東京・半蔵門にある、オフィスビル。会議室で待っていると、「お待たせしました!」、黒のスーツ姿で颯爽と入ってきたのは、章司法書士事務所代表の太田垣章子さん(53)。
司法書士という肩書から、お堅い女性をイメージしていたが、取材スタッフと名刺交換をすれば、「珍しいお名前ですねえ」と、人懐っこい笑顔を向け、席に着けば、やにわに切り出す。
「そうそう、昔の写真、準備しておきました。お見合い写真なんて、ほら別人!」
その気さくな口調に、誰もが大笑い。初対面の緊張が、あっという間にほぐれていく。
「お節介なんです」
太田垣さんは、家賃滞納者の明け渡し案件を得意とする司法書士で、これまで扱った件数は、延べ2200件以上。
いわば、「家賃トラブル解決」の第一人者である。
数々の事例を1冊にまとめた近著、『家賃滞納という貧困』(ポプラ社)は、発売直後に増刷がかかるほど話題になっている。
「お金のやりくりに困って、“1回だけ”のつもりで家賃を払わなかったら、大きな出費がなくなり、一気に生活がラクになる。消費者金融みたいに強い取り立ても来ないから、味をしめて、長期の滞納に陥るケースが多いんです」
大家や不動産管理会社から、依頼を受けると、法的な書類の手続きと並行して、まずは滞納者の自宅に出向く。
これが太田垣流。
「居留守を使われることもしょっちゅう。“アホ、ボケ”なんて、罵声も浴びるから、ストレス、たまりますよ~」
少し専門的な話になるが、太田垣さんの仕事は、書面や電話で家賃返済を督促し、払わない場合、簡易裁判所に訴訟提訴をして、「明け渡せ」の判決を取ること。本来、現場に足を運ぶ必要はない。
それでも、滞納者に会いに行くのは─。
「家賃を払う気がない悪質な滞納者がいる一方、必死で生きているのに、お金の工面ができなくて、もがいている滞納者が多いからです。誰かの助けが必要なら、私を頼って! そういう気持ちで会いに行きます。これはもう、性格。お節介なんです」
最近、増えているのが精神的に病んで、仕事を辞めて引きこもってしまう若い滞納者。
「実家の親も、厄介者の息子や娘を見て見ぬふり。東京で働いていると言えば、近所にも聞こえがいいし。その結果、滞納者は孤独になって、金銭的にも精神的にも追い込まれてしまうんです」
そんなとき、太田垣さんは「一緒に行くから」と実家に同行。親に頭を下げて、家賃の肩代わりを頼むこともあるという。
ほかにも、貧しいシングルマザーの滞納者宅で、お腹をすかせて留守番をしている子どもを見つけたときは、コンビニでおにぎりを買ってきたりと、エピソードは尽きない。
太田垣家の娘として、恥ずかしくないように
「太田垣先生は心があるの」
そう話すのは、長年住み慣れたマンションが、老朽化による建て替えのため、立ち退き交渉を受けた吉野静子さん(仮名・76)。
「司法書士なんて、事務的だろうと思ってたら、違ったの。高齢者の物件探しの苦労もわかっていて、“お身体大丈夫ですか”って、気にかけてくれてね。これが口先だけじゃないの。
次の物件が決まって、立ち退きまで二重の家賃を払うことになったら、大家さんに掛け合って、立ち退く物件の家賃を無料にしてくれて。それも3か月分。ありがたかったですよ。新居に引っ越してすぐ、先生から“お疲れが出ませんように”って、手書きのハガキが届いたときは、ここまでしてくれるの! って、うれし涙が出たほどよ」
太田垣さんは仕事机に、四季折々のハガキや、かわいい絵ハガキを忍ばせている。
「立ち退きで引っ越された方の新生活を応援したくて、最初に届く郵便物は、私が出そうと決めています。滞納者の方からいただくお礼状にも、必ず返事を書きます。私を頼ってくれて、ありがとうという気持ちを込めて」
相手の痛みに寄り添い、人生の仕切り直しを応援する。
ごく自然にそれができるのは、自身が多くの痛みを経験してきたからだ。
太田垣さんをひと言で表現するなら、「由緒正しき、お嬢様」と言えるだろう。
1965年、大阪で生まれ、兵庫県川西市で育った。
