで水や食料があることを広めてもらった。
「毎日、すごい数の人が来ていました。ここに来れば何かある。温かい食べ物もある。そう思ってもらいたかった」
備蓄していたラーメンは3日で途切れたが、近くの同業者がすぐに提供してくれた。その後は九州各地からどんどんラーメンが届く。さらに東北をはじめ、過去に被災地で出会った人たちが続々とやってきた。4月半ばから9月末までラーメンをはじめ、石巻や岐阜の焼きそばなど各地の食事が2万食ふるまわれたという。その間、濱田は自らの保険を解約して得たお金を活動につぎ込んでいた。
地元のイベントなどで交流を深めてきたミュージシャンの樋口了一さんは、そんな濱田に心を揺さぶられた。
「こういう人には会ったことがありません。純粋に献身的に生きている人はほかにもいるだろうけど、濱田さんにはサラリーマン時代から“物語”がある。そしてたどり着いたのが、人のために尽くすこと。とはいえ、聖人君子ではないんですよね。自己顕示欲がきっちりあって、自分語りが好きだし(笑)。下世話な話を面白がる俗っぽさもある。そこがいいんです」
熊本県山鹿市を拠点に活動する歌姫・山本けいさん(39)は、祖父のアルコール依存によるDVなどの家庭問題に苦しみながら大人になった。だが濱田は知り合って10年、1度も自分から私生活に踏み込んできたことがないと話す。
「話せば聞いてくれる。意見も言ってくれる。だけど決して自分から深入りはしない」
来る者拒まず去る者は追わず、なのだ。
「“自分大好き”だと思います(笑)。でも私みたいな若輩者がツッコミを入れても笑ってくれる。年は離れているけど、濱田さんとはお友達。子どもたちには、濱田さんみたいな人になると周りが苦労するからならないでほしいけど、濱田さんみたいな人を尊敬できる人間になりなさいと教育しています」
こんなふうに人に慕われている濱田は、どうやってボランティアにのめり込んでいったのだろうか。
「ボランティアという道楽にはまった」
濱田は幾度もそう言った。
1944年、種子島に5人きょうだいの長男として生まれた。満州鉄道に勤めていた父が現地で召集されたため、身重の母がひとり、実家に戻って生まれたのが濱田だ。
10歳のとき、自由研究でガリ版刷りの詩集を作ると、学校で褒められ、「詩人になる」と決意。東京にある大学の文学部へ進学することが決まっていた。だが、高校卒業直前に父が47歳で急逝。4人の弟妹もまだ幼く、末の妹はこれから小学校という年齢だった。父は最後に「末娘が20歳になるまで頼む」と濱田の手を握った。
妻の“男前発言”で退職願
「就職するしかなかったけど、もうみんな決まった後だった。でも残り物に福があったんですよ」
進学をあきらめてギリギリのところで森永乳業に就職、種子島工場で働き始めた。社内で憧れの君だったのが1歳年上の幸子さん。23歳のとき、長崎に転勤になることを伝えると、幸子さんは「よかね、長崎」と言った。それを機に思い切ってプロポーズ。
夫婦で赴いた長崎で、濱田は営業部に配属された。最初は慣れない都会生活に苦労したものの、1年もたつころには立派な営業マンとなっていた。26歳で副主任、28歳で主任となり、猛烈な仕事人間へと化していく。
長女に続き、双子の女の子にも恵まれ、大きな一軒家の社宅に住み、夜は接待で酒と麻雀に明け暮れた。典型的な高度成長期のサラリーマンである。その後、熊本に転勤。だが35歳になったとき濱田は、はたとわが身を顧みる。弟妹たちもみんな成人し、亡くなった父との約束も果たした。自分は詩人になるはずではなかったのか。
「幸子さんにその話をしたら、会社を辞めればいいとこともなげに言う。全財産を渡すから、子どもたちと一緒に種子島に帰ったほうがいいと言うと“今度は私が食べさせてあげる”って。そこで翌日には退職願を出していました」
退職金や持ち株などでかなりまとまったお金が入ってきた。もともと浪費はしないが、お金を使うヒマもないほど忙しい日々でもあった。
熊本は、自由律俳句で有名な種田山頭火が、一時期住んでいた町でもある。山頭火に憧れていた濱田が熊本に転勤になってから退職したのも納得がいく。
