「おはようございます! 今日もよろしくねー!」
シーズン終了を間近に控えた、平日のスキー場。いつもは閑散とした休憩場に、元気な声が響く。ママさんスノーボードサークルの代表を務める、プロスノーボーダーの田中幸(たなか・さち)さんが、参加者たちを笑顔で出迎えた。
女性スノーボーダーを対象とした『ハッピーサークル』は、長野県佐久市にある『佐久スキーガーデンパラダ』を活動の場とし、毎週水曜日の午前中に練習を行っている。佐久市在住の田中さんが、今年1月に立ち上げた新しいサークルだ。
スキー場の営業期間も終わりに近づき、サークル活動もこの日が最終日となるが、「今日初めての参加」という女性もいれば、「7度目の参加」という、東京・中野区から車で約2時間かけてやってきた女性も。
初参加の少し緊張ぎみの女性に、田中さんが「お子さんは何歳? うちは3歳だよー」と明るく声をかける。滋賀県育ちで、関西弁まじりの口調が気さくな印象だ。参加者たちは30~40代が中心。年齢も住むところもバラバラだが、スノーボードや育児など共通の話題ですぐに打ち解ける。
毎回ゲレンデに出る前に、簡単な自己紹介の時間を設けている。
「今日5回目の参加です。1歳の子どもがいます」
「7か月の子どもがいます。今日はスキー場の託児所に預けてきましたが、ギャン泣きされて動揺しています!」
この日の参加者は14人。
「では行きましょ~う!」
田中さんを先頭にして、春の陽気漂う快晴のゲレンデにママさんたちが飛び出していった。
参加者たちは「スノーボード女子にとって、田中さんはあこがれの存在」と口をそろえるが、意外にも田中さんがスノーボードを始めたのは20歳から。もともとはボート(漕艇)の実業団選手で、優勝経験もあるというから驚きだ。
根っから体育会系の田中さん、スノーボードはボート競技や仕事の合間の趣味で始めたにすぎなかった。しかし、その魅力にどんどんハマっていった。
「国体が夏に終わると、もうスノボのことしか頭になかったです」と笑う。
雪のない時期は室内練習場に通いつめ、自主的に大会にも出場。練習に熱が入りすぎ、骨折もしょっちゅう。団体競技のボートでは得られない、自分自身との戦いに夢中になった。ボートへの情熱が徐々に薄れていく自分にウソをつくことはできず、思い切って退社を決意した。
スノーボードに本格的にフィールドを移してからは、本人のストイックな内面とは裏腹に、そのかわいらしい容姿でたちまち女子スノーボード界のアイドル的存在に。'06年にニッポンオープン優勝を果たし、乗りに乗っていた'08年、練習中に脊髄(せきずい)損傷の大ケガを負う。選手としてだけでなく、もとの日常生活に戻れるかどうかも危ういなか、懸命なリハビリを経て、復帰を果たしたという壮絶な過去もある。
社会とのつながりが断たれたような感覚
挑戦と挫折を繰り返し、アスリートとして成長してきた。常にポジティブな田中さんをして「すごくつらかった」と言わしめたのが、妊娠・出産の経験だった。
「同じスノーボーダーとして活動する夫との結婚を機に、'15年、34歳のときに滋賀県から佐久市に引っ越してきました。知らない土地で暮らし始める不安のなか、妊娠。スノーボードも休まざるをえなくなり、いきなり社会とのつながりが断たれたような気がしたんです」
女性アスリートは、妊娠・出産を機に、これまでのキャリアがストップしてしまうことが多い。支えてくれるスポンサーへの申し訳なさ、次々と出てくる若手選手に対するあせり。家でじっとしているしかない自分がもどかしかった。
「世の中のママたち、きっとみんな、私と同じような思いをしているはずだと思いました。母親となる私にできることは何か、これを機にじっくりと考えてみようと思ったんです」
一念発起し、少人数保育の専門職である「チャイルドマインダー」の勉強を妊娠中に始め、資格を取得。「スノーボードをやりたい、でもできないママさんたちがいるはず」と、「育児とスノーボードの両立」をテーマに、徐々に自分がやりたいことが見えてきた。
「自分があせっていたように、社会で孤立感を抱えているママは多いと感じます。日本では、ママが息抜きできる場がとても少ないですよね。スノーボードが好きなのに、育児をきっかけにできなくなってしまった人、興味があるけどためらっている人たちに、そんな場を提供して、思いを共有したかったのです」
さまざまな準備を重ねて今年の1月に発足した『ハッピーサークル』は、入会金はもちろん、キャンセル料もない。全11回の活動日のうち好きなときに参加できる、都度払い制だ。当日になり「子どもが熱を出した」「急に都合が悪くなった」としても、キャンセル料がないからママにとってはありがたい。
午前10時から滑り始め、12時にランチタイム。スキー場内の託児所に預けていた子どもたちとわきあいあいと食事を楽しむ。その後は帰宅してもよいし、「まだ滑りたい」と思えば午後も滑ることができる。とても自由度の高いサークルだ。
「ママが参加しやすい時間や価格設定であること、個人のタイミングに寄り添うサークルであることを特に重視しました」という田中さん。当初は佐久近辺のママたちの参加を想定していたが、ふたを開けてみれば東京、埼玉、群馬、新潟など遠方からの参加者も。
今回で5回目の参加という佐藤芽衣さんも、新潟県上越市から約2時間かけて高速道路でやってきた。新潟といえば長野に負けないスキー王国だが「地元にはこんなママさんサークルはないんです」という。
「一緒に滑るママ友ができたらと思って、参加しました。1歳半の子どもを初めてスキー場の託児所に預けたときは泣いてしまって心配しましたが、今では子どももすっかり慣れて、親子でお互いに楽しめているなと感じます」
「子どもに怒ることが少なくなった」喜びの声
県内の信濃町に住む寺島理恵さんは初参加。もともとスノーボードが大好きだったが、「今日は約10年ぶりのゲレンデです!」とのこと。
「長女はもう9歳で、夫とスキーに出かけられるようになりました。でもわたしはいつも3歳の次女と留守番。今日は思い切って次女を託児所に預け、長女は外で夫と滑っています」
ほかにも、「長野県に引っ越してきたばかりで、ママ友がほしかった」という方や、「インスタグラムでサークルのことを知り、ふたりの子どもを夫に預けて埼玉県川越市から高速道路で来た」という初参加の方も。
田中さんは「活動の場も吟味した」と言う。
「ここは人工雪のスキー場で、真冬でも雪が積もることが少ない場所。しかもインターチェンジ直結で、子どもを連れたママでも安心して車で来られます。スキー場内の託児所も、生後半年から預かってくれるところはなかなかありません。この場所だからこそ、できたサークルです」
いちばんうれしかったのは、参加者からの「サークルに参加するようになって、子どもを怒ることが少なくなった」「夫に優しくできるようになった」という言葉だという。
「母親って本当に大変な仕事。大切な子どもの命と、朝から晩まで向き合っています。毎日がんばっているママが、週1回でも、思い切り自分の趣味を楽しんで息抜きできる場があるだけで、日々の生活は随分と変わると思います。ママが幸せなら、家族は幸せ。私自身も、このサークルで育児の悩みをみなさんと共有でき、心が軽くなったと感じています」
サークル発足当初は、なんと「参加人数1人だった日もありました!」というのが信じられないほど、最終日のこの日は大盛況。全11回の活動が無事に終了し、田中さんは「来シーズンもぜひやりたいです!」と意欲を見せた。