トランプ大統領

 安倍首相とともにトランプ大統領が国技館で大相撲を観戦してから、1週間あまりがたった。その間に川崎で無差別殺人事件なども起こり、もはやそんなことを話題にする人もいなくなったが、私はずっと考えてきた。あれは一体、なんだったんだろうか? 相撲界に残した影響は? あれから私たちは何を学ぶべきだろう? 一瞬のことに忘却してしまいがちだが、忘れないために書いておきたい。

昭和20年5月26日

 あのとき、私はたまたま『神風一代』(日本放送出版協会/昭和62年)という本を読んでいた。昭和30年代、NHKラジオの大相撲中継の解説で名を馳(は)せた元関取の神風正一さんが書いた回想録だが、あまり記録が残っていない「第二次世界大戦時の大相撲界」についても当事者の立場から記したたいへん貴重な記録だ。それを読むと、驚くことに戦争中も本場所は行われていた。

 関取となっていた神風は昭和16年に赤紙が届いて召集されるも、翌日には帰郷する。当時、関取クラスは「合う軍服がない」とか、大相撲が国威発揚にも利用されていたこともあり、召集、即、帰郷がほとんどだった。

 しかし、そのぶん序の口~幕下の若い力士たちは次々召集され、最初のうちは番付表の欄外に応召力士としてしこ名が書かれていたものの、書ききれなくなってやめてしまった。戦地に赴いた力士の死亡者数はいまだはっきりとわかっていないそうだ。

 昭和17年からは国技館も自粛ムードに覆われ、飲酒禁止、自家用車の乗り入れ禁止、初日は「忠霊塔建設寄付相撲」と呼ばれて五十銭均一で入場券が売り出されたりもした。それでも昭和18年1月、ニューギニアのブナで日本軍が全滅、ガダルカナル島から撤退などのニュースが伝えられる中でも、大相撲だけは相変わらずの大入り満員だったとある。

 しかし、戦争の影は日に日に濃くなり、昭和19年にもなると、国技館そのものが「風船爆弾の製造施設」として軍に接収される。関取たちも浴衣のかわりに国民服を着て鉄兜(てつかぶと)を背負って場所入りをしていたそうだ。場所といっても、会場は後楽園球場だ。

 昭和20年にはこの後楽園球場も使えなくなり、明治神宮外苑の相撲場で五月場所が5月26日から7日間行われる予定だった。ところが、その前夜に東京は再び大空襲に見舞われ、相撲場は焼け落ちてしまう。それでもなんとしても本場所を! と、屋根が焼け落ちてボロボロになった国技館を使うことにして、非公開で本場所を開催する。

 神風さんはそのときの気持ちを《みじめな想いがこみあげる中で(中略)観客は傷痍軍人と招待客のみ。ひっそりとした場所に行司だけの声がうら寂しく響き渡っていた》と書いている。この日、大相撲は破壊されたのだ。文化もへったくれもなく、戦争がすべてを破壊した。

用意した一脚50万円の椅子

 それから74年後の同じ5月26日、トランプが国技館へやって来た。なんたる因縁だろう。日付を知って、私は「あああああ」と声に出してため息をついた。

 74年前は物理的に相撲が破壊され、そして今回は精神的に相撲が破壊されたように私は感じている。

 相撲が政治に利用されることはこれまでにも多々あった。そもそも日本の大相撲の始まりは平安時代の「相撲節(すまいのせち)」という宮中の行事にあり、それは全国から強い人を集めて相撲を取らせ、税にかえて中央に人を召し抱えた。相撲節は中央集権時代の象徴。地方に天皇の力を見せつけ知らしめるために行われていたのだ。

 そう考えていくと、今回のように大相撲が政治に利用されるのはいたしかたない? 

 しかし宮中で相撲はいかに雅(みやび)に美しく成り立たせようかと配慮されたように、これまでどんなに政治利用しても大相撲の美を壊そうということはなかった。

 文明開化の明治時代、大相撲は「裸で髷(まげ)なんてとんでもない」と不人気になって絶滅の危機にあった。そのとき逆にその姿、大相撲の文化をそのままにして天覧相撲を開き、翌年には日本初の首相の地位を射止めた伊藤博文もいた。たとえ政治に利用しても、そこで大相撲の文化を貶(おとし)めるようなことは誰もしなかった。

 でも、今回は違った。やって来たのは世界に分断をもたらせ、排外主義であからさまに移民や女性を差別し、世界を訪問するたびに“帰れデモ”が起こる大統領だ。

 その大統領のために、土俵に安っぽい合板の階段がかけられた。美しい土俵にあんな安っぽい合板の階段なんて! たった2~3段だろう? 今まで土俵に階段なんて使ったことがない。杖(つえ)をつくような方が土俵に上がるときには呼び出しさんらが介助をして上がる。

 トランプはべつだん足が悪そうには見えない。だいたい、国技館に来る前にはゴルフを楽しんだというじゃないか。それなのに、彼のためにあの階段? 

 場所中の土俵には神さまがいると長い間言われてきた。そうでなくても、場所中の土俵はチカラビトたちが命がけで闘う特別な場所だ。そこへあんな醜悪な階段をかけるなんて!