'79年、一家は熊本市内の川のほとりにあばら屋を借りた。かつて山頭火が住んでいたようなぼろ家を喜んだのは濱田だけ。幽霊が出そうで怖いと、10歳の長女、8歳の双子の娘たちは怯えていた。
「しばらく詩を書いて暮らそうと思っていたら、サラリーマン時代の知人が15人も訪ねてきたんです。どうするつもりなんだ、家族はどうなるんだと説教されました。そこを突かれると私も何も言えなくなる。彼らが全面的に協力すると言ってくれたので、商売を始めるしかなくなりました」
長年、食品メーカーに勤めていたから扱うのは食品と決めた。故郷・種子島はお茶の産地。そこで九州各地を巡ってお茶作りの名人とも出会い、お茶の販売を始めた。のちに食品卸売業として椎茸や海苔なども販売するようになる。
スーパー1軒をプレゼントされた「天国時代」
この商売が繁盛し、2年もすると市内に一軒家を購入、運転手つきの車に乗るようにもなった。
「贅沢しましたね。服もあつらえていました。子どもたちにはそれぞれ家庭教師をつけて、美容師さんに家に来てもらっていた」
幸子さんは「天国時代」をそう語る。ただ、濱田はそんな生活に違和感を覚えていた。
「これでいいのかなといつも思っていました。ただ、責任がありましたからね。協力者も従業員もいるのだから、気まぐれで辞めるわけにはいかなかった」
その後、とあるスーパーチェーンから声がかかり、濱田は悩んだ末に食品コンサルタントとして、その本部に勤務することになった。自分が立ち上げた会社があるので、自ら無報酬を申し出、1年間、その役目を果たした。
その尽力に対してプレゼントされたのは、スーパーマーケット1軒。それを機に、お茶の会社は親族にすべて譲り、濱田は幸子さんとともにスーパーを経営することに。
すぐに軌道に乗り、2年後には3店舗に拡大したのだが、気づいたらお茶の会社が莫大な負債を抱えていた。
「全部譲ったのだから私は関係ないんですが、債権者会議に出ていって“私がすべて返済します”と言ってしまったんです」
いろいろ整理しても数千万円の借金が残った。それを自らかぶり、スーパーも家も売ったが、借金完済にはほど遠い。1か月後、家を出ていかなければならなくなったとき、濱田は離婚届を出した。万が一にも妻に迷惑をかけたくなかったのだ。
「幸子さんは、あなたを見届けたいから一緒にいると言う。娘たちに至っては、“おもしろそうだからついていく”と。古すぎて売れなかったワンボックスカーに最小限の荷物を積んで乗り込みました」
次女の浩子さん(47)は、悲壮感はなかったと言う。
「私たち娘は全員、中学生でしたから、事情が飲み込めていなかった。ただ、それまで父も母もスーパーで働きづめで、ほとんど一緒にいなかったんです。夕食も子どもたちだけだったし、家族で遊びに行ったこともない。実際は夜逃げなんでしょうけど、珍しく家族でドライブできるという感覚でした」
濱田はひたすら車を走らせた。大分の友人のところへ行くと3食ごちそう三昧。旅立つときは、車に積めるだけの食料と満タンのガソリン、餞別に5万円渡され、ありがたさと情けなさに身が細る思いだった。
その後は娘たちの学校のことを気にしながらも鹿児島市に住む弟のところへ寄り、また車を走らせる。家を出てから1週間、ガソリンが切れて動かなくなったのが熊本県益城町だった。
44歳、人生の転機は突然に
高速道路の高架下に車を止め、車中での生活が始まった。娘たちは転校届を出し、さっそくアルバイトを決めてくる。妻も仕事を決めた。濱田は「女性は強い」と驚きながら、債権者たちへの謝罪行脚に精を出した。
そんな生活が1か月ほど続いたころ、100メートルくらい先にラーメン屋があるのを見つけた。濱田は昼の営業が終わる時間を見計らって「新聞を読ませてください」と店を訪ねた。毎日のように店に出入りするうち、お礼にどんぶりを洗うようになり、互いに身の上話をする関係へ。『福ちゃんラーメン』の店主夫婦は新たに焼き肉屋を始めるため、濱田にラーメン屋の経営を打診してきた。
「いつまでも車中泊というわけにもいかない。そこでラーメン作りの特訓を受けて店を引き継いだんです。敷金などは親族から借りました」
家を出てから4か月後のことだった。
