4月24日、日本代表会見後の公開練習にて 撮影/齋藤周造

 灼熱のインドネシア・ジャカルタで行われた2018年8月のアジア大会。中田久美監督率いるバレーボール全日本女子、通称「火の鳥ニッポン」は王者を目指して戦っていた。しかし予選リーグ3戦目のタイ戦で早々と0―3のストレート負けを喫してしまった。

 ここまでアッサリと敗れたことに納得いかなかったのだろう。2012年ロンドン五輪銅メダル獲得時の主将で、チーム最年長・34歳の荒木絵里香選手は怒りにも似た感情を漂わせつつ、修行僧のような険しい形相で取材ゾーンを通り過ぎていった。

 結局、この大会の日本の成績は2020年東京五輪のライバルと目される中国、韓国、そして新興国・タイを下回る4位という不本意な結果で終わった。続く同年秋の2018年世界選手権も健闘はしたものの6位。「東京五輪でのメダルはかなり厳しい」という危機感が強まった。

人生の劇的変化

 アジア大会から約半年が経過した今年2月。荒木選手はトヨタ車体クインシーズの活動に戻っていた。Vリーグ終盤の試合翌日、練習を終えた彼女が5歳になった愛娘・和香ちゃんを自宅近くのカフェに連れてきたが、その顔はあの敗北のコートで見せたものからは想像できない「ごく普通の優しいお母さん」そのもの。あまりのギャップに驚かされた。

「“別人みたい”とは、よく言われます」

 荒木選手はやわらかな笑みを浮かべた。

 子どものころから練習に明け暮れ、日本のトップに駆け上がり、3度の五輪に参戦とバレーボールに邁進してきた彼女は今、“現役Vリーガー唯一のママ”として注目を集めている。女性アスリートにとって、結婚・出産というのは人生の劇的変化にほかならない。

 しかし、荒木選手はその転換期を楽しみ、競技への活力に変えてみせたのだ。

「長い間、バレーボール選手として生きてきて、社会との接点がなかったんで、娘の幼稚園に行って先生やママ友さんとお話しするのはすごく新鮮な気持ちです。友達と遊んでいる娘の姿を見ると、心が穏やかになりますね。戦う場所と安らぎの場所があってこそ、人としてのバランスがとれる。そのありがたさを今、しみじみと噛みしめながら、競技を続けさせてもらっています」

 186cmの長身を誇るママさん選手は、地元開催、そして4度目の世界舞台となる東京五輪へ突き進むつもりだ。

小学校6年生で180cm

 瀬戸大橋の本州側の起点であり、数々の歴史的建造物を有する岡山県倉敷市。フィギュアスケートの高橋大輔やB'zの稲葉浩志ら数々の有名人を輩出しているこの町で、'84年8月に生をうけたのが荒木絵里香選手だ。

 2歳年下の弟のいる4人家族。父・博和さんは早稲田大学ラグビー部OB、母・和子さんは体育教員というスポーツ家系で、幼少期から運動は大好き。倉敷市立菅生小学校時代は水泳や陸上クラブに通っていた。

 出生時に3900グラムあった彼女は、生まれつき大柄だった。なんと小5で170cm、小6で180cmに達していたという。

「普通の女の子は“背が高すぎるのは嫌だ”と感じるかもしれないけど、両親は身長が高いことを喜んでくれたので、自分自身は気にせず育ちました。ただ、さすがに180を超えたときは“まずいのかな”とは思いましたけどね(笑)。水泳とかをやりながら“いずれバレーボールかバスケットをやりたい”とも考えていて、小5から地元小学校のバレーボールチームに入りました」

 運動神経に秀でた少女はメキメキ上達したと思いきや、そうではなかった。スパイクはもちろんのこと、レシーブもトスも思い描いたようにはできない。低学年から始めた子が周りには多く、自分だけが下手くそ。それが悔しくて余計に必死になる。そんな日々を経て、彼女はバレーにのめり込んでいった。

