公益社団法人『難病の子どもとその家族へ夢を』代表・大住力さん 撮影/伊藤和幸

「みなさん、ボランティアの定義とはなんだと思われますか?」

 5月15日、静岡県沼津市内で行われた『2020東京オリンピック・パラリンピックボランティア面談員向け研修会』(日本財団ボランティアサポートセンター企画)。集まった約25名の自治体職員や地域のボランティアグループのリーダーたちを前に、面談員講師の大住力(53)はこう語りだした。

「今回の五輪テーマは“ダイバーシティー&インクルージョン”。多様性と包括性です。今日はみなさんとボランティアとは何か? 多様性とは何か? を考えてみたいと思います。ぼくが考えるダイバーシティーとはこれなんです」

 そう言うと大住は、腰をかがめ両手を広げてアヒルのかっこうを熱演し始めた。参加者一同きょとんとしている。

 五輪ボランティアには、全国から20万人を超える応募があり、実際には8万人が活躍する。大住の役目は、その「面談員」に向けてボランティア教育を行うこと。

 前年秋の募集時には「巨額の運営費が動く営利活動の五輪でなぜボランティアか?」「やる気の搾取では?」など批判が噴出した。そこで、組織委員会が掲げたテーマは「私は輝く」。無償の労働ではなく、一緒に大会を作って喜びをシェアしたいと願う人が集まる場と定義した。

アヒルのかっこうをした理由

 大住に白羽の矢が立ったのは、当初その精神をディズニーに学ぼうという意図があったからだ。大住は