シャッター通り・シャッター商店街──。商店街とは名ばかりの、ほとんどの店舗がシャッターを下ろしたゴーストタウン。全国の至るところでその姿を見かけることが多くなった。
少子高齢化による消費者の減少、後継者不足、さらには郊外型のショッピングセンターなどの出現によって、シャッター通り拡大の勢いは止められない。もはや、この現象を食い止める手立てなど考えられないだろうと思われてきた。
“奇跡”の商店街、誕生の軌跡
しかし、そのシャッター商店街を、都市の中心部に住宅や商業、行政機能などを集約させた『コンパクトシティ』と呼ぶにふさわしい街に生まれ変わらせ、各地から連日、視察が殺到する“奇跡”と呼ばれる商店街が存在するのだ。
四国の玄関口とも呼ばれる香川県高松市。高松湾に近い、高松城跡の周辺は古くは城下町が発達し、400年以上がたつ現在も、金融機関や企業の支店・支社が立ち並ぶ市の中心部だ。そこに長さ470メートルにおよぶ高松丸亀商店街はある。
この商店街も、'90年代半ばには、1日3万8000人あった通行量が、'05年には、その4分の1の9500人まで減少、衰退の一途はまぬがれないと思われた。
しかし'06年12月、A〜Gの7つに分けた街区のうち、北の端に位置するA街区の建て替えが完成すると通行量は好転。'10年12月、G地区のショッピングセンター開店後は2万8000人までに回復。現在も伸び続ける。
「私たちが開発に着手する前の店舗数は157店舗。それが現在、250店舗になっています。かつてはファッションの街で飲食店は1軒もなかったんですが、今では36店までに増えています」
そう語るのは、同商店街の活性化を牽引してきた『高松丸亀町商店街振興組合』の古川康造理事長だ。
丸亀町商店街を歩くと、そのアーケードの高さと美しさに驚く。
A地区の北端には、クリスタルドームがそびえ立ち、この商店街の象徴になっている。その場所は「札の辻」と呼ばれ、さまざまなイベントや結婚式が行われる。
商店街の道路には、植栽がいたるところに置かれ、休憩できるベンチも配備されている。ただの通路というより、憩いのエリアというイメージが漂う。
最大のポイントは「医療があること」
もうひとつの特徴が商店街の上に建設されたマンションだ。開発前には、この商店街の生活者は75人。高齢者ばかりだった。それが現在、600人になった。
「街が目指しているのは“医・食・住”がそろったコンパクトシティなんです。居住者はみんな郊外へと移ってしまったのですが、高齢化が進むと車の運転などができなくなるうえ、家族に負担がかかるからと外に出なくなります。
でも、商店街に暮らしていれば、散歩がてらに買い物もできるし、友達と食事することも苦にならない。そして、住居のあるこの商店街の最大のポイントは医療があることなんです」(古川さん)
C地区には、『美術館北通り診療所』がある。診療科目は、内科から美容皮膚科まで幅広い。さらに今年1月には、マンションの下のフロアに総合メディカルセンターといえる『丸亀町クリニック』が開業した。
ここは各種のリハビリにも対応している。真新しいクリニックは、まるでホテルのロビーかおしゃれなカフェのようなインテリアで、とても医療施設という感じはない。
豊永慎二院長が言う。
「商店街や近郊に住んでいる方のかかりつけ医という存在でありたいですね。街づくりの一環として医療があるという発想もとても面白いと思います。上のマンションに住んでおられる方は、病院の上の自宅が病室と同じですから、安心していただけると思います」
シャッター商店街の一途をたどっていた丸亀町商店街は、なぜ奇跡を起こすことができたのだろうか。古川理事長はこう語る。
「それは、商店街が最もにぎわっていた'88年、開町400年祭でのことでした。当時はバブルの絶頂期。そんなときに先代の理事長が“うちの商店街は持って15年、早ければ10年”と言い出したんです。
まだ若かった僕らは”まさか”と本気ではとらえなかった。ところが、その予想はピタリと当たったのです」
以来、通行量に減少の兆しが現れ、さらに追い打ちをかけるように瀬戸大橋の開通があった。それまで四国には大手ショッピングセンターの進出はほとんどなかったが、瀬戸大橋開通によって物流が安定し、大手資本が一気になだれ込んだのだ。
古川さんたちは、理事長の指示を受けて、全国で調査を開始していく。
「失敗した再開発を見てこいと言われて、僕たちが目の当たりにしたのは、郊外店が勢いを増すなか、かつての栄光が忘れられない店主たちが切迫感のないまま自ら滅んでいく姿でした」
失敗には法則があると気づいた
各地の商店街では開発デベロッパーに丸投げする、大型店を誘致したものの業績低迷から撤退されるという失敗を繰り返していた。
そんななか、トドメを刺すように起こったのが'91年からのバブル崩壊。丸亀でも土地を持っていた商店街の店主たちは、銀行に踊らされるままに土地を担保に不動産を買いあさり、バブルがはじけると、その価値は暴落、とんでもない借金を背負う店主が続出した。
「ただ、あとから考えると、これは好機でもありました。借金を抱え戦闘能力を失い、後継者もない店主の借金を清算してあげる廃業支援を行えた。つまり、街をいったん白紙にできたんですね。その店主たちを動かしたのは、おかみさんたちでした。彼女たちはドライでシビアな財務の専門家ですからね(笑)」
古川さんたちがとったのは、定期借地を用いて商店街をまるごと新しくしようという方法だった。
「土地を買い上げるのではなく、土地の権利はそのまま店主たちに残し、60年の条件で借り受ける。その上に新しい施設を建て、地権者である店主たちと施設を運営する会社を共同出資で設立しました」
おもしろいことに、丸亀町商店街の発展によって、30〜40%のシャッター店を抱えていた隣接する商店街もシャッター店が解消したというのだ。
「奇跡、奇跡と言われるけれど、私たちは失敗には法則があることに気づいただけ。そして、町から信任を受けた私たちが街づくりの専門家チームを編成して計画を作ってきた。最近では“奇跡だなんて言ってられない”と、本気で商店街の立て直しに取り組む町も出てきました。
行政は総花の計画しか作れない。“民”が立ち上がらない限り、“官”は支えられないことに早く気づいたほうがいいでしょうね」