さとう学さん(41)のケース
さとう学さんとは何度かメールでやりとりし、お茶に誘った。最寄り駅に行くと言うと、彼は近くにカフェがないからと車で迎えにきてくれた。
駅で車から降りて手を挙げた彼を見て少なからず驚いた。すらりとした長身、イケメン眼鏡男子だったからだ。
だが車の中で、彼は運転に慣れていないこと、実は自宅と駅とカフェの動線を2回も下見に来たことなどを漏らした。わざとおもしろおかしく話すところが、ひきこもりの劣等感なんですとも率直に言った。嫌われたくないという思いが働くから、自虐をネタにしてしまうのだ、と。自分をさらしてしまうことでコミュニケーションを図ろうとしているのだと伝わってきた。
さとうさんは、両親と5歳上の兄、3歳上の姉の5人家族で育った。父はエリートサラリーマン、母は保健師として働いていた。
「きっかけはわからないけど、小学3年生のときからいじめられるようになったんです。ランドセルにゴミを入れられたり、給食当番のときの割烹着をトイレに置かれたり」
防衛本能が働いたのだろうか。朝起きるとお腹が痛くて学校へ行けなくなった。
「1週間たつと、父親は怒る、先生は騒ぐ、母親はおろおろする。毎朝、玄関で母親との攻防戦ですよ。僕は玄関の柱にしがみつく。母親は引きはがそうとする。でも僕は柱を死守しました(笑)」
夜になって父が帰ってくると、その日も学校へ行かなかったと母が報告する。夜中であっても起こされ、正座させられて叩かれた。学校へ行くと約束しろと言われ、約束すると言う。だが朝になると、またお腹が痛くなるのだ。いじめの件も訴えたが、深刻に取りあってはもらえなかった。
「そのうち手洗いがやめられなくなったんです。血が出るまで手を洗い続ける。自分の唾を飲み込めなくて苦しむ。次には幻覚が起こって、部屋の隅に穴があいていて妖精が出てくるのが見える。そのころ、やたらと神経が研ぎ澄まされて、暗記力が突出したんですよね。1度読んだ本を全部覚えてしまうくらい。
あとから調べたらサヴァン症候群に似ていました。さすがに親も、僕の神経がおかしくなっているとわかって、無理やり登校させなくなりました」
そこから断続的なひきこもりが20年続いた。
自分の差別意識にショックを受けて
彼は家にある本を読破しながら小学校時代を過ごした。中学は不登校の子を受け入れる先がなく、地元公立中学の特殊学級(現・特別支援学級)に入ることになった。この学級が彼に合っていたという。
「知的障がいとか身体障がいのある子ばかり。学年も関係なくみんな一緒で、その子に合った勉強をするんです。たまに突然、体当たりしてくる子がいたけど、いじめはなかったし、子どもたち同士で政治的な駆け引きやマウンティングもなかった。楽しかったせいか、僕は一気に学力が伸びて、普通学級に入れられそうになった。そこでまた精神的なバランスを崩しました」
周りからみると「普通じゃない」子が入る学級だから、会話ができないと思い込んでいる一般の親たちもいた。あるとき、普通学級の子の親に話しかけられ、めんどうなので会話ができないフリをして愛想笑いをした。そして、そんな自分を嫌悪した。
「他人があの学級をそんなふうに見ることにもショックを受けたんですが、自分自身も結局は知的障がいの子を差別していたのではないか。そちらのほうがショックで、また学校に行けなくなりました」
彼はそう言って黙り込んだ。自分の中の潜在的差別に苦しんだことを思い出したのだろう。繊細な人なのだ。
そういえば彼と最初に喫茶店に行ったときのこと。テーブルに呼び鈴が設置されていた。注文が決まったと彼が言うので、私はパンと呼び鈴を押し、会話に戻った。しばらくして彼がおずおずと言った。
「さっき呼び鈴が鳴らなかったかもしれません」
そういえばオーダーを取りにこない。私は再度、呼び鈴に手を伸ばしたが、がさつな私が押したのは「呼」と書かれたボタンではなく、その周りのプレート部分だったと気づいた。鳴らないのは当然だ。自分で笑い転げながら、私は彼の繊細さを感じた。
