コミカルな芝居から狂気を帯びた怪演まで。主役も張れば、脇も固める。日本のエンターテイメントに欠かせない俳優・佐野史郎(64)。平成ドラマ史に輝く金字塔、『ずっとあなたが好きだった』('92年・TBS)で、その存在が広く知られるように。マザコン夫“冬彦さん”は、その年の流行語大賞にも選ばれた。
冬彦を演じることに迷いはなかった
役者を志し、島根から上京。20歳のときに劇団創設に参加。その後、唐十郎主宰の『状況劇場』へ。
「舞台を10年やって限界を感じ、“もう2度と舞台には立たない”くらいの気持ちで去りました。表現の道や役者をやめるとか、そういうことじゃなかったんだけど」
音楽が好きで、劇団で作曲などもしていた。その後のバンド活動が縁となり、無声映画『夢みるように眠りたい』('86年)に主演。
「これをTBSの記録さんが見てくれたことがきっかけでお声がけいただき、『はいすくーる落書』('89)のスペシャルに出演しました。僕はもともと江戸川乱歩やゴジラといった幻想怪奇の作品が好きだったんですが、そこで出会ったディレクターさんたちが同好の士で意気投合し、TBSドラマに出演させていただくようになったんです」
転機となったのは『東京エレベーターガール』('92年)だった。不倫相手の中嶋朋子を冷徹に捨てる役。これがTBSのヒットメーカーで『ずっとあなたが好きだった』のプロデューサー・貴島誠一郎氏の目に留まる。冬彦役のオファーが来た。
「初対面の貴島さんは、“新妻が、マザコン夫が気持ち悪いからと初恋の男と再会し不倫する。どう考えても奥さんが悪いんだけど、これをどうにかマザコン夫のほうを悪く見せたい。それにはどうしたらいいですか?”と、いきなり相談されました(笑)」
監督、脚本家を交え3時間も話し合ったそう。
「冬彦を演じることに迷いは、全然なかった。俳優の仕事はあくまでも物語を生きること。与えられた役を僕なりに解釈するけれど、それをどう扱ってもらってもかまわない」
初回は13%で始まったが、視聴率はうなぎ上り。当時は週に2日はリハーサルをしてスタジオ収録に臨んでいた。
「台本の改定案を出したり。視聴者の集中力が切れそうなタイミングには高音の金属的な声を出してみよう、と話し合ったり。かなりフィジカルな作り方でした。賀来千香子さんや野際陽子さんとも“明日のシーン、こういうことなんじゃないかな”など、たくさん話しましたね。まだ携帯電話がないころですから、お互い、夜中に自宅の固定電話でね」
社会現象を巻き起こしながら、最終回では視聴率34・1%をマーク。続編『誰にも言えない』('93年)の制作が決まった。
「あれだけ冬彦のイメージがついちゃうと、賀来さんとの共演はもう一生ないだろうと思っていました。“年をとってから、また会えたらいいね”なんて話してたんですよ。でも、すべての撮影が終わったときに、“間にコメディーを挟んで、第2弾をやりましょう”と」
制約が増えるほどチャンスだ
こちらも大ヒット。強烈な印象を刻みつけた。放送から27年。いまだに冬彦の話をふられることに辟易としないのだろうか?
「あはははは(笑)。それもなくはないけど、師匠の唐十郎さんには“役者なんてのは、一生に1度、ハマリ役に出会えるかどうかだ”と、20代のときにさんざん言われてましたからね。そのありがたさは今でも感じています」
平成を振り返ると、
「機材の変化は大きい。機材が進化して便利になり、事前にリハーサルの時間を取ることがほとんどなくなりました」
と言うが、一方で表現に対しては、厳しい眼差しを向けられる時代になった。
「制約が増えれば増えるほどチャンスだとも思っています。言葉に制約があるなら、気配を大切にすればいい。“愛してる”と言ってるけど、前後の文脈から考えると“殺してやる”と思いながら言うセリフもある。こんな時代だからこそ、説明ではなく気配を感じ取る感性が大切になってくると思います」
佐野史郎 ◎さのしろう '55年生まれ。'75年劇団『シェイクスピア・シアター』の創設に参加。唐十郎主宰の『状況劇場』を経て、俳優、文筆家、ミュージシャンとして多方面で活躍中
*タイトルと本文に「賀来千賀子」とありましたが、正しくは「賀来千香子」でした。訂正して、お詫び申し上げます(2019年3月23日14時10分修正)。