Vol.6 高橋尚子
コンピューターの誤作動か。それとも地球滅亡か。世界中が期待と不安に沸くなかで見守った、2000年のカウントダウン。あの年明けから始まった1年間は「ミレニアムの年」と呼ばれ、平成とはまた趣の異なる「時代の幕開け」となった。
20世紀最後、2000年代初の五輪が豪・シドニーで開催。あの大会でのハイライトは、なんといっても女子マラソンだ。
日本人女子として陸上初の金メダルを獲得し、女子スポーツ界で初の国民栄誉賞に輝いた、高橋尚子さん。列島を興奮させたQちゃんは今、スポーツキャスター・解説者として東奔西走の日々を送る。
陸上競技との出会い
「刑事ドラマみたいな鉄砲を『パーン』って、同じ年齢ぐらいの子が撃ったんです。『わっ、カッコいい!』。その瞬間、陸上部に入ろうって決めました」
故郷・岐阜市内の中学に進み、バスケ部と陸上部のどちらに入部するか迷っていた高橋さん。陸上部の下見に行った校庭で出会ったのが、先輩部員が天に向けて撃ったスターターピストルだった。
「小学校のころから走るのが大好きでした。ここで陸上競技を始めることになってから、中距離に取り組むことになったんです」
中学の部活動では、みんなで楽しく走ることに重点が置かれていたが、記録はぐんぐん伸び、岐阜商業高校はスポーツ推薦で進むことに。大学進学では、体育大からの推薦を断り、商業経済を学びつつ、教員免許が取得できる学校を探した。
結果的に、教員の採用実績が多く、陸上競技部の盛んな大阪学院大学に推薦で進むこととなる。
「これで夢をあきらめずに、陸上のステージも先に進むことができる!」
大学の部活では午前6時半の起床から、カロリー計算と練習日誌の記入作業が終わる午前2時まで、多忙な日々を送った。
「ワープロで日誌をつけて、やっと寝るんです。でも、ハードだという実感はなかったなあ」
そんな生活を続けていた彼女の転機は1994年。大学4年生の夏に訪れた。
その程度ならやめてしまえ!
「教育実習を経て、初めて『先生』という仕事を現実のこととして見つめたんです。陸上と天秤にかけたとき、可能性があるなら、『陸上を続けたい』と初めて思いました」
そこで、教育実習先でもあった高校の恩師に連絡をした。
「教育実習の際は、ありがとうございました。でも私、もう少し陸上を続けたいんです」
すると恩師は、カツを入れた。
「陸上をただ続けたい、3年、ちょっと試してみたい……? その程度ならやめてしまえ! 世界で1番という高い志を持つなら、やる意味はある。今、いちばん強いのは小出監督のチームだ。そこで日の丸を目指すのなら、オレは応援する」
小出義雄監督。リクルートで陸上チームを束ね、当時、有森裕子など数々の選手を育てていた。「そんなところで私が活躍できるはずはない」と思いながらも、思いはどんどん膨らんだ。
そして高橋さんは、8社もの実業団からのオファーをすべて断り、背水の陣で小出監督のもとへ直談判しにいくが、会社の方針で大卒の陸上競技者をとらないと伝えられ、あえなく玉砕してしまう。
あきらめることができなかった彼女は「自費でいいので、お願いします!」と頼み込み、約10日間の北海道合宿に参加することとなった。
「自分でも『よくやれたな』と思うぐらい、必死になって練習にくらいついたんです」
合宿最後の日。小出監督からを呼び出され。
「ウチは会社の方針で、社員ではとれないから、給料は安くなるけど契約社員でも来るかい?」
突然のオファーを二つ返事で受けた。高校も大学も推薦で進学していたため、初めて自分で自分の扉を開けることになる。
1995年、リクルートに入社。念願の指導を受けられると思ったが、小出監督は総監督として、マラソンだけを見ることに。ひとまず、これまでどおりの中・長距離の走者として研鑽(けんさん)を積んだ彼女は、入社1年目から駅伝メンバー入りを果たし、結果を着々と残していった。
小出監督の魅力とは
でも、どうしても小出監督に導いてほしい。意を決して同年秋に、マラソンランナーへ転向を果たすことになる。1997年1月、大阪国際女子マラソンに出場。初めてのフルマラソンにもかかわらず、7位に入賞し「有森2世の到来」と話題を呼んだ。
同年の春、小出監督が積水化学工業に移籍。同じタイミングで、チームメンバーとともに高橋さんも退社を決めた。
翌年3月には2度目のフルマラソン、名古屋国際女子マラソンで日本最高の2時間25分48秒で優勝。同年12月のアジア大会では自らの日本記録を4分1秒も短縮する2時間21分47秒で優勝。彼女は「これで道はつながったかな、と感じました」と振り返る。
それにしても、小出監督の魅力とは一体なんなのか。
それはリクルート在籍中のこと。高橋さんが監督に練習終了の報告をする際、ある選手が走ってきて、抗議したという。
「小出監督は不公平です! 選手によって、見てくれる人とくれない人がいるじゃないですか!」
緊張が走るなか、監督はこう言った。