 倉敷北中学校時代も「スポーツ中心の生活を送るのは高校からでいい」という両親の考え方があり、強豪校には進まなかった。が、180cm超の身長が買われ、中1から五輪有望選手の仲間入り。しばしば東京や大阪へ赴いて強化合宿に参加するようになった。

 そこで顔を合わせたのが、同い年の大山加奈さん。後に成徳学園(現・下北沢成徳)高校、東レ、全日本でともに戦い、引退後は一緒にハワイを旅行したほどの親友でもある。

「絵里香と初めて会ったのは中1のとき。東京代々木のオリンピックセンターでした。自分より大きい彼女を見て“こんな子がいるんだ”とビックリしました。中3のときには中学選抜で一緒にプレーしたけど、絵里香の学校は岡山の県大会1回戦負けくらいのレベルで、バレーの技術もそこそこ。それでも飛び級で年上の先輩たちとプレーしていた。私はただただ羨ましかったですね。

 絵里香はよく転ぶ選手だったけど、天性の身体能力があって、水泳や長距離走も得意でした。万能型だったことも長く現役を続けていられる秘訣かなと思います」

春高バレー優勝時の荒木選手(左)と大山加奈さん(右)

 3学年上の落合真理さん(スポーツ解説者)らのすすめもあって、高校は名門・成徳学園へ進学。父・博和さんの転勤も重なり、一家で神奈川県川崎市に引っ越すことになり、落ち着いた環境でトレーニングに打ち込むことができた。

 当時は「ミドルブロッカー(主にブロックをする役目のポジション)としての実力はまだまだ」という見方をされることが多かった。「大きなトスを打てるようになるのが第一歩」という名将・小川良樹監督の考え方から、速攻や時間差攻撃など、このポジションに必須の技術を完璧に習得しないまま高校を卒業。

「鉄腕エリカ」が認められるまで

 2003年に実業団の名門・東レに入ることになったが、直後に呼ばれた全日本では「自分はどうしてこんなに下手なのか」と思い悩む日々を過ごした。

「当時の全日本は“メグカナブーム”の真っただ中。同い年の加奈やメグ(栗原恵=JTマーヴェラス)が主力組でプレーする傍らで、自分はコートにも立たせてもらえず、ボール拾いばかり。自信を失いかけたこともありました。

 そこで声をかけてくれたのが、主将のトモさん(吉原知子=JT監督)。“今はつらい立場かもしれないけど、絵里香は絶対できるから”と背中を押してくれたんです。同じポジションの大先輩の言葉はいちばんの力になった

 最終的に2004年アテネ五輪のメンバーからは落選したが、バレーへの意欲を失うことはなかった。

 北京五輪までの4年間は「練習の虫」となった。

黙々と筋肉トレーニングに励む荒木選手

 同ポジションの先輩・吉原さんは全日本を去ったが、後継者としてチームを牽引したのが30代半ばのベテラン選手だった多治見麻子さん(現トヨタ車体監督)。荒木選手はそのストイックな姿勢に大いに刺激を受けた。

「私が北京五輪に行ったときは36歳。絵里香はひと回り下なので、24歳だったと思います。当時から負けず嫌いで、闘争心を前面に出すタイプ。ホントに若さと勢いを感じました」と多治見さんは懐かしそうに振り返る。

 アテネ落選の悔しさをバネに「当たり前のことをきちんとやるしかない」と荒木選手は地道な努力を積み重ねた。ひたむきにバレーに突き進む貪欲さとブレない姿勢は、身近にいた大山さんが複雑な感情を抱くほどだった。

「絵里香は常にチャレンジャー。どんなときも信念を持ってまっすぐに突き進む。自分がケガをしがちだったこともあって、彼女の強さに引け目を感じ、距離を置いてしまう時期もありましたね」

 親友をも驚かせた努力の成果は北京でのベストブロッカー賞受賞につながる。「バレーのセンスも技術もない自分はしっかりやらないと選手として生き残れない」と10代のころから自覚してきた「鉄腕エリカ」が、ようやく世界に認められた瞬間だった。