 トランプと安倍首相が夫人とともに入ってくる通路に赤いじゅうたんを敷き、拍手で迎えさせた場面なんて、まるでプロレスの入場風景だった。プロレスが悪いと言ってるのではない。大相撲にそぐわない、と言っているのだ。あんな仰々しい入場は大相撲が培ってきた文化ではないだろう。

 マス席に4人のために置いたイスは1脚50万円、4脚で200万円だという。トランプはそこにつまらなそうな顔で座り、腕を組み、拍手もろくにしていない。彼が笑顔になったのは、自分が優勝した朝乃山にトロフィー渡したときだけ。

 自己顕示欲丸出しに嬉々(きき)とする子どものようだ。アメリカに住む人が、トランプはいつもああだ、自分の興味のないことには興味のあるふうに装うことも一切しないと言っていたが、本当にそうだ。なんてバカにしているんだろう。

神事と興行が破壊された

 テレビの中継にはそれらを拍手で迎える相撲ファンの姿ばかり映っていたが、会場にいた友人によると、4人が入場の際には「立ち上がるな」「座れ」「相撲を見に来たんだろ!」「帰れ!」と怒鳴るファンもけっこうな数がいたそうだ。

 そうした相撲ファンの声はかき消されたが、その声があったと聞いて安心した。あの際、5分ほども土俵の脇で待たされた朝乃山と御嶽海は、相当に集中力を保つのが難しかったろう。実際、御嶽海はそのことに後で言及していた。

 また国技館前では、これまでも長年にわたってレイシストによるヘイトスピーチにカウンターをかけてきた人たちが、アンチ・トランプのバナーを掲げて沈黙の抗議を決行。

 しかし、これは瞬く間に警察に連行されてしまい、そのさまはアメリカのテレビ局が伝えた。レイシストへの強い抗議、それはヘイト・クライムを防ぐためにとても大切であることは、この何年も言われてきた。無言でいることはヘイトスピーチに加担することもナチス・ドイツから人類が学んできた。

 国技館入り口では観客も持参のペットボトルなどすべて没収され、紙カップの飲み物さえも『その場で飲んで中身を示せ』と言われる始末。荷物チェックもあって長蛇の列となり、季節はずれの暑さの中、入場までに時間がかかって、検査する係員の方々もまたたいへんな疲労をしたという。

 またそのチェックは力士や行司さん、呼出しさん、床山さん、また報道されたように「湯呑みや急須も使えない」お茶屋さんといった全員に及んだ。国技館の裏側では、私物は全部持ち帰ってくださいの紙が貼られ、床山さんのハサミまでもチェックされたりと、場所中のいちばんたいへんな千秋楽は大混乱になったそうだ。

 大切に守られてきた大相撲の文化に、しかも最も大切な千秋楽にこんなふうに急にどかどかと踏みこんでくる、一体なんなんだろう?

 国賓だからしかたない? 昔、フランスのシラク元大統領やイギリスのチャールズ皇太子とダイアナ皇太子妃は2階席で見て、そんな混乱はなかったと聞く。そもそもトランプは相撲が好きだ、見たい、と自分で言ったのではなく、安倍首相側がどうやってトランプを歓待するかを考えてのあれこれだったと新聞各紙が報じている。

 よもや自国の首相によって相撲文化がこのように荒されるとは、思ってもみなかった。その見返りに何かよほどいいことがあるのかと思いきや、スイスでは国民投票で決められるという「5月に青森沖に墜落していまだに操縦していた自衛官も不明なままで、事故原因も解明されていない戦闘機F35」を6兆円もの税金で購入することが両者の会談だけで決まってしまったと報道されている。さらに選挙後に農業分野で大幅な譲歩をするというではないか。豊作を願って神事としての相撲が育ったのだ。相撲の根本が侵されるなんて!

 いろいろなことが日々起こって、相撲のことはもう過去のことだ。すっかり忘れられている。しかし神事であり興行でありスポーツである大相撲のさまざまな部分が侵害されたことを忘れたくない。

 土俵は荒され、お客さんは迷惑した。神事と興行が破壊された。暑さでお年寄りなどは相当に体力を消耗したと聞く。力士だって待たされ、花道へのペットボトル持ち入れ禁止などで、それぞれが集中力を保つのが難しく、スポーツも荒された。ヘタをすれば健康への被害だってありえた。

 これまで大切にしてきた相撲文化が侵された日。令和元年5月26日。後々の相撲ファンのためにも記しておきたい。もう、2度とこういうことがないために。


和田靜香(わだ・しずか)◎音楽/スー女コラムニスト。作詞家の湯川れい子のアシスタントを経てフリーの音楽ライターに。趣味の大相撲観戦やアルバイト迷走人生などに関するエッセイも多い。主な著書に『ワガママな病人vsつかえない医者』(文春文庫)、『おでんの汁にウツを沈めて〜44歳恐る恐るコンビニ店員デビュー』(幻冬舎文庫)、『東京ロック・バー物語』『スー女のみかた』(シンコーミュージック・エンタテインメント)がある。ちなみに四股名は「和田翔龍(わだしょうりゅう)」。尊敬する“相撲の親方”である、元関脇・若翔洋さんから一文字もらった。