「そもそも日本の教育政策というのは、確固たる方向性があって進んでいるわけではなく、さまざまな思惑がまじり合って一進一退を続けているのが現状です。いい方向性の政策もあれば、問題のある動きもあります」
そう語るのは、加計学園問題で時の人になった元・文部科学事務次官の前川喜平氏。現在は『現代教育行政研究会』代表として自主夜間中学でのボランティアの傍ら、全国各地を講演で行脚する身だ。その前川氏に現代の教育行政の問題点とあるべき姿を語ってもらった。
大学入試改革はゆとり教育の延長線上にある
前川氏が教育行政の中で評価するのは「ゆとり教育」の考え方だ。ゆとり教育とは、与えられた知識を次々に暗記する「詰め込み教育」の反対語で、教える知識は一定の限度にとどめ、子どもの主体性を重視して自分で考える力を養うことに重点を置く。
文部科学省が定める初等・中等教育での教育課程基準「学習指導要領」では、1980年代からゆとり教育が始まった。
「高度成長期の教育に求められたのは均質な能力の人材育成。しかし、経済成長が陰りを見せ始めた'80年代以降、画一的ではない子どもひとりひとりの主体性・個性を伸ばすことが必要との考えが高まりました。その結果がゆとり教育の導入でした」
2011年に小学校で実施が始まった改訂学習指導要領で、文部科学省は子どもの学力低下を懸念する声を受けて「脱ゆとり教育」へと舵を切り始めたが、来年から実施される改訂学習指導要領では、新たに「アクティブラーニング」という言葉が取り入れられた。
アクティブラーニングとは、子ども同士が議論や協調しながら、積極的に授業に参加し、考えながら課題を解決する力を養おうとする試み。実は、ゆとり教育が目指した考えそのものなのだ。
「子どもが遊びという自発的な行動から学んでいく幼児教育は、まさにアクティブラーニングの典型です。ゆとり教育は同様の教育姿勢を、小学校以降でも取り入れるという考えでした。その意味では'20年からの大学入試改革も、この流れの延長線上にあると言えます」
大学入試改革では、知識偏重でマークシート方式の「大学入試センター試験」が、記述問題、英語の「話す」「書く」を導入して思考力・表現力を問う「大学入試共通テスト」に変更される。
「もっとも、どんなに改善しても共通テストは約50万人が一斉に受験する仕組みで、自ら学び考える力を十分に判定することは不可能です。むしろ改革の本丸は個別大学の2次試験で、なかでも私は'17年にお茶の水女子大学が導入した『新フンボルト入試』に注目しています」
新フンボルト入試は受験生が1次選考でお茶の水女子大学の教員が行う専門研究に関する授業を受け、そのレポートを提出。2次選考では文系受験生は大学図書館で与えられた課題の情報検索を行い、レポートを作成。それを基に集団で議論を行う。
理系受験生は実験室を使って独自の実験や分析を行い、その成果を発表する。思考力や表現力を重視した新しい入試制度だ。
「大学入試改革に合わせて、新フンボルト入試のような自ら学ぶことを時間をかけて判定する仕組みが他大学でも進めば、過去の詰め込み教育では対応できない探求型の学力育成として望ましい方向性が生まれます」
その一方で前川氏が危惧するのが、平成の後半に起きたいくつかの教育行政の変化だ。具体例のひとつが'07年から小中学校最高学年の生徒全員を対象に始まった国語、算数(数学)の『全国学力・学習状況調査』(通称・全国学力テスト)である。
「学習到達度を測るためいくつかの学校で抽出的にテストを行うのはかまいませんが、全国一斉実施は弊害が多いと感じます。実際、全国学力テストの点数を都道府県間、市区町村間あるいは学校間で競争する現象が起きています。なかにはテスト結果を校長の評定に反映するという自治体もあるほどです。
ペーパーテストでは学力の一部しか測れないにもかかわらず、テストの点数を競う部分だけが肥大化して教育現場がゆがめられつつあります」
道徳の教科化に警鐘
だが、それ以上に問題なのは、教育基本法改正や愛国心教育、道徳教科化など、教育への政治の介入を強くにおわせる政策にあると前川氏は指摘する。