41歳でラーメン屋の主となった濱田は、家族とともに店の2階に移り住み、ようやく人心地ついた。だがそこから夫婦はまた働きづめの生活を送るようになる。隣のスナックも経営し、裏にあった建設会社の寮の食事も請け負った。
「当時の記憶がないくらい」忙しい日々を送っているうち、濱田の気持ちはだんだん荒んでいった。
人生の転機は44歳のとき、突然訪れた。
「どうしてカッコつけて自分が返済すると言ってしまったんだろう」という後悔が深まっていく。そんなとき、出前で行ったのは、もうじき開所される障害者施設だった。
「向こうに立っていた少年が、何か叫びながら突進してきたんですよ。岡持ちを守ろうと思わずあとずさりをしたら、彼は私の前に立って手を出し、岡持ちを持った。話すことができず、左手も不自由な少年だったけど、施設長が“お手伝いがしたいんですよ”と。ああ、そうだったのかと私は自分を恥じました。誰でも人のために何かしたいものなんだ、と彼の後ろ姿が輝いて見えた」
出前に行くたび、迎えてくれる障害者の数が増え、彼らに会うのが楽しみになった。ところが開所すると食堂が完備され、出前注文がなくなった。濱田はいても立ってもいられなくなり、施設に「お手伝いしてもらったお礼がしたい」と申し出た。
「本当は彼らに会いたかっただけなんです」
施設長から、障害者はレストランにも入れないと実状を打ち明けられ、濱田は「うちでよかったら来てください」と思わず言った。20人しか入れない店に、障害者と職員50人あまりが集まった。
「立って食べている子もいてね、みんなが“おいしい”“おじちゃん、ありがとう”って。その顔を見たら、荒んでいた私の心があったかくなって、本当に満たされていくのを感じたんです」
ボランティアに目覚めた瞬間だった。自分が作ったラーメンが人を笑顔にする。その喜びが濱田を突き動かしていく。その後、その施設長の縁で、障害者施設や高齢者施設などから声がかかるようになった。施設の厨房は広いから、1度にたくさん作ることができる。濱田は日曜日の営業を休み、施設へ出かけるようになった。もちろん、家族も駆り出される。
ボランティアを始めた濱田には、心に決めたことがあった。
「ちょうだい、くださいは絶対に言わない」
見返りはいっさい求めない。材料はすべて持ち出し。それに賛同した地元の農家や同業者が次々と集まってきた。ひとりの力は小さくても、みんな集まれば何でもできる。そして'89年、20数名で『ボランティア仲間 九州ラーメン党』を立ち上げた。
借金返済とラーメン提供の間で…
濱田にはまだ借金が残っていた。周囲の仲間には、「ボランティアは自分ができることだけすればいい。無理せんでよか」と言いながら、自分には「最大限の無理」を課した。そうでなければ仕事と借金返済とボランティアを続けることはできない。
何とかしてラーメンを提供するためにお金をしぼりださなければいけない。自分が無理するしかないのだ。考えたあげく、「禁酒肴煙、禁髪帯靴」という奇妙な言葉を作り出し、机の前に貼った。
酒も肴も煙草もいらない、散髪もしない、服も靴も買わないということだ。自分にかかるお金を減らせばいい。計算すると年間1560杯のラーメンを提供できるとわかった。しかしほどなく、その倍の量のラーメンを無料奉仕するようになると、さすがにどうにもできない。
月にあと3万円は必要だった。
そこで熊本市内の繁華街に夜、出没して、自作の詩を売ろうと考えた。19歳で初詩集を出版。書家としての顔も持つ濱田は、自作の詩を筆で色紙にしたため路上で販売した。
バブル時代だった当時、市内随一の繁華街では路上販売が流行していた。濱田は「児島獏」と名乗り、靴屋のシャッターの前で1枚1000円、即興で書く場合は相手の意図を聞いて30分ほど時間をもらい、3000円で売った。
「近くの飲食店でアルバイトをしている若い女の子がよくお弁当を持ってきてくれてね。ほかの路上販売者と一緒に食べたりもしました。放浪詩人になったようで楽しかった」
夢を食べるバクさんは路上の人気者だった。
実は彼の父親は地元種子島で有名な『熊毛文学会』という同人誌に短歌や詩を発表していた。その会を幼い濱田はよく覗き見したという。
