ノンフィクション作家 吉永みち子さん

 3月初旬の金曜の朝、8時スタートの『羽鳥慎一モーニングショー』(テレビ朝日系)の生放送1時間前、出演者とスタッフによる打ち合わせが行われていた。台本をもとにその日の流れが確認される。本番前のピリピリしたやりとりの中、素朴な質問を差し込み、場の空気を和らげるのは、番組でコメンテーターを務めるノンフィクション作家・吉永みち子さん(69)。

 同番組のコメンテーターをするようになって27年目となる。他局も含め同じ出演者がこれほど長く務めている例はなく、女性レギュラーコメンテーターの中で最年長だ。

 競馬専門紙初の女性記者、専業主婦、作家という経歴と多くの経験から発せられる言葉には、神髄をつく鋭さと人の気持ちを酌み取る温かみがある。

常に弱い人の立場にたったコメント

 7時25分、メイクルームへ向かい、本番5分前に台本と筆記用具、座布団を抱えてスタジオ入りした。

「座布団は絶対必需品! 2時間全力で聞いていると、前傾で足を踏ん張っちゃうの。腰が痛くなるからね(笑)」

 この日のテーマはコンビニオーナーの訴えに端を発したコンビニの24時間営業問題。メモをとりながら話を聞いていた吉永さんが意見を求められて口を開く。

「そこのオーナーも力尽きたわけですよ。24時間開けとけば自分が店に立つか、人を雇わなくてはいけないし、光熱費もかかる。これはすべてオーナー負担なわけですから。コンビニの本部はなんの損もなく、売れた分だけロイヤリティーが入るという。この不公平感に私たちが初めて気づいたのね

 さらに吉永さんは宅配便や公共料金の受け付けなどコンビニの役割が拡大して、現場が疲弊している実情を指摘。利用者側の私たちにも関係する問題であることを示唆する。

「災害時の食料の補給や24時間いつも明かりがついていることで社会的なインフラの役割まで求められているけど、それをオーナーだけに押しつけるのはおかしな話でしょ」

 番組のチーフプロデューサー・小寺敦さん(50)が、吉永さんについて語る。

あのくらいの年齢になると、不遜だったり偉ぶったりということもあるんですが、吉永さんは一切それがない。常に弱い人や市民の立場に立っていて、そうした目線がきちんと定まっているんですよ。

 ニュースの大前提となることがわかっていないから、そこが解明されることが大事だとか、物事の本質を見抜くところがすごいんです」

 真剣さゆえに生放送中のハプニングもしばしば。司会の羽鳥慎一から意見を聞かれたにもかかわらず、吉永さんはじいっと黙ったままで、“あれ、吉永さん、起きてました!?”とスタジオをひやっとさせたこともある。

「“え、私!? いや、起きてはいるけど、ちょっとこの部分を考えていてね”と(笑)。予定調和ではないですから、真剣勝負の中でふと出てくる人間らしさなんでしょうね。チャーミングな方ですよ!

 番組が終わって歩いているだけで、あちこちから声をかけられて、相談を受けたりしています。人としての魅力があるからだと思いますよ」

 生放送後、吉永さんはこうつぶやいた。

「コンビニ問題は、家の近くでコンビニを昨秋オープンしたオヤジさんの顔がどんどん暗くなって、店もオヤジさんもヤバいんじゃないかと心配になっていろいろと愚痴を聞いているのと、自分のコラムでもこの問題を取り上げたので裁判記録など調べて詳しくなっていたの」

 吉永さんは自分の中で消化しきれていないことに関して、背伸びして発言することだけはしないと決めているという。

「私には何ひとつ専門性はないんですよ。だから生活者の目線で問題に穴をあける立場に徹することにしたんです」

放送終了後、3月に誕生日を迎えて69歳になった吉永さんに番組スタッフ一同からサプライズで花束が贈られた

ふと“死”がよぎった経験

 ジャーナリストで日本BS放送取締役の二木啓孝さん(69)は、吉永さんのことを「人間好き」「偉大なる普通の人」と表現する。

「人と会って話を聞いたり、観察することが好きで、気の合わない人や全然、立場が違う人とでも結局仲よくなっちゃう。

 故・宮澤喜一首相が、もし民間から女性の大臣を選ぶなら吉永みち子だと言ったことがある。彼女はそれなりの知識があったんだけど、政府の税制調査会で学者や政府の財政に詳しい連中に交じって、普通の主婦の立場から、これおかしいでしょ? というようなことを平気で言ってたから(笑)