そもそも安倍晋三首相は従来から“戦後レジーム(体制)からの脱却”を掲げ、教育基本法について「日本人として生まれたことに誇りを持つべき内容が欠落している」と指摘していた。
そのため'06年、第1次安倍政権で、学校教育を通じて日本国憲法を国民に根づかせるためにあった教育基本法を改正。「わが国と郷土を愛する態度を養う」という教育目標を加え、愛国心を根づかせるものに変えた。
そして、'12年からの第2次安倍政権では、首相の私的諮問機関である『教育再生実行会議』が提言した道徳の教科化が、そのまま政策に移されている。
「例えば現在の政権中枢には、戦前の『教育勅語』の一部内容は普遍性があり、現在の教育にも取り入れるべきと堂々と主張する政治家がいます。
しかし、教育勅語の根底思想は、家は家長である父、家の集合体である国家は天皇を筆頭として忠孝を貴ぶもの。これは戦後の日本国憲法が目指した個人の尊重や第24条の家庭生活での男女の本質的平等に反します。この内容に現在も普遍性があるというのは、間違った考え方」
戦前の道徳教育である教育勅語を基にした「修身科」は戦後廃止されたが、'58年の学習指導要領改訂により道徳教育は復活した。ただ、この道徳教育は教科書を定めず、成績評価も行わないで、現場裁量が認められてきたものだった。
しかし、'15年の学習指導要領の一部改正で実現した道徳の教科化は、検定教科書を用いて個人内評価することが定められた。
「そもそも道徳は数字で評価ができません。そのため、個々の時間の経過に応じた道徳面での成長度を記述する。それが個人内評価です。しかし、40人近いクラス全員に評価を記述することは、先生の実務的にも教育の意味としてもナンセンスです」
不登校を助長させている恐れ
こうした教育への政治介入と、それに伴う教師の多忙・疲弊が実は、不登校児の増加の一因ではないかというのが前川氏の見立てだ。実際、文科省の調査では、'01年度以降増減を繰り返しながらも減少傾向だった小中学校の不登校児は、'11年度以降一貫して増加し、'17年度には初の14万人を突破した。
「実は私も小学生時代に奈良から東京に転校し、東京のスピードになじめなかったため一時、不登校になりました。その経験を踏まえると、不登校の多くは学校に息苦しさを感じることが原因です」
教育への政治介入はこの息苦しさをどのように強めてしまうのか。
「文科省は'90年代に子どもの自主性を重んじるため校則を見直すよう通達を出しましたが、改正教育基本法では第6条2項が新設され“教育を受ける者が学校生活を営むうえで必要な規律を重んずる”という文言が加えられました。この文言は“ブラック校則”の根拠になります。その結果、学校の息苦しさは増してきたと思われます」
このような中で、家庭での教育のあり方も子どもに与える影響は大きい。家庭教育はどうあるべきなのか?
「何かへの誘導・強制は支配される人間しか生み出しません。子どもが自ら考えるようになるために、まず親自身が自由に考える姿勢を見せることが重要です。
私は面従腹背を強いられる窮屈な職場環境にいましたが、自宅では息子2人の前で組織の論理とは別の自由な考えを語っていました。その影響もあってか息子たちは自由な考えを持っていると評価しています」
そんな前川氏は軍歌レコードにあふれた子ども時代を送り、日露戦争の英雄と称され、明治天皇崩御時に自決した陸軍大将・乃木希典を信奉していた過去を持つ。
しかし、さまざまな人や本に出会う中でその考えも変わっていった。
「もし親にできることがあるとするならば、さまざまな人との出会いを意図的に作ることかもしれません。人は出会いにより考えも変化し、より洗練されていくものです。そしてそのためにも親も子も“自分はこうだから”と決めつけないことです。
最近は子どもの経済的な貧困を救うことを発端に、幅広い子どもが低価格で食事を楽しめる『こども食堂』があちこちで活動しています。こうしたところに参加してみるのもひとつの方法です。というのも、経済的貧困はなくとも人間関係の貧困さを抱える子どもは、少なからずいるはずですから」
(取材・文/村上和巳)