おそらく彼は呼び鈴が鳴らないことにすぐ気づいたはずだ。だが、その場で指摘したら私が傷つくと思ったのではないだろうか。自身がそうであるように。だから、しばらくたってからやんわりと言ったのだ。そんな繊細さを持っていたら生きづらいだろう。
母は僕を外に出したくなかった
高校は自転車で通える定時制へ。受験は満点で合格だったという。授業がつまらなかったため、5月から通信教育を受け、3か月後には、大検11科目中8科目に受かった。
結果、高校は1年で中退。日本では大検に受かっても18歳になるまで大学入試は受けられない。留学を考えたが、当時、アメリカで日本人学生が事件に巻き込まれたニュースがあったためか、母親に大反対された。
アルバイトをしながら都内の予備校へ。ところがある日突然、電車の中で心臓がドキドキし、乗っていられなくなった。母に訴えたが、保健師である母は、「気のせいよ」「病院に行ったらもっと悪くなる」と言い張った。
「病院に行きたかったけど、どうしていいかわからなかった。保険証を持ち出して自分で行けばよかったのに、当時の僕は同世代の友達もいないし、相談できる相手もいなくて。いつ心臓が止まるかわからない不安と闘いながら、またひきこもっていました」
パニック障がいかもしれないと思ったが、父は障がいという言葉だけをとらえて「精神障がい者なんて本来、淘汰されるもの」と断言した。母や父がダメならソーシャルワーカーの姉に相談すると、結婚していたこともあり、「時間がない」と突っぱねられた。
ひとりで苦しみ続けるしかなかった。両親にとっては彼が「家にいる」のは当たり前になっていたのかもしれない。
「母はむしろ、“無理して外に出なくていい。あなたの分のお金はあるから”というようなことを言っていました。ただ、僕はやはり外に出る生活がしたい。
家にいると心臓が止まる恐怖感はないんです。将来が不安で、ときどきわーっと叫んだり壁に頭をぶつけたりはしていました。そのまま4浪して結局、武蔵大学に合格し、通い始めました」
毎年、受験申請はしたが試験場まで行けたり行けなかったり。4年目でやっと受験できた。ところが、大学入学直後からパニック障がいが悪化する。電車に乗れない、乗れたとしても、ひと駅ごとに降車、大学に着いてもへとへとで教室にいられない。大学のアンケートに「死にたい」と書いて呼び出された。
学校カウンセラーに「もう限界、退学したい」と訴えたが、専門家にはつながらない。彼は1年で退学、また家にひきこもってうつ状態になった。
世間体を守り続けた母の死で解放感
「やっと専門家につながったのは25歳のとき。市報にひきこもり相談が載っているのを見たから。自分で電話しようとしたんですが、緊張で手が震えてかけられない。何を聞かれるか、答えをシミュレーションして疲れ果ててしまう。そこで母に頼み込んで、やっとかけてもらいました」
保健師や精神科医がやってきた。ここでようやく家族も事の重大性に気づいたのだ。
「そこでも母は世間体を気にしていました。車で病院に連れて行ってくれたのは“歩いていくと誰かに見られるから”。でも、病院に行けば相談できる人もいるし、自助グループも紹介してもらえた。自助グループで知り合った人と自転車に乗ってあちこち行きました。電車に乗るときも、僕はひと駅ずつ降りたけど、それに付き合ってくれた」
そうしているうちに服薬の効果もあって不安がおさまり、症状も出なくなってきた。その過程で精神障害者保健福祉手帳を申請、交付された。
「そのあと福祉作業所でカレーを作っていました。時給250円だったけど、まず規則正しく同じ場所に通って作業することが先決だと言われて」
同時に短期間のバイトにチャレンジした。工場での作業もしてみたが、精神的なものから彼には頻尿の気もあるので、同じ場所で何時間も立ち続けるのは厳しかった。
「本が好きだから書店でバイトもしました。でも古株がいて、自分から仕事を見つけると“勝手にやるな”と。居づらくなってやめました」