濱田が2歳のころ、復員してきた父は一杯飲み屋を経営。仕事のない人たちのために港湾労働者組合を作って組合長となり、人望も厚かった。冬の寒い日、訪ねてきた友人に自分の一張羅のコートをあげてしまった父の姿を濱田は強烈に覚えている。
いま思えば、人のために頑張り、自ら詩を書いて文学にいそしむのは、父がたどった道でもある。最近になって濱田はそう気づいたという。
今の濱田の1日は、午前3時半に起きるところから始まる。自宅は100年もたつ馬小屋を改装したもので、作業所の2階にある。1時間半ほど瞑想をしながら「詩の神様」が降りてくるのを待つ。イベントの構想を練るのも仕事だ。4月21日には多目的スペースで熊本地震から3年目の『復幸祭』が行われる。
NPO法人のラーメン店では、今は孫の志佐幹さん(22)が店長として腕をふるっている。
「おじいちゃんは絶対に怒らない人。中学のとき、けっこうやんちゃしてたんですが、怒られたことがない。何でも許してくれる。炊き出しには中学生のころから参加していましたが、やるとなったらすぐ行動に移すおじいちゃんはカッコよかったし、すごいと思っていました」
孫の作るラーメンに濱田は口を出さない。誰かに任せたらいっさい口を挟まずに信じて任せるのも彼のやり方だ。
身勝手だけど尊敬できる父親
厨房長の大野幸代さん(54)は、このNPO法人で働くようになって10年以上たつ。
「福祉作業所で障害者の子たちとパンやクッキーを作ったり販売したりしていましたが、熊本地震の前に夫を亡くして1度、退職したんです。地震で大規模半壊した家をようやく修復できたとき、代表(濱田)から“戻ってきてくれない?”と連絡がありました。
ここは私の職場であると同時に居場所。私は濱田家の家族ではないけど、家族同様の付き合いをしてもらっています。ただ、ボランティアに行く日程を勝手に決めるのはやめてほしい。きちんと予定を確認してくださいと口を酸っぱくして言っています(笑)」
娘の浩子さんはしみじみとこう言う。
「父親としては身勝手な人ですよ(笑)。私なんて5回も転校しているから幼なじみの友達もいない。家族には迷惑な話で、しなくていい苦労もしてきました。ただ、一緒に仕事をするようになってから、障害者への接し方などを見ていると尊敬するしかない」
濱田に振り回されながら結局、職員も家族もボランティアと聞けば飛び出していく。誰もが濱田によってボランティアをする喜びを知ってしまったからだ。
濱田は自作の詩の中で、こんな言葉を紡いでいる。
《いい人になろう 金も力もないけれど なろうと思えばいつでもなれる
いい人になろう 困っている人がいるからね 待っている人がいるからね 助けが欲しいと言ってるからね》
濱田は暇があると、福祉作業所で障害者たちと話をしている。通常、福祉作業所では仕事が1種類しかないことが多いが、彼は「障害者だって仕事への向き不向きがある」として、パンやクッキーを作るだけではなく、ラーメン店のホールスタッフ、空き缶処理、敷地内に作った珈琲屋、雑貨売り場などさまざまな職場を作っている。
作業所の1室に障害のある人たちが集まっていた。「濱田さんがハンサムだと思う人」と問うと、「それはない!」と、みんなが笑いながら声をそろえた。
「代表(濱田)は物忘れが激しい」「返事が遅い」とダメ出しを食らって、濱田はさらにうれしそうに爆笑している。
作業所の裏の駐車場の隅に小さく仕切られたスペースがある。
「ここに小さな教会を作ります。私、牧師なんですよ」
なんと濱田はプロテスタントの洗礼を受けていたのである。「驚いた?」と、うれしそうに笑う。
「誰にでも居場所は多いほうがいい。教会もそのひとつになるかなと思って」
次々と新しい顔が覗く濱田龍郎、やはり「人たらし」である。
撮影/宮井正樹
取材・文/亀山早苗
かめやまさなえ 1960年、東京生まれ。明治大学文学部卒業後、フリーライターとして活動。女の生き方をテーマに、恋愛、結婚、性の問題、貧困や格差社会など、幅広くノンフィクションを執筆。大のくまモンファンで、著書『くまモン力』(イースト・プレス)もある