 悲願の五輪行きを実現したものの、日本が5位とメダルを逃したこともあり、バレーへの意欲は高まる一方だった。

 さらなる飛躍を期して荒木選手は2008年夏、イタリア・ベルガモへの期限付き移籍に踏み切る。オファーを受けて長年の夢だった海外に赴いたが、思うように試合に出られない。練習も1日2時間と短く、自分をうまくコントロールできない。

 言葉も文化も環境もすべてが異なる異国でもがいた1年間は、選手として成長したとはいえなかったが、イタリア人プレーヤーの生きざまや人生観に触れて、自身の生き方を考え直すいいチャンスにはなった。

「結婚・出産を経験した人、大学に行きながらプレーする人、モデルや仕事などバレーボール以外の活動にも力を注ぐ人と、向こうにはいろんな選手がいました。オンとオフをキッチリと切り替えて、充実した生活を送る姿を見て、自分にももっと違った何かがあっていいと思ったのは確かですね

プレーしながら鳥肌が立っていた

 価値観が変化した荒木選手に運命の出会いが訪れたのは、3年後の2011年。東レに復帰し、眞鍋政義監督(現ヴィクトリーナ姫路GM)から全日本の主将を託され、全力で2012年ロンドン五輪へ向かっていたころだ。

 イタリアでプレーしていたラグビー元日本代表の四宮洋平さんが、同国遠征に赴いた全日本女子チームのトレーナーを訪ねてきたのが2人の始まりだった。

「語学力とバイタリティーを駆使してニュージーランドや南アフリカ、イタリアで10年以上も暮らしていた人だけあって、“自由人”という印象を受けました」と荒木選手が言えば、四宮さんも「最初に挨拶したときから好感の持てる人でした」とストレートに語る。これを機にスカイプなどを通じて交流を持ち始め、荒木選手もスキあらば欧州へ赴き絆を深めていく。

「私には考えられない広い視野で物事を考える人。フランスでプレーしていたころは日本の高校生のフランス留学のサポートをしていましたし、スポーツはもちろんビジネスにも興味があって、世界中にいるたくさんの友人や知人に会っていろんなことを吸収していた。その経験を私に話してくれて、ホントに刺激を受けたし、精神的にも支えてもらいました」

 公私充実の主将が牽引した2012年ロンドン五輪の全日本女子は快進撃を見せた。予選ラウンドからイタリア、ロシアに苦杯を喫する苦しい滑り出しとなったが、グループ3位通過で準々決勝に進んだ。

 その一発目の中国戦。「バレー人生で最も印象に残る試合」と荒木選手自身が言い切る世紀の一戦は第1セットから28―26の大接戦になった。日本が先手を取り、2セット目を中国、3セット目を日本、4セット目を中国が取る一進一退の攻防の中、迎えた第5セット。日本は最後で相手を突き放して4強入り。メダルに王手をかけた。

「ギリギリの死闘の中、プレーしながらずっと鳥肌が立っていました。感じたことのない感覚を覚えたんです。“みんなでメダルを取るんだ”という一体感もすさまじくて、あそこまでの団結は生涯1度きりだと思いますね」

 最大の山場を乗り切った日本は準決勝でブラジルに敗れ3位決定戦に回ったが、永遠の宿敵・韓国を見事にストレートで撃破。'84年ロサンゼルス五輪以来、28年ぶりのメダルを獲得し、日本バレー復活を世界に示した。

ロンドン五輪、銅メダル獲得の瞬間(日韓戦)

「五輪のメダルって取った自分たち以上に喜んでくれる人がいる。その事実を知って重みを再認識しましたね。それまでは“自分がこうしたい”という気持ち最優先でプレーしてきたけど、本当に素晴らしい瞬間だなと実感しました」

 その言葉の向こう側には、幼少期から支えてくれた家族や恩師、仲間、そして四宮さんの存在があった。

 ロンドン五輪の期間中に28歳になった荒木選手は、自分がこの先、どういう人生を歩むべきかを真剣に模索した。バレーは続けたいが、4年後というのはあまりに長すぎてリオデジャネイロ五輪のことは全く考えられない……。