大手商社に勤務していた大正生まれの父親は、『天空の城』で有名な、竹田城主・太田垣家の末裔。見合い結婚した母親も良家の出身で、ふた言目には「太田垣家の娘として、恥ずかしくないように」と、しつけられた。
4つ上に姉がひとりいる。
「姉は家風に合ったまじめな性格でしたが、私は幼いころから活発でしたね。でも、読書も大好きな、夢見る夢子ちゃんだったんですよ(笑)」
読書家になったのは、父親の海外赴任で、5歳から10歳まで台湾で暮らしたころ。
「当時は、日本語のテレビアニメもやっていなかったので、祖母が船便で送ってくれる日本語の本や絵本が唯一の楽しみ。もう、暗記するほど繰り返して読んでいました」
帰国後、中学、高校は兵庫県内の名門校、雲雀丘学園へ。そのころには、書くことにも目覚め、当時、やなせたかしさんが編集長だった『詩とメルヘン』のコンクールで大賞を受賞。お嬢様学校として知られる、神戸海星女子学院短期大学に入学後は、出版社のアルバイトで、雑誌のインタビュー記事を任されるほど実力をつけていった。
「私を採らないと損ですよ!」
この経験が、就職活動でビッグチャンスをつかむ足がかりとなった。狙うは、地元プロ野球球団の広報の仕事。
「当時、オリックスが阪急ブレーブスから球団を買い受けたのを機に、新球団の職員を募集したんです。大学時代の憧れは、作家の沢木耕太郎さん。広報に入って、私も広報誌を作りたい! と、張り切って応募しました」
もっとも「大学でロクに勉強しなかった」ため一次試験の一般教養はさんざんな出来。しかも、倍率が1200倍だと知って、のけぞった。
ところが、太田垣さん、あきらめるどころか、驚きの行動に打って出た。
「球団オーナーの宮内義彦さんに直接手紙を書いたんです。私なら、出版社で働いた経験を生かして、広報誌をひとりで作れます。大幅なコストカットができますと」
当時のオリックスは、法人向けの事業を展開していたので、ファンに向けた広報のノウハウを持っていないと分析。広告代理店を入れれば、莫大なコストがかかる。それを、自分が一手に引き受けると便箋にぎっしり書き綴った。
そして、最後にこう締めくくった。
「私を採らないと損ですよ!」
まさに圧巻の自己PRは、球団トップの心を動かしたのだろう。採用が決まった。
1989年、広報としてオリックス球団に入社後は、目の回るような忙しさだった。
「ファン向けの広報誌を、宣言どおり、たったひとりで担当しました。朝9時に出社して、昼からは球場に詰め、ナイターが終わって帰宅するのはいつも深夜。遠征試合にもほとんど同行していましたね」
採用が決定した際は、スポーツ新聞の一面に、“女性初の広報誕生!”と大々的に報道されるほど注目された。
だが、「浮かれた女の子」に、選手の風当たりは強かった。
当時、女子アナの先駆けとして、球場で取材を続けていた、元TBSアナウンサーでオリックス・バファローズ野手総合兼打撃コーチ田口壮夫人・田口(旧姓・香川)恵美子さん(53)が話す。
「まだ女性に門戸が開かれていない時代、男だけの世界に飛び込むのは大変だったと思います。私も同じでしたから。彼女は、人前でつらい顔を見せないので、何を言っても平気だと思われてしまう。露骨に追い出そうとする人もいました。仕事を評価してもらう以前に、しょせん女、女ごとき、という色メガネを取る闘いが続いていたんです」
選手のロッカールームにメディアの取材を伝えに行けば、無視されたり、「お前が受けとけや」とかわされる始末。
女子トイレで泣いては、何もなかった顔で現場に戻る日々が続いた。
田口恵美子さんが続ける。
「彼女は、働く姿、もっと言えば生きる姿を見せながら、周りの気持ちを動かしていったんです。例えば、広報という立場上、選手と一緒に球団バスで移動します。そのときも、見送る女性ファンの気持ちを逆なでしないよう、バスの通路にしゃがんで姿を消していました。そういう地道な努力のひとつひとつが、周りの見る目を変えていったんですね」
入社から数か月、いつものように選手に業務連絡を無視されていると、リーダー格の門田博光選手が言った。
