4月6日に急逝した、元十両力士の彩豪(さいごう・本名/墨谷一義)さんの納骨が6月2日に行われた。彩豪さん44歳の誕生日となる9月7日には、『囲む会』の開催が決まっている。
4月14日の通夜には師匠であった元中村親方をはじめ、角界から藤島親方や錣山親方、豊ノ島や妙義龍、佐田の海ら大勢が弔問に訪れ、冥福(めいふく)を祈った。元十両力士の通夜に大勢の角界関係者が集まるのには、現役を引退してからも相撲界に大きく貢献してきた彩豪さんの功績と、相撲への深い愛情があるからだ。
だからこそ巡業をやりたい
彩豪さんは1975年に埼玉県で生まれた。1991年3月場所で初土俵を踏み、1995年九州場所で十両に昇進し、師匠だった元中村親方が「力士の鑑(かがみ)」と言うほどにまじめで稽古熱心。1996年五月場所では西十両5枚目まで昇進。幕内を狙える位置だったが、番付運などにも恵まれず、1年後には幕下に陥落。それでも1場所で十両に復帰し、計11場所、十両の地位を保った。
しかしケガが重なり、2005年一月場所に引退。その後は家業の工務店に務めて修業を積みながら、2010年に墨ホーム企画を設立。そこから相撲との関わりを再び深めていく。
「彩豪関に初めて会ったのは、自分がまだ境川部屋で現役のころでした。当時、境川親方が巡業部の担当で、彩豪関は『巡業をやりたい』と相談に来たんです。でも、そのときは彩豪関と直接、話をするわけではありませんでした」
そう語るのは、元力士の橋本隆雄さん(39歳)。彩豪さんの最期を看取った方だ。
「その後、自分も引退し、知人を介して彩豪関に再会しました。それで彩豪関のお父さんの工務店や彩豪関の事務所を手伝うことになったんです。
境川親方に巡業開催の相談に来たときは、ちょうど相撲界が激震のころでした。当時は人気もガタ落ちで、巡業も中止か? と、ささやかれていたのですが、彩豪関は『だからこそ巡業をやりたい』と言っていたそうです。
その年は結局、巡業はできなかったのですが、2012年に初めて『さいたま場所』を開催し、翌年に定年を迎える彩豪関のかつての師匠、中村親方を土俵に招いて花束を贈呈しています」(以下カッコはすべて橋本さん)
2011年の大相撲八百長騒動。三月場所は行われず、翌場所は技能審査場所として無料開催。相撲人気はどん底だった。彩豪さんは、そんな中だからこそ相撲のために「何かしたい!」と立ち上がり、動き出した。
「巡業をやるとひと言でいっても、とても大変です。彩豪関は力士時代に巡業を経験していますが、裏側がどんなふうに進行しているのかなんて何もわかりません。そこで彩豪関は、各地の巡業を自分の足で見て歩き、勉強をし、巡業をいちから作ったんです。
土俵の土だって、どこに注文したらいいのか? 協賛を受けるには? 実行委員会は? と、問題は山積みでした。さいたまスポーツコミッションというスポーツを通じた地域活性化のための団体の助けを受けて、ひとつずつクリアしていったそうです。それだけでなく、飛び込みで営業にも行ったと聞いています」
そうやって彩豪さんがいちから作った『大相撲さいたま場所』は、昨年までで6回開催され、筆者の私も2度ほど足を運んでいる。
ファンとおすもうさんがちょうどいい距離感で交流し、とても温かい雰囲気にあふれ、相撲ファンの間でも特に人気の高い巡業先だった。
「みなさんが感じてくれた雰囲気、それこそが彩豪関が目指した巡業の形だと思いますよ」と橋本さん。
私は取材として設営のお手伝いをさせてもらったこともあるが、彩豪さんは見ず知らずの私を快く迎えてくださったのを覚えている(当時のコラム記事「さいたま巡業に参戦!土俵からゴミ箱作りまで、そして鶴竜に萌え♪」)。
喜界島で見た子どもたちの姿
「それとともに彩豪関は、子どもたちの未来をとても考えていました。埼玉相撲クラブの顧問をして、小中学生に相撲を教えてもいましたが、“もっと何かできないか?”をずっと考えていたんです。
そして、去年のゴールデンウイークに僕の故郷である鹿児島県の喜界島に一緒に行ったときのことです。今は廃校して宿泊施設になっている小野津小学校の校庭でバーベキューをしていたとき、ふと子どもたちを見ると、校庭の真ん中にある土俵で相撲を取っていたんです」
ついさっきまで、遊んでいた花火を使い果たし、「つまんなーい」と言っていた子どもたちが見つけたのは、土俵だった。
「下は2歳から上は中学3年生、お兄ちゃんは下の子に負けてあげたりと、ワイワイ楽しそうにやっていました。それを見た彩豪関が『これだ!』と、突然、言い出したんです。『土俵があれば、子どもたちは自然に相撲を取る!』と言い、そこから、なぜかふたりで泣きながら相撲を語りました(笑)」
2人の熱いトークから『100年後の国技を守るために~彩豪プロジェクト』が始まった。日本中の土俵を直し、作り、子どもたちが相撲を取る環境を整えていく。100個の土俵を作ろう(直そう)、そう決めた瞬間だった。