31歳のとき、母親が突然、倒れた。末期の膵臓がんで余命3か月。父の意向もあり、本人に余命は告げなかった。
「毎日、自転車で30分かけて病院に行きました。母が倒れる1か月前に姉が子どもを産んだので、赤ちゃんの様子を録画して母に見せて。母と話す時間を3か月、与えられたんだと思った。いろいろ話したけど、本当に聞きたいことは聞けずじまいでした。どうして僕を医者に診せようとしなかったのか、外に出たがる僕を抑えていたのか……」
告知どおり、母は3か月後に逝った。母は、母なりに彼を心配していたのだろう。同時に自分の息子が「ひきこもっている」事実を世間には知られたくなかった。それは彼女自身のプライドを傷つけることだったのだろうか。
「ひきこもっている本人だってつらいんですよ。ひきこもる自分を肯定しないと生きられない、だけど否定しないと外には出られない。常に葛藤があるんです。母が亡くなったのは本当に悲しくてつらかったけど、一方で解放されたような気もしました」
障害者枠で働き始めるも“超ブラック職場”
母の死から1年後、彼は障害者枠を活用し、自転車で通える郵便局で働き始めた。ところが超ブラック職場だった。
「自爆営業が大変だった。盆暮れ、クリスマス、ハロウィンにも郵便局で販売されるものを買わなければいけない。年賀状は1500枚買わされる。しかも毎月、郵便貯金もしなくてはいけない。僕の年収なんて100万円程度なのに、毎月自爆が11万。おかしいでしょ。就労支援センターに訴えたけど埒が明かない。上司には“具合が悪ければ薬を倍飲めばいい”と言われました。実際、薬の量が2倍くらいに増えていったんです」
父が生活費を補填してくれたが、そういう問題ではない。職場での評価が高く、がんばらなければと思っていた。そんな彼につけこんで自爆営業は増えていった。だが、無理は心身を蝕んでいく。
「34歳の誕生日、大量に薬を飲んで自殺を図ったんですが、のどにつかえてあえなく未遂。その数年後もまた職場で追いつめられて電車に飛び込もうとしたけどできなかった」
とうとう5年間、週5日きちんと勤めた郵便局をやめた。7回請求しても離職票を出してもらえず、就労支援センターから働きかけてもらってようやく出たという。障害者枠で働く実態は過酷である。
ひきこもりを公言し選挙にも出馬!
それから放送大学に入学して勉強したり、ひきこもりの仲間たちと会合を開いたり、『HIKIPOS』という雑誌に原稿を書いたりしている。父親が定年退職して故郷の秋田県に移り住んでいたので、今はひとり暮らしだ。
「ひとりでいると、昔から知っている地元のおじちゃん、おばちゃんが声をかけてくれるようになって、だんだん地域と連携ができてきました」
積極的に近所の草むしりに参加し、自治会でも発言した。自爆営業に苦しめられながらも5年間、きちんと働いたことが彼の自信につながったのかもしれない。2017年には地元・埼玉県入間市の市議選挙にも出馬した。
「世の中を変えたいと思ったんです。結果、落選でしたけど、ひきこもりについての見方が変わったとか応援するよと言ってくれた人がいたのは大きかった」
彼は今、留学する準備をしている。英語を身につけ、もっと自分から発信できる人間になろうとしているのだ。
「KKOにはなりたくない。キモくてきたないオッサン(笑)。そのために人と関わりながら勉強して、失われた20年を取り戻したいんです」
昨年末、彼はクリスマスパーティーだの地元自治会の忘年会だのと非常にリア充な日々を送っていた。だが、そうやって人と濃厚に接すると、疲れ果ててしまうこともあるそうだ。
それでも彼は人と会う。
「人薬というのかな。人と会うことで何かが変わるんです」
彼は自分の手で、新たな扉を確実に開いたのだ。
【文/亀山早苗(ノンフィクションライター)】
かめやまさなえ◎1960年、東京生まれ。明治大学文学部卒業後、フリーライターとして活動。女の生き方をテーマに、恋愛、結婚、性の問題、また、女性や子どもの貧困、熊本地震など、幅広くノンフィクションを執筆