「もうやめたれ。こいつ、がんばってるやんけ」
そのころからだ。周りの態度が変わっていった。
「ありがたくて、とにかく期待を裏切らないよう、無我夢中で働きました。それこそ1年の360日を仕事するほどに。疲れなんか感じなかった。若かったし、何より、充実していたので」
1991年には、あのイチロー選手がドラフト4位で入団。若手の成長も見守った。
結婚、そして出戻りで針のむしろ
駆け抜けるように働くこと3年半。やがて、太田垣さんは退職の道を選んだ。
「やれることをすべてやって、完全燃焼したこともあるけど、親の結婚プレッシャーが、すごかったんです」
そう、太田垣さんは由緒正しきお嬢様。太田垣家の娘は、「適齢期に見合い結婚する」という、厳しいしきたりがあったのだ。
「親元から逃げ出したくて選んだ相手だから、目が曇って、結婚に失敗しちゃった。もう20年以上も昔の話になるんですね」
とっくに気持ちにケリがついているのだろう。あっけらかんと話す。
26歳で、病院経営者と見合い結婚したものの、夫の女性問題と借金が発覚し、わずか3年半で離婚。生後6か月の長男を連れて戻った実家は、針のむしろだったと振り返る。
「出戻りなんて許されない家風なので、“近所に顔向けができない”“一族の恥さらし”と、母や嫁いだ姉にまで、嘆かれました。このとき、腹をくくったんです。どうせ異端児なら、しきたりに縛られず、自由に生きていこうと」
そのためにも、必要なのは、子どもを育て上げる経済力。
何か資格を取ろうと考えていた矢先、離婚裁判で世話になった女性弁護士の「司法書士なんかいいんじゃない」、の言葉に心が動いた。
司法書士の国家試験は、合格率2~3%の超難関。
「貯金をはたいて、予備校の費用を入金してから知った」というあたりが猪突猛進の太田垣さんらしい。
息子と2人生活、そして5回目の受験
早々に実家を出てからは、小さなアパートで親子2人の生活を始めた。
息子を保育園に預けて、半年予備校に通い、修了後は、会計事務所でフルタイムで働きながら独学で勉強した。
「夕方、保育園にお迎えに行って、ごはんを食べさせ、風呂に入れ、寝かしつけてから、洗濯して。ようやく机に向かえるのは23時ごろ。莫大な勉強量なので、明け方までかかることも多くて、いつも睡眠不足。ヘトヘトでしたね」
経済的な貧しさも、追い打ちをかけた。
「収入は手取り12万。家賃を払って、受験費用を貯金したら、食費に使えるのは、わずか月1万円。生活はカツカツで、近所のサンドイッチ屋さんで大量にパンの耳をもらって、節約するほどでした」
貧しい生活も、合格すれば笑い話になるが、年に1度の試験は、何度受けても不合格。3年、4年と落ち続けるうち、心は荒んでいった。
「実家は絶縁状態で頼れないし、別れた夫も約束の養育費をすぐに払わなくなっていました。通帳を記帳に行くと、今月も入ってないと落ち込むので、銀行にも行けなかったな。人間不信になって、人生、後悔だらけ。交差点で信号待ちしながら、車が突っ込んでくればラクになれるのにって思ったこともあります」
そんな太田垣さんにとって、唯一の光は、ほかでもない息子の存在だった。
「子ども心に、私の試験を気にしていたんですね。神社に行けば、“お母さんが受かりますように”って小さな手を合わせてくれて。子どもがいたから、どうにか踏みとどまれたんです。それからは、洗面台の鏡やトイレまで、暗記の付箋だらけになるほど、限界を超えて勉強しました」
朗報が届いたのは、丸6年が過ぎた、5回目の受験でのこと。
このとき、親子で喜びながら、確信していたという。
「これで貧困生活から抜け出せる」と。
「太田垣章子です! って名乗ったら、間髪入れずに続けました。無給で1か月、働かせてください!」
司法書士の資格があれば、就職先は引く手あまたと思いきや、現実は厳しかった。
「36歳、実務経験なしのシングルマザーですからね。履歴書を30通以上送っても、面接すらしてもらえませんでした」
そこで、ようやく面接にこぎつけた大阪の司法書士事務所で、「無給で1か月!」と、押し切ったわけだ。