 コメンテーターを長くやっているのも結局、普通の人はこう考えるんじゃない? という視点がブレないからじゃないかな」

 しかし、そんな吉永さんも殺人や自殺、虐待、いじめなど個の事情が絡む案件については、そこに至るまでの人間の心情を推し量ることが難しく、コメントしづらいという。

「例えば過労自殺について。生きていること以上のものはないんだから、死ぬ気になれば何でもできるのに、なんで会社を辞めなかったのかと言ってしまいがちなんだけど……」

 吉永さん自身、過労の末にふと死がよぎった経験がある。経営していた飲食店の切り盛りを睡眠時間を削ってやっていたときのことだ。

「ある日、トイレで立ち上がれなくなっちゃって、なんか嫌だなと思ったら、そうか死んじゃえば楽になるんだと一瞬、思ったの。弱ってくるとそういうことが冷静に考えられなくなっちゃうのね」

 ノンフィクション作家の自分がかつて番組で取り上げた過労死問題を思い出し、自らもその立場に置かれていた現実に、ハッとした。

「なんだ、なんだ、こんなことを考えるのか! と思ったら、“死のうと思うくらいなら辞めたらよかったのに”という発言が、いかに表層的でその人の身になっていなかったかということを知ったのね。

 物事を見るときは、ひとつの方向だけでなく、多面的に見ていかないといけないなって。それはコメントするうえだけでなく、生きていくうえですごく大事なことだと思っています

 気っ風のいい語り口に、こまやかな気遣いをあわせ持ち、どんな人にも同じ心で話す人、吉永さんをつくり上げてきたものをたどる。

 昭和25(1950)年3月12日、埼玉県で生まれる。出生時に父はすでに60歳と高齢で、母も40歳であった。

「父は結核で家の中で隔離されていて、会ってはダメだと言われていました。母はいつも不機嫌にしていて会話はほとんどなかったですね」

 幼いながら家族とはそんなものかと思っていた。ところが小学生になり、遊びに行った友人宅で家族の団欒を目にする。

「夕方になるとお父さんが帰ってきて、ちゃぶ台を出して“みっちゃんもご飯食べていったら?”なんて誘われるんだけど、電話もないし、怒られるから帰るって言いながらグズグズしていると、みんながしゃべりながら食べ始めるんですよ。それが楽しそうで」

父からは生前「死後の手続き」を教わり、任されていたという

人生を変えた競馬との出会い

 9歳のときに亡くなった父からは、生前「お母さんのことを頼む」と繰り返し言われていた。吉永さんは幼いながら父に代わる存在にならなければと自覚したという。

 父亡き後、母娘は下宿屋の営みで暮らし、吉永さんも中学生からアルバイトをして家計を助けた。母子家庭を見下されないようにと、母からはトップの成績を取るように命じられていた。通訳をして生きていこうと、'72年、東京外語大学インドネシア語学科に進む。

 ところが当時は学園紛争真っ盛りの時代。吉永さんも学生運動に関わってみたものの熱くなれない。それどころか闘争やストライキで授業が受けられず、3年になっても語学が何も身についていないことに絶望した。

「見事に挫折です。外語大に入った意味もなくなってしまい、この先どうしようかと落ち込みました」

 そんなとき同級生について行った中山競馬場で、その後の人生を変える競馬と出会う。

「競馬場はレースの数だけファンファーレが鳴ります。馬券をはずしてガッカリしているオジさんたちも、次のファンファーレが鳴ると一瞬、元気になるのね(笑)。“人生、1レースじゃない!”と思えて気持ちが楽になりました

 翌日も競馬場へ行き、今度はじっくりパドックを眺めるなどした。馬への関心はどんどん高まり、大学の後半は競馬漬けの日々を送るほどハマっていった。

 卒業後、馬のそばで仕事がしたいと必死にツテを探し出し、競馬新聞『勝馬』の記者となる。今でこそ競馬場は競馬を楽しむ馬女が闊歩するようになったが、当時はまだ男社会の権化のような場所だった。

「特別レースの有力馬を3頭ずつ取材してこいと言われて行くんですが、取材した馬が負けると、女に来られたから負けたとか、縁起が悪いとか言われちゃう。

 そう言われてケンカしてもしかたないから、大変だけど全部の出走馬に会いに行くことにしました。そうすれば必ず私が行った先から勝つ馬が生まれるからね

 次第に風向きが変わり、担当コーナーや予想記事を任されるようになった。2年勤めた後、夕刊紙『日刊ゲンダイ』に転職する。当紙の編集部長の経験もある前出の二木啓孝さんが言う。