「それもただ作るだけじゃなく、その後も自分たちがいなくてもメンテナンスをやっていけるようにと、あらかじめ地元の人たちと一緒に作ることも考えました。日本中の土俵を考えていたので、例えば九州場所の時期なら、土俵作りのプロである呼出しさんたちをお招きして、一緒に作ってもらうのはどうか? など、後々のことまで考えて計画していました。
でも、それにはある程度の資金が必要だった。そこで、知り合いからYouTubeで動画配信をしてみたら? とアドバイスを受け、その収益をプロジェクトにあてることにしたのです。YouTubeについても彩豪関は自分で勉強して『彩豪ちゃんねる』を立ち上げました」
『彩豪ちゃんねる』では力士だけでなく、行司さん、呼出しさん、床山さんという、裏方さんを大事にしてきた彩豪さんらしいインタビューをしてみたり、畑をやってみたり、元力士の飲食店を訪ねてみたり、料理を作ったり。そして、土俵をいちから直すプロジェクトの第一弾として選んだのが、顧問を務める埼玉相撲クラブの土俵築(土俵を直す)から始めた。
突然の別れ
「土俵崩しは自分と彩豪関の2人でやりました。動画をご覧になっていただければわかりますが、すごい力仕事です。彩豪関は30分ぐらいで疲れちゃって(笑)。すごく大変な作業なんですが、実は“今ある土俵”を探すこと自体も、けっこう大変なんですよ。
今はそもそも土俵が減っていますし、あったとしても高低差でケガをするから危険だから使ってないところも多い。でも、そういうところは単純に、段差を低くしてあげればいいんです。彩豪関は、そうやって視野を広めて柔軟に物事を考えていました」
しかし4月6日、突然に別れが訪れる。
「その日も『彩豪ちゃんねる』のために、旧中村部屋の塩ちゃんこを作って動画にあげようと、朝8時半に浅草の事務所で会いました。食材などを買いに出かけ、事務所に戻ると、彩豪関の様子がおかしくて。『水、飲みますか?』と話しかけましたが、息が荒くなり、返事ができるような状態ではありませんでした。すぐに救急車を呼んだのですが……。死因は致死性不整脈の疑い、ということだそうです。いまだに信じられません。この数年は、自分の家族よりも長い時間を過ごしていましたから、亡くなったことが信じられないんです」
それでも橋本さんは少しずつ、彩豪関の思いを受け継いで動いていこうと思っている。すでに、迷いながらも動き始めている。
「彩豪関は特別な人です。僕には愚痴をこぼすこともありましたが、それでも誰のことも見捨てないで、必ず一緒に進んでいく。『オレは腹黒い人間だよ』なんて悪ぶって言うこともありましたが、そんなのもう、ぜんぜん真逆です。葬儀に来てくれた人の数を見れば、いかに彩豪関に人徳があったかがよくわかります」
今もどこかで隠れて見ているのでは
今年の『さいたま場所』は、これまで使っていた体育館が改修する関係で、いったん、休むことが決まっているが、橋本さんは「また再開させたい」と意気込む。彩豪さんと計画していた巡業は、それだけではない。橋本さんが続ける。
「昨年、彩豪関と喜界島に行ったのは、2021年に巡業をやろうという計画があったからでした。彩豪関に『たかおちゃんがやればいいじゃん?』と言われたのですが、まだノウハウがない僕は『やりたいけど、無理だと思う』と言ったんです。そしたら『やるか、やらないかだよ。ちゃんとやれば、みんなが協力してくれるよ』って彩豪関が言ってくれたんです。
小野津小学校は自分が通った学校で、裏はすぐ海。とてもいい環境です。体育館もあり、学校の建物が宿泊所になっていて、調理場やシャワーもある。校庭の土俵を直し、屋根を建て、そこで巡業が開けたら……。それに向けて今すぐに動き出すには難しいことも多いかもしれませんが、探り探り、関東近辺の土俵築から少しずつやっていけたら、と思っています」
橋本さんは「彩豪関に試されてるような気がします。今もどっかに隠れて見ているんじゃないか? って」と言う。
五月場所の初日前日、彩豪さんの事務所には毎回恒例となっている、相撲の開催を告げる「触れ太鼓」がやってきた。いつもは彩豪さんがお願いをして来てもらっていたが、この日は呼出しさんたちからの申し出で、来てくれたのだという。
「本当はおめでたいものなんですが、みんなで泣いて、泣いて……」
彩豪さんの遺影の前で弾かれる太鼓の音色は、みんなの涙を誘った。
十両力士・彩豪。本名・墨谷一義。享年43。相撲を愛し、相撲のために、そして家族のために生きた。出会う人みんなを愛し、愛された人。どうぞ天国でゆっくりとお休みください。そして、いつまでも相撲を高い空の上から見守っていてください。
和田靜香(わだ・しずか)◎音楽/スー女コラムニスト。作詞家の湯川れい子のアシスタントを経てフリーの音楽ライターに。趣味の大相撲観戦やアルバイト迷走人生などに関するエッセイも多い。主な著書に『ワガママな病人vsつかえない医者』(文春文庫)、『おでんの汁にウツを沈めて〜44歳恐る恐るコンビニ店員デビュー』(幻冬舎文庫)、『東京ロック・バー物語』『スー女のみかた』(シンコーミュージック・エンタテインメント)がある。ちなみに四股名は「和田翔龍(わだしょうりゅう)」。尊敬する“相撲の親方”である、元関脇・若翔洋さんから一文字もらった。