「お前な、いつまで学生気分でいるんだ。社会人は、上司に自分をどうアピールするかを考え、認めてもらうか試行錯誤するもんだ。全員平等に見てもらえると思ったら大間違いだ」
「響く選手」にならなければ、「鐘」を打ちたくない。だから「響く選手」になれ。単なる監督と選手ではない。人間同士として関係を築く重要性を学んだ瞬間だった。
2000年、3月の名古屋国際女子マラソンを2時間22分19秒で優勝し、高橋さんはシドニー五輪の代表に。われわれの記憶に残るのは、なんといっても、日本人女性陸上初の金メダルに輝いた、あの瞬間だ。瞬間最高視聴率は実に60%近くにも達した。
日本中を感動させた“ボトルのリレー”
「レースが動いた瞬間が2回あったんです。1回目は中盤の17キロ地点。先頭集団を抜け出し、集団がばらけたときです」
給水ポイントで、水をとり損なった高橋さんを見ていた日本代表の山口衛里選手が駆け寄り、自分のボトルを渡してくれたのだ。いたく感動した。
「みんながライバルなのに。そのとき、あ、もう1人、日の丸の選手がいるじゃないかって」
前方で走っていた市橋有里選手も、やはり水をとり損ねていた。高橋さんは「彼女にもこのうれしさを伝えないと」と思い、ペースを上げ、山口選手から受け取ったボトルを市橋選手に手渡したのだった。その“ボトルのリレー”は日本中を感動させた。
2回目の転機は、レース後半34キロ地点だ。ルーマニアのリディア・シモン選手とのデッドヒート。
「2人で澄んだ空気を切り裂いていくような感じでした」
沿道で応援が沸き、盛り上がりが波のように広がっていく。
「このまま一緒に走り続けたいなって。シモンさんも楽しそうだったんです」
終盤、1キロの上り坂を過ぎ、競技場に入っていくトンネルへ。音が一瞬、何も聞こえなくなった。そこから、約8万人が見守る、光の差す会場へ。
残すは、たった42キロ
響きわたる大歓声を振り返り。
「走りながらも鳥肌が立つぐらいうれしかったですね。ああ、こんなに応援してくれているんだ」
ふと、喜びに浸りながら電光掲示板を見てみると、真後ろを走るシモン選手の姿が。「これは、声援じゃなくて悲鳴なのか」と、われに返り、ラスト200メートルを逃げるように走った。
「身体が動かなくなり、最後はロボットみたいに走りました」
そして、ついにゴール。
この瞬間、はてしない安堵感(あんどかん)と同時に高橋さんをとらえたのは、「このまま終わってしまうのか」という寂寥感(せきりょうかん)だった。スタート地点で考えていた言葉が脳裏によぎった。
「残すは、たった42キロ」
これまでさんざん練習で走り続けてきた。
「オリンピックのマラソンは、タンポポの綿毛のようにフワフワと42キロの旅に出る。そんな気持ちで走ろう。10か月かけて、監督、スタッフのみんなが支えてくれ、明日も頑張ろうって雰囲気で来られた。それが終わってしまうのか……」
当時を振り返りながら話す高橋さんは、小出監督との思い出深いエピソードを話してくれた。
「レース終了後、私が宿泊している部屋のドアのすきまから、小出監督が手紙をこっそり渡してくれたんです。手紙には“練習で1度たりとも手を抜くことなく、一生懸命やっている姿を見てきた。本当にお前は強くなったな”と書いてあって、忘れられないひと言になりました」
次世代へのバトン
帰国後、国民栄誉賞を受賞。
「監督、栄養士さん、支えてくださった人、全員にいただいた賞です」
そんな謙虚で丁寧な視線が生かされているのが、キャスター・解説者の仕事だ。
「彼らが背負ってきたもの、思いを代弁したいんです。『速い、強い』という一片だけでなく、その人を立体的に感じてほしい」
解説も、そこを吹く風や彼らの息遣い、みなぎる緊張感までも共有してもらえるように心がけているという。
もうすぐ「平成」が終わる。
「私の青春は平成とともにありました。シドニー五輪をはじめ自分が飛躍でき、いろいろ学べた時代でした」
2020年には、そんな五輪が東京で開かれる。高橋さんは最後に力を込め、こう話してくれた。
「『2020年東京オリンピック』は子どもたちに見てほしい! “もしかしたらあの舞台に立てるかも”って、夢を現実に置き換えられる場が五輪。その瞬間を、たくさんの子どもたちに共有してほしいです」
手の届かないドラマや映画なんかじゃない。実際に、その目で、その身体で、五輪を体感してほしい。
平成を駆け抜けた彼女が抱く、次世代への思い。その熱さがひしひしと伝わってきた。
●たかはし・なおこ●'72年5月6日生まれ。岐阜県出身。女子マラソンで'98年バンコク・アジア大会金メダル。'00年シドニー五輪は日本の女子陸上選手として史上初の金メダルを獲得し、国民栄誉賞を受賞。'01年ベルリンでは女子で史上初めて2時間20分の壁を破る2時間19分46秒の世界最高記録(当時)を樹立。'08年に現役引退を表明。現在はスポーツキャスターとして活躍し、2020組織委員会アスリート委員会委員長、日本オリンピック委員会理事、日本陸連理事などを務めている。