試用期間を持ちこたえ、本採用されてからは、石にかじりつくように働いた。
1年が過ぎ、仕事に慣れてからは、休日返上で、飛び込み営業も始めた。
「自分で仕事を取ってくれば、売り上げの4割が基本給に上乗せされたんです。給料は手取りで15万円。これじゃ、以前と変わらない。息子を大学に行かせるためにも、自力で稼ごうと、土日に息子をボーイスカウトに行かせて、不動産会社を回りました。事務所が得意とする、不動産登記の仕事を取るために」
しかし、何十軒回っても、門前払い。話すら聞いてもらえなかった。
“明け渡し交渉のあやちゃん”の誕生
そんなある日。「今、家賃滞納のトラブルで忙しいから」、いつものように門前払いされかけた太田垣さんは、ピンときて、とっさに口走った。
「それ、私が解決できます!」
折しも、平成14年の法改正で、認定を受けた司法書士は簡易裁判所で裁判の代理業務ができるようになっていた。
「そのころ、司法書士の多くは、過払い金の債務整理の仕事に流れていて、賃貸滞納トラブルは、まさに穴場。これを機に、次々と仕事をいただけるようになりました」
最初の依頼主であり、太田垣さんに15年以上も仕事を任せている、アーバンライフ住宅販売株式会社代表取締役・高津謙吉さん(65)が話す。
「不動産登記をする司法書士は、ごまんといますが、太田垣先生のように、賃貸トラブルや立ち退き交渉を引き受けてくれる司法書士はほとんどいません。仕事ぶりは丁寧、かつ早い。弁護士に頼むより、時間も費用も格段に削減できます。
それにね、彼女は滞納者にも実に親身なんです。いつだったか、社内でカラオケに行ったとき、お子さんを連れて来ていたけど、離婚して、苦労したんでしょうね。人の気持ちを酌み取れる。そういう人間性も含めて、安心して仕事を任せています」
ほどなく、売り上げは年間1千万円を突破。「明け渡し交渉のあやちゃん」と呼ばれるほど、その名は業界で知られるようになった。
そんな太田垣さんが、独立を決めたのは、入社から4年半が過ぎたころ。
「本当は、ずっと勤めていたかったけど、代表から、“おまえは独立してやっていけるタイプの人間だ。今の勢いに乗れ!”と背中を押され、覚悟を決めました」
こうして、一国一城の主になったのは2006年。節目の40歳を迎えたときだった。
独立を決めたとき、自分と約束したことがあるという。
「息子に、“おかえり”を言える場所で開業することです。中学生になった息子は、思春期で口数も少なくなっていたので、一緒にいる時間を増やそうと」
最初は自宅の一室を仕事場にし、半年後に事務所を構えた際も、自宅から徒歩3分の場所を選んだ。
ところが、母の思いとは裏腹に、突然、息子から切り出されたのは、親離れ宣言ともとれる、決意表明だった。
「長野の山奥に、山村留学したいと言い出したんです。わずか13歳で、親元を離れるなんて、考えたこともなかったので、驚きました。でも、息子は本気でした。地元の中学になじめなかったこともあるけど、ボーイスカウトで山に登ったり、自然の中にいるのが大好きだったんですね。どうしても行かせてほしいと」
考えた末、承諾したのは、息子の意志が固かったこともあるが、現地を見学して、太田垣さん自身が大自然に魅了されたからだという。
「でもね、納得したつもりだったのに、送り届けた帰りは大泣き。寂しくて─」
それからは、ぽっかり空いた心の穴を埋めるように、今まで以上に仕事に打ち込んだ。
シングルマザーだったからこそ
業界紙の『全国賃貸住宅新聞』で連載が始まり、知名度はさらにアップ。セミナーや講演にも呼ばれるようになり、活躍の場を広げていった。
その一方、どんなに忙しくても、息子に会いに行った。
山村留学の保護者として出会った、ママ友の槙倫子さん(58)が話す。
「年に10回ほどある、親が参加できる行事に、章ちゃんは毎回欠かさず来ていました。大阪から長野まで、片道430キロの距離をひとりで運転して。仕事を終えてから来るので、着くのはいつも深夜。あの性格なので、疲れた顔は見せなかったけど、どれだけ大変だったか。思春期の息子さんは、章ちゃんが来ても、うれしさは顔に出さなかったけど、お母さんの気持ちは伝わっていたはずです」