「結婚しないか」

 プロポーズを受けたのはそんなときだった。

結婚、そして“白目”をむいての出産

 当時の思いを四宮さんが振り返る。

「五輪に2度出てメダルを取り、海外でもプレーした絵里香が次に何を目指すのか。それは難しいテーマでした。さらなる高みを求めていくためにも、環境の変化が必要だと僕は感じた。結婚して子どもができれば、新たなモチベーションも生まれる。彼女にはそういう前向きな生き方をしてほしかった。

 日本では女性アスリートを取り巻く環境が整っていないけど、海外が長い自分にとっては結婚・出産は特別なことじゃない。英語の文献も読みましたけど、アメリカの陸上選手が出産後2か月で復帰した例もあるという。僕らが日本スポーツ界にはなかったモデルを作っていけたらいいと思ったんです

 その情熱に荒木選手も胸を打たれた。

「“遠く離れているし、リオまでは待てない”とも言われたので、相当迷いました。たくさんの選択肢がある中で、彼の言葉が私の背中を押した。“結婚して子どもも産んでバレーもやりたい”という気持ちになれたんです

四宮さんと結婚し、出産。お互いスポーツ界に身を置くため2人で家を空けることも

 2人は2013年6月に結婚。すぐに妊娠し、10月末に10年間所属した東レを退社。出産準備に入った。

 マタニティーの時期は四宮さんが日本に戻ってビジネスを始めたころ。初めて一緒に暮らした。ケンカもしたが、毎日が楽しく幸せだった。練習に行かなくていい日々も荒木選手にとっては新鮮だったという。

 だが同時に、出産後の環境作りもしなければいけなかった。忙しい夫は子育てに専念できないし、自分も復帰に向かわないといけない。そこで力強い援軍になってくれたのが、母・和子さんだった。

「長年、専業主婦をしていた母も50代になり“もう1度、自分の仕事をやりたい”と柏市の中学校で体育講師の仕事を始めたばかりでした。私としても心苦しかったんですが“絵里香のやりたいようにしなさい”とサポートを約束してくれた。本当にうれしかったし、力強かったですね」

 四宮さんの拠点である東京、和子さんの住む千葉・柏から遠くないチームということで、Vリーグ2部の上尾メディックス入りを決断。2014年1月に和香ちゃんを出産した。

四宮さんと結婚し、出産。お互いスポーツ界に身を置くため2人で家を空けることも

「子どもを産んでいる女性はたくさんいるし、自分は身体を鍛えてきたアスリートだから大丈夫」と高を括っていたが、かなりの難産で最終的には吸引分娩となった。痛みは想像を絶するレベル。「白目をむいて、いきんでいたそうです」と苦笑する。けれども、母になった瞬間の感動は忘れられないものだったという。

 3か月間は和子さんのもとで子育てに専念し、2014年6月に和香ちゃんと上尾に引っ越した。四宮さんは都内、和子さんは柏から頻繁に往復して、子育てに携わった。

 母は娘と孫への秘めた思いをこう明かす。

「絵里香が独身のころに“産んだらサポートしてくれる?”と聞いてきたことがあって、それもいいなと思っていました。本当に妊娠したときはまだ学校で働いていましたが、2014年3月末に退職して、6月からはほぼ上尾にいて、週1回だけ柏に帰る生活を送るようになりました。

 やっぱり初孫で可愛かったですし、お父さんも和歌山で仕事をしていたので、私は自由がきく。絵里香のことを考えたらそれがいちばんだと思って、仕事を辞める決断を下すことができました」

再びコートへ、そして病気の発覚

 環境は整ったものの、荒木選手にとって1年ぶりのバレーボールは「初めてやったときと同じ」だった。レシーブするだけで両腕が真っ青。ボールの重さもズッシリ感じた。身体も動かず、出産前とはすべての感覚が違う。2014年10月の実戦復帰に向け、困難が続いた。

 トヨタ車体と全日本の現チームメートである内瀬戸真実さんが、その大変さを代弁する。

「自分の場合、2週間やらないだけで身体中が筋肉痛になる。絵里香さんが出産で1年近くプレーしない状態から復帰するのは相当大変だったと思います。でも実戦復帰の直後からブランクがあったとは思えない“高い”プレーをしていた。本当に『凄い』のひと言です」

