今なお絶大な影響力を持つテレビ界の抱える課題とは?(撮影:今井康一、尾形文繁)

元日本テレビ放送網のヒットメーカーが、テレビ界の内幕を描いたフィクション小説を書き上げた。新米テレビマンを主人公として1999~2016年までの民放テレビ局をモデルにした企業小説『泥の中を泳げ。-テレビマン佐藤玄一郎-』だ。その著者、吉川圭三氏が小説の世界でも描いた、今のテレビ界に蔓延する「視聴率至上主義」の弊害をリアルに指摘する。

昔のテレビ局にはなかった「張り紙」

 民放テレビ局で受け付けを済ませ、厳しいセキュリティーゲートを越えて中に入ると、そこかしこに貼られているたくさんの紙が目につく。そこには前日放送された番組や著しい成績を挙げた番組のタイトルと視聴率の数字が赤い縁取りで、すべてのテレビ局員やスタッフや関係者を鼓舞するように書かれている。

 この紙は視聴率が悪い場合には出ないが、いい場合には必ず貼ってある。そして、調子のいいテレビ局では週の頭の月曜日に「4冠王獲得!」(ゴールデンタイム、プライムタイム、全日、ノンプライムの各時間帯)などと誇らしげに大きく掲示される。

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 私は日本テレビ放送網を定年退職後、ほとんどのテレビ局に出入りしているが、このような貼り紙はNHKを除き、民放各局すべて例外なく各所で見かける。時にこの数字はスポーツ紙の芸能欄などにも「今週の週間視聴率ベスト20」とか「NHKの大河ドラマやフジテレビの月9ドラマが10%を割った」と、高視聴率でも低視聴率でもまるで大事件のように取り上げられる。

 公共放送であるNHKは受信料収入で賄われており、最近とみに国民に対する納入義務が厳しくなり、その額は年間で約7000億円だ。それを横目で見る民放テレビ局にとってはこれほどうらやましい収益構造はない。

 民放テレビ局は「視聴率」が基軸通貨だ。民放は各広告代理店と組み、スポンサー収入が経営の柱を支えている。民放におけるスポンサー収入はタイムとスポットに分かれる。タイム収入は各番組を提供するスポンサーが支払う。スポット収入は番組と番組の間(ステーションブレイク)に入るCMに支払われる。

 視聴率はこれらの収入に直結する。それゆえに民放テレビ局は視聴率の獲得が至上命令となっている。毎分視聴率や視聴者層の分析グラフなどの解析に力を注ぎ、「数字が出やすい」番組をつくる。それによって一部のテレビ局の収益性は高まった。ところが、過剰なほどの視聴率至上主義が弊害を生んでしまっているように私には見える。

 それは2019年現在、各局に同じような番組があふれるようになってしまっていることだ。スタジオでタレントを沢山ひな壇に乗せ、男性司会者と女性アナウンサーをMC席に置き、VTRを見せワイプで人気タレントの顔を抜く。どのチャンネルを選んでも、そんな番組がごまんとある。

 今、私はテレビの世界を離れITと映画と出版の世界にいる。この2年間、大手新聞でメディア時評をやっていたのでテレビを鑑賞し続けたが、同じような番組が横行しているのに辟易した。ユニークな番組を探すのに苦労したのだ。

 古巣のテレビ局の連中とたまに会うとほとんどがこう言う。

「もうSNSやゲームやネットのせいで、全体的に視聴率が落っこっちゃって、困ってますよ」

 コンプライアンス(法令順守)や労務管理などの厳格化も含めて、確かに環境の変化は否めない。ただ、視聴率至上主義で似たり寄ったりな番組があふれかえっている中で、かつて多様性と面白さを追求してきた民放テレビ局のダイナミズムが失われている面も、今のテレビが苦境に置かれていることと無関係とは言えないはずだ。

 私が1982年に日テレへ入社した時には、現在のように番組視聴率の貼り紙はなく、会議などで管理職が視聴率の傾向を読み上げることもまったくなかった。大問題を起こした番組(もちろんコンプライアンスは今に比べて緩やかったが)とシングル、つまり視聴率1ケタを続ける番組が終わることがあったぐらいだ。

「マネをするな」民法テレビ局の矜持

 その頃の民放テレビ局は、何だか良質なものも怪しいものも混在し、夜店の縁日から高級デパートのような品ぞろえだった。時々、意図的なパクリ番組も存在したが、各局の番組の色がはっきり分かれていて、他の民放も意地でも他局や過去の番組やヒット番組のマネはしないとの矜持(きょうじ)があったと認識している。

「時代がよかったからだ」という指摘はあるだろう。とはいえ、当時は当たり前のように「とにかく公序良俗に反してもいいから面白いものを追求せよ」「われわれテレビ局は総務省から免許をもらって運営しているビジネスであるが、これはある種の公共事業であり文化事業だから、社会的意義のあるものをやれ」「他局のマネや過去にやられた事の焼き直しは何があってもやるな」と業界の先輩たちに言われたものだ。

 ひるがえって現在のテレビはどうか。私が日テレにいた頃、若手社員から「コピペ企画書」をたくさん見せられた。私が「これは昔あっただろ? 他局でやってないか?」と言うと「僕はそれを見たことがありません」と当たり前のように言われたことがある。

 作り手も各局の編成も分析に分析のうえで、マネにマネを重ねた結果、人間が何に根本的な興味を持つのかを追求してきていないように見える。それが「若者のテレビ離れ」という言葉に象徴されるような視聴者にソッポを向かれてしまっている要因の1つではないかと思っている。

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「自分たちが面白いと信じるものをやる気持ち」「誰もやった事がないことをやる勇気」「数字だけではなく視聴者と向き合ったものづくりの精神」「才能を育成して行くシステム」は失われてしまったのか。

 今でも先輩から言われた一言を思い出す。

「吉川。パクるのはいい。ただし、本や映画や舞台や個人的体験など別のジャンルからパクれ。テレビからテレビをパクっても、ある程度の数字は見込めるが、タコがタコの足を食っているようなものだ。未来はないぞ」

 NHKのように今後は民放テレビ局もコンテンツのネット同時配信を進めるだろう。放送の新しいインフラ整備は歴史的必然である。今なおテレビの影響力はほかのメディアをしのぐ。だが、コンテンツパワーを高めていかない限り、テレビの世界はまずます難しくなっていく。

 テレビがテレビのマネをし続けていくことを私は危惧している。


吉川 圭三(よしかわ けいぞう)KADOKAWAコンテンツプロデューサー
1957年東京下町生まれ。早稲田大学理工学部機械工学部。1982年、日本テレビに入社。『世界まる見え!テレビ特捜部』『恋のから騒ぎ』などのヒット番組を手がける。現在はKADOKAWAコンテンツプロデューサー、ドワンゴ営業本部エグゼクティブ・プロデューサー。早稲田大学大学院表現工学科非常勤講師。著書に『泥の中を泳げ。 -テレビマン佐藤玄一郎-』(駒草出版)『ヒット番組に必要なことはすべて映画に学んだ』(文春文庫)などがある。