「創刊号の立ち上げに呼ばれて行ったら、とんでもない職場だったみたい。夕刊紙だから競馬の誌面が重要なんだけど、6ページくらいを毎日取材して書かなければいけなくて、相当ハードだったと思う。

 でも今の彼女を見ていると、男と対等に生きようとか気を張っているんじゃなくて、男女関係なく自然体でやっているよね。日刊ゲンダイで人が少ない中、一生懸命やらないといけない環境でかなり揉まれたんじゃないかな」

一気に3児の母、夢のちゃぶ台囲みへ

 担当する連載の取材で、のちに夫となる9歳年上の騎手・吉永正人さんと出会う。カメラにフィルムを入れ忘れてあわてる吉永さんに、正人さんは何種類ものフィルムを買ってきてくれたという。

 正人さんは当時、個性派騎手として人気を博しながら「無冠の帝王」と呼ばれ、ビッグレースの勝利とは無縁だった。また夫人に先立たれ、1男2女の幼い子どもたちを3か所に預けて暮らすという寂しい境遇に見舞われていた。2人はほどなくして惹かれ合うようになる。

 当然、両者の結婚には周囲の大反対があった。母は「娘をたぶらかしたあの男を、私は鉈で頭をたたき割ってやりたいほど憎い」と言い、正人さんはその母をひとりで訪ね、黙ってその前に、競馬で使う鞭を差しだしたという。

結婚式

 吉永さんはすべてを引き受ける覚悟を決める。

「大変、大変とみんなが言うけれど、楽しいかもなぁって。バラバラに暮らしてた夫の子どもたちも気になっていたし、ずっと夢だったちゃぶ台を囲むというのがいきなりできちゃうじゃない! と」

 '77年、正人さんと結婚した吉永さんは仕事を辞め、一家は府中の社宅で暮らし始めた。長女の吉永悦子さん(49)は、大好きだった“お姉ちゃん”が来てくれ、再び家族そろって暮らせるようになったことがとてもうれしかったと話す。

「最初のころ、母はお手伝いが上手にできたねとか、帰ってきて遊ばないで勉強できたねと言っては、壁に貼った紙に〇を書いてくれました。狭い社宅だったので、お隣のお母さんの怒る声も聞こえてくるんですが、自分が同じことをしたら、“いじめ”みたいに思われかねないと、なるべく怒らずに私たちをしつけようと考えてくれてたんだと思います。

 小学校の参観日に母が来ると、みんながハァって見るんです。きれいなお母さん!って。それがとても自慢でした」

 やがて一家は茨城県にできた日本中央競馬会の調教拠点の美浦トレーニングセンター(以下、トレセン)に引っ越した。実子の次男も生まれ、吉永さんの実母も近くに移り住む。幼いころから気難しく気性の荒い母親の顔色ばかりを窺ってきたが、今度は母親と自分の家族との間で神経をすり減らした。吉永さんは当時をこう振り返る。

「母は“純正の孫だけと暮らしたい、あんたたちさえいなかったら、私はもっと幸せだったのに”と平気で娘たちに言う始末で。だから赤ん坊を母に預けて、私は上の3人の側についてバランスを保つしかありませんでした。子どもたちもよくそこのところについてきてくれたと思います」

結婚後、夫の3人の連れ子と実子、母親とともにひとつ屋根の下、7人家族を築いた

 正人さんが出るレースになると、そのときばかりは実母もテレビの前に陣取り、家族全員で声援を送った。'82年、正人さんが天皇賞を制したときのことを悦子さんが思い返す。

「レースの最中にいちばん下の弟がオムツに大きいほうをしたんですが、“ウンが落ちるから”と取り換えないままで(笑)、後ろから馬が来ないようにひとりがテレビ画面を押さえたりして、“イケーー!!”と、みんなで叫んでました。母がいちばん大きな声を張り上げていましたよ」

執筆活動、再び

 週に1度はトレセンの仲間が30人ほど吉永家に集まり食事会をしたという。

「大人も子どもも和気あいあいと。父は黙って飲みながらみんなの話を聞いて、母と母の友達たちが盛り上げていましたね。おばあちゃんはその会も面白く思っていなくて、ご飯を食べたら弟を隣の部屋に連れていってましたが(笑)。ほかの家とは違う苦労もありましたが楽しい思い出がたくさん残っています」