 2015年3月には眞鍋監督から全日本復帰の打診があった。最初は「子どもと離れたくないし、世界で戦える心と身体の準備がまだできていない」と二の足を踏んだ荒木選手だったが、家族会議を開いて意見を聞いたところ、四宮さんは「やりなよ」と言い、和子さんも「和香の面倒は私が見るから大丈夫」と言ってくれた。

 娘を含めた家族の存在が後押しとなり、荒木選手は全日本のユニフォームを再び身にまとって世界に挑むことを決めた。

 ところが、直後のメディカルチェックで、予期せぬ病が見つかってしまう。

「出産後にめまいが出始め、試合に出るようになってからは過去に感じたことのない疲労感に襲われるようになりました。何かおかしいなと。でも、長期間バレーから離れていたせいだと思っていたんです」

 所属チームが医療関係だったことも幸いし、大がかりな検査を行った結果、心臓の不整脈が発覚。手術を余儀なくされた。ドクターに「もう競技はいいでしょう」と言われるほどの選手生命の危機に直面したのだ。大事には至らなかったが、その病を経て「コートに立つことは当たり前じゃないんだ」と痛感。バレーのできる1日1日を大切にしようと誓った。

 そして、2016年リオ五輪にも参戦。北京と同じ5位と、ロンドンのメダルを下回る結果に終わったが、荒木選手がいなければチームは成り立たなかった。彼女はベテランとしてチームを牽引する重要な役割を担っていたのだ。

リオデジャネイロ五輪最終予選

 リオ五輪明けの2016年秋からは、現在のトヨタ車体へ移籍。決断を後押ししたのは、夫・四宮さんだった。

「東京を目指すならVリーグ2部に居続けるのは厳しいし、新たなステップを踏み出したほうが絵里香にとってプラスだと考えました。上尾に行かなければ現役復帰も心臓病克服もなかったし、本当に感謝してますけど、より高いレベルでプレーさせてあげたいと僕は思ったんです」

1人4役、自問自答の日々

 かつて全日本で面倒を見てもらった多治見監督が率い、代表経験のある高橋沙織主将や内瀬戸選手ら質の高い仲間がいる環境は、確かに新たな領域を目指す彼女にとってポジティブなものだった。

「絵里香のバレーに対する真摯な姿勢は若い選手のいい見本になっています」と多治見監督は言う。高橋選手も「準備の段階から100%で取り組む絵里香さんの姿から学ぶことは多い。トヨタ車体と全日本の選手、妻、母と1人4役やりこなすのはホントにすごいこと」と目を丸くする。チームにとっても、その存在は大きいのだ。

 移籍と同時に母・和子さんも愛知・刈谷へ引っ越して同居。これまで以上に娘と孫を献身的に支援するようになり、夫・四宮さんも休みのたびに新幹線で駆けつけてくれた。

出産後、愛娘の和香ちゃんが1歳になる前には現役復帰

 それから2年半の時間が経過し、赤ちゃんだった和香ちゃんも5歳。ママが近くにいないことを訝しがる年齢になった。アジア大会、世界選手権と3~4か月家を空けた2018年秋には幼稚園で友達を軽く叩いたり、「ねえねえ」としつこく接したりと、不安定な行動を取るケースが見られ、家族を心配させた。

 和子さんもこのときばかりは複雑な感情を抱いた。

「正直、寂しかったんだと思いますね……。私はあったことをすべて包み隠すことなく絵里香に伝えます。“親の責任でやってることですから、自覚しなさい”と言いました」

 荒木選手は東京・西が丘での全日本合宿中に休みがあれば一目散に刈谷へ戻ったり、柏の実家に和香ちゃんを連れてきてもらうなど何とか親子の時間を作ろうとした。だが、全日本での活動期間中はどうにもならない。

「娘はテレビ電話の前にいる母親に興味がないんです。私のほうは顔が見たくて必死に電話しますけど、途中で向こうに行ってしまったり、電話に出なかったりする。でも家に帰るとベッタリして動かない。それが娘なりのバランスのとり方なのかなと感じます」