山村の中学を卒業後、息子はカナダの高校に留学。
自立心旺盛の息子に負けないよう、太田垣さんも、独立から5年後、2011年に、大阪から東京に進出。
ゼロから顧客を開拓し、8年目を迎えた今、5人のスタッフを雇うほど、仕事を軌道に乗せている。
「24歳になった息子は、大阪で頑張っています。いろいろ模索中みたいだけど、大自然の中で育って、サバイバルにはめっぽう強いですからね。どんな大人になるか、楽しみにしてます」
太田垣さんの事務所には、毎年、母の日に花が届く。
「章先生は、私にとって第二のお母さんなんです」
そう話すのは、贈り主の岩崎美和さん(仮名・37)。
7年前、当時の夫が家賃を滞納し、太田垣さんから督促が来たのが始まりだった。
「夫の無責任さに驚き、“そんな男とは別れたほうがいい”と、いきなり章先生に言われて、2度びっくり(笑)。離婚のときは、弁護士も紹介してもらいました。母子家庭になって働き始めたころは、よく覚えていないほど大変でしたが、章先生は法的なアドバイスだけでなく、シングルマザーの先輩としても、仕事の道筋をつけてくれて。ようやく生活が安定して、恩返しのつもりで花を贈っています」
シングルマザーの太田垣さんは、同じ立場の女性への思い入れが人一倍、強い。今回、出版した本の印税も、全額をシングルマザー支援のために寄付するほどの力の入れようだ。
「家賃を滞納するシングルマザーは、別れた夫からの養育費が払われず、実家の親も頼れないケースがほとんどです。1度、貧困に陥ると、生活の立て直しは難しい。マイナスのスパイラルから抜け出せず、子どもの代にも貧困が連鎖してしまう。そうならないためにも、母親が経済的に自立できる新たな仕組みが必要なんです」
太田垣さん自身、司法書士に合格するまで丸6年、貧困生活を余儀なくされたのは、6万円台の家賃が重くのしかかったから。
この部分を、国や行政で負担する仕組みを考えている。
「今、空き家が大幅に増えていますよね。これを国や行政が借り上げ、シングルマザーのシェルターにできないかと。一定期間、家賃の心配がなくなれば、資格取得のために学校に通ったり、自立に向けた準備ができます。シングルマザーに限らず、精神的に弱って引きこもってしまった家賃滞納者にも、敗者復活ができる環境を、整えていきたいと考えています」
年間70回を超えるセミナーや、政府、行政の勉強会に呼ばれては、現状を訴える。
「こないだは、山下貴司法務大臣に、面会時間をつくってもらって、シングルマザーの現状を伝えてきました。1度では時間が足りないので、また行くつもりです!」
臆することなく大物にも会いに行く。そのフットワークのよさと、押しの強さは、舌を巻くほどだ。
「私の力なんて、微々たるものです。でも動かなければ、何も始まらない。そもそも私が司法書士に合格したこと自体、奇跡みたいなもの。それは、人の役に立てってことなんですよ。ここまでやってこられたのも、たくさんの人に助けてもらったおかげです。ちゃんと恩返ししないと、ばちが当たっちゃう」
現在、都内で1LDKの賃貸マンションにひとり暮らし。「財産らしいものなんて、何も持ってない。実家とも絶縁状態だから、両親が亡くなってからも、何も相続してない」と、さらりと言う。
「だから、仲のいい大家さんに今から頼んでるんです。私が年寄りになっても、部屋を貸してねって。高齢の大家さんがボケて忘れちゃうといけないので、跡継ぎの息子さん、紹介しといてって(笑)」
朗らかな笑顔の中に、静かな闘志を忍ばせる。
太田垣さんは、今日も家賃滞納の現場に足を運ぶ。人生の仕切り直しを手伝うために。
取材・文/中山み登り(なかやまみどり)ルポライター。 東京都生まれ。高齢化、子育て、働く母親の現状など現代社会が抱える問題を精力的に取材。主な著書に『自立した子に育てる』(PHP)『二度目の自分探し』(光文社文庫)など。高校生の娘を育てるシングルマザー。