 日本中央競馬会の機関誌『優駿』のコンテストで初エッセイが最優秀賞を獲ったことをきっかけに吉永さんは再び執筆活動を始めた。'85年、自らの競馬との出会いと正人さんが主戦騎手を務めたミスターシービーが中央競馬史上3頭目の三冠馬となるまでを描いた自伝『気がつけば騎手の女房』(草思社)が大宅壮一ノンフィクション賞を受賞する。

大宅壮一ノンフィクション賞の受賞パーティーには家族一同が駆けつけた

 テレビ番組のディレクターで当時、担当していた番組『こんにちは2時』(テレビ朝日系)の取材で吉永さんの自宅を訪ねたという坂本美恵子さんが振り返る。

「大宅賞を獲った直後で、そのときはまだ物書きというより、4人の子どもと実母に関わる普通のお母さんという感じでした。

 吉永さんは子どもを思う気持ちや他人に対する情が厚くて、手を抜かずに人を愛する人なんですよ。その当時と今を比べると、テレビでのコメント力が増したという違いはありますが、それ以外の人間的なものはまったく変わっていないと思います

 やがて執筆や取材、テレビ出演の依頼がつぎつぎと舞い込むようになる。家族に迷惑をかけまいと努力を重ねてきた吉永さんであったが、あるとき、自分は“今”やりたいことをしたいんだと宣言した。人間にも旬というものがあり、今やりたいと思ったことは万難を排してもやらなければならないと思ったのだ。

「母親だから家事が最優先で、その先からしか自分自身の一歩を踏み出せないという観念も覆してみたかったの」

 夫も「みんな協力するからひとりで突っ張らないでいい」と言ってくれ、それぞれが家事に参加してくれるようになったという。

夫との別れ

 ノンフィクション作家としての頭角を現し、競馬関係や女性の生き方を問うエッセイ、人物ドキュメンタリーなど数多くの著書を上梓する。中でも『性同一性障害』('00集英社新書)は日本初の性転換手術を取り上げ、肉体的な性に違和感を感じて生きる人たちに光を当てた渾身のルポだ。坂本さんが語る。

「あの本がきっかけとなり、『金八先生』で上戸彩が性同一性障害の役を演じて、この問題が人々の知るところとなったと思うんです。

 吉永さん自身もお父さんから“この子が男だったらよかったのに”といつも言われていたことが心の傷になっていたそうです。自分らしく生きたいのに、世間がそれを許してくれない人たちに心を寄せて、自分ごととして取り組んだと聞いています。その考え方や着想には独自の視点があると思いますよ

 坂本さんは、吉永さんが抑圧された人たちを何とかしたいという思いが強く、それが作家活動に重なっているという。だから本物なのだとも。

吉永さんと二木啓孝さん(前列)が発足した『老人力同盟』は体力・知識力が落ちても嘆かないR60の会。右端は坂本美恵子さん

 夫・正人さんとはその後、別れることになるが、がんにかかり64歳で亡くなった正人さんを最期まで看病した。長女の悦子さんをはじめ3人の子どもたちとは戸籍上は親子ではないが、今も実子同様、深いつながりがある。昔と変わらず悦子さんにとって、吉永さんはいちばんの相談相手だ。

母は忙しくなってからは都内のマンションにいたので、離婚してもそんなに状況は変わりませんでした。父は突然大みそかにおいしいものを持って母のところに押しかけたりしていましたね。父は母のことが大好きだったんですよ。入院しているときも母が来るといちばん喜んだので。

 結婚していると、こうしてほしいという父親像を求めてしまうけど、それがなくなったら、楽になったと母は話していました」

悦子さん、お孫さんと。成人したお孫さんも「カッコいい自慢のおばあちゃん」と話すそう

 吉永さんは幼いころ憧れた“家族同士、仲のいい明るい家庭”に近づきたかったのだが、としたうえでこう振り返る。

「なかなかうまくいかなかったですね。1回途切れもしましたし。今は私が育った家庭も変だったとは思ってなくて、家族にはいろんな形があって、あれもひとつの形だったんだろうと思っています」