 全日本の合宿に行くときは後ろ髪を引かれる思いで、切なくて悲しくてしかたないという。そんなとき母親も父親も近くにおらず、寂しい思いをさせていることへの申し訳なさが募り、自分の「選択」に不安を覚えることもある。

「“自分のやってることが本当に正しいんだろうか”と葛藤も生まれてきます。でも自分がバレーを続けると決めた以上、途中で投げ出すわけにはいかない。一緒にいられるときにできるだけの愛情を示して抱きしめてあげることしかできないんだと思います」

 父である四宮さんも自分なりのベストを尽くそうと努力している。

「僕らは決していい親じゃないだろうけど、血を分けた娘ですからタフになってもらうしかない。絵里香のお母さんも頑張ってくれていますし娘もいつかわかってくれるときがくると思います」

 そういった若い世代の新たな生き方を、和子さんは力いっぱい応援する日々だ。

「われわれの世代は女性が結婚・出産して仕事を続けるなんてムリでしたし、世間の理解もなかった。私は教員でしたけど、夫のいた岡山に嫁ぐことになって辞めざるをえませんでした。

 絵里香たちの世代になって家庭と仕事を両立する人が少しずつ増えてきましたけど、完璧にこなすのは難しいですよね。娘たちが頑張っている姿を間近で見ている自分に協力できることはやってあげたいとは思います」

日本代表、そして母として

 若い世代にとって理想のモデルになりうるママさんアスリートの頑張りに励まされている40代以上の女性は少なくないはずだ。

 荒木選手は母に深く感謝しつつも、「和香に少し先回りして教えすぎるところがある」と言う。ただ、意見の相違はそれくらいで、子育てをめぐる衝突はほぼない。何事もお互いにストレートに言い合うガラス張りの関係を築けているからこそ、この体制が成り立っている。四宮さんも「バイタリティーとエネルギーに満ちあふれたあのお母さんに任せておけば大丈夫」と笑顔で太鼓判を押す。

 娘夫婦から絶対的な信頼を寄せられる母は、

「“年間300日もよく自分の娘を任せられるね”と2人に言ったことがありますけど、それもひとつの生き方なんでしょうね」

 と笑顔を見せた。

 東京五輪まで500日を切った。2019年度の全日本女子も4月21日から東京・西が丘で始動。荒木選手はもちろんメンバーに名を連ねた。「自国開催の大イベント前年ですから、今年は何日拘束されるかわからない」と本人も言うように、もしかすると半年近く全日本の合宿に参加する可能性もある。

 となれば、愛娘とはより一層、離れ離れの日々を強いられるが、「和香もいつか自分が夢中になれるものを見つけてほしい」と荒木選手は母親の顔をのぞかせた。

 4月24日に行われた記者会見時に、中田監督は改めて大きな期待を寄せた。

「お子さんのことも考慮しつつですけど、荒木も特別扱いは望んでいない。自分が全日本にいる意味をしっかり理解してチームに還元してくれると思います」

 荒木選手もその役割に全力で取り組みながら、母としての責任も果たそうとしている。

「今年の夏休みはサマースクールに入れることも家族で話し合わないと(苦笑)。和香も大変だと思うけど、いつか自分が夢中になれるものを見つけてほしいですね」

 背負うものがあるからこそ、頑張れる─日本バレーボール界の肝っ玉母さんのド根性を東京五輪の大舞台で見せつけ、伝統種目を再びメダルへと導いてほしい。

「娘にもいつか夢中になれるものを見つけてほしい」と荒木選手

取材・文/元川悦子(もとかわえつこ)1967年、長野県松本市生まれ。サッカーを中心としたスポーツ取材を主に手がけており、ワールドカップは'94年アメリカ大会から'14年ブラジル大会まで6回連続で現地取材。著書に『黄金世代』(スキージャーナル社)、『僕らがサッカーボーイズだった頃1・2』(カンゼン)、『勝利の街に響け凱歌、松本山雅という奇跡のクラブ』(汐文社)ほか