 子どもたちは自分の今後を気遣ってくれるが、面倒をかけずにひとりで暮らしていけるよう準備をしたいという。

「家族というのは、ずっと死ぬまで家族だと思ってなくていいんじゃないかと思うの。人間は結局ひとりだから」

人生の終盤戦をどう送るのか

 そう切り出すと、大好きなパンダの生態からも学んだという家族論を語ってくれた。

「パンダってすごいなと思ったのは、昨日までお母さんにおっぱいもらったり、親子で仲よく遊んでたのに、今日からはもう会いませんって離れて暮らすようになること。

 自然界の哺乳動物は、あるところまでは親子だけど、子どもがひとり立ちしたら、もうその縁は切れるのね。お互いが一生懸命、生きましょうねってことなのよ」

 パンダの親子の潔さに、人間も本来はそうあるべきではないかと感じたという。

「パンダの愛らしい後ろ姿が大好きなのよ」と吉永さん。毎晩YouTubeでパンダ動画をチェックして癒されているという

「私はその距離がとれないまま、ずっと親を引きずり、親も私を引きずっていたから。母たちの時代は次の世代に頼って生きるのが当たり前だったしね」

 結婚の有無にかかわらず人間はひとりであり、役割を分担して補完しあっているうちはひとりでは生きられない。これからは個々が自分の人生をひとりで責任を持って生きる認識が求められると語る。

「あるとき家族として一緒に生きた人たちのおかげで、いろんな意味でよかった。それは私が家族を持ったことによる膨らみ方。結婚しなかった人は私とは違う膨らみ方をしているわけで、どっちがいいとか比べる必要もないわよね。

 パンダじゃないから別に顔も見ませんとか付き合いませんというわけじゃないけど、これからは意識としてひとりの人間同士、でいいのかな?」

 昨秋、最後に残った飼い犬を見送り、それを機にマンションをリフォームすることにした。

「20年近く犬がいる生活をしていたので汚れていたし、広く使いたくて寝室と仕事部屋をつくったの。仕事をやめるころに仕事部屋つくってどうするの? って感じだけど(笑)。ベッドから降りて車いすに乗れるスペースもつくったし、車いす用のお金も取ってある。ひとりで生きると決めたら、やるべきことが見えてくるでしょ。経済的なことも必要だし、精神的なこともね」

 古希を前にして、人生の終盤戦をどう送るのか、どう“臨終”のときを迎えるのかを考えるという。

「本当はもう十分、生きたと思っているから、いつ死んでも悔いはないの。でも、せっかくリフォームしたから、ちょっとそこで暮らしてみたいかな(笑)。

 元気なまま死ねたらいいけど、要介護状態になるかもしれないでしょう。それでも生きていかなければならないから、心を鍛えなきゃと思っているの。ただ無理に延命しようとは考えていないので、尊厳死協会にも入ったわ」

ノンフィクション作家 吉永みち子さん

 もちろん、元気で命があるうちは仕事も続け、進めたい取り組みもあると意気込む。

「さまざまな理由でつまずいてハンデを背負っている人たちのやり直しを支援したい。ときどき更生保護施設を回ったりしています。孤独だと厳しいけど、帰る場所があれば人は立ち直れるものだから。また虐待や貧困などの事情による教育格差を少なくする活動もしたいと思っています。まだ何ができるかわからないけれど」

 最近「熟柿が落ちる」という言葉が心に響くそうだ。柿がおいしく熟すと落ちるように、人もじっくり考えて時機を待つという喩えだ。

「でも熟考するにも制限時間があるから、言い訳ばかりしていれば、やりたいこともできないまま年をとって終わってしまうのよ」

 制限時間内に必死で考え、行ったり来たりしながら、ひとつひとつ選択してきたのが自分なのだという。

生きているといいこともあるけど、とんでもないことも起こるでしょ。すごく幸せなことはいいことだけど、幸せというのは人を弱くする面もあるから。つらいときのことが人間をつくっていく気がしているの。

 私も夫とうまくやれていたら、ひとりで東京に出てこなかっただろうし、人生まったく違うものになっていた。そういうことがあるたびに私って強くなるのよね。面の皮千枚張りくらいになっちゃう(笑)」

 “どんな大変なことに直面してもノーとは言わず、イエスで受ける!”そう決めてやってきた。

「自分で出した答えが間違えていたら、そのときはまた引き受けるしかないわけで。それが生きられる道なのかなと思っています」

 言うべきことを言う貴重な大人、吉永さん。つむぎ出すその言葉に多くの人がヒントをもらい、力づけられる。根底にあるのは徹底的に人を気にする心と社会を善くしたい思い。吉永さんがレース終盤の「第4コーナー」をどう駆け抜けるのか、その走りに注目したい。


撮影/伊藤和幸
取材・文/森きわこ(もり・きわこ)ライター。東京都出身。人物取材、ドキュメンタリーを中心に各種メディアで執筆。13年間の専業主婦生活の後、コンサルティング会社などで働く。社会人2人の母。好きな言葉は、「やり直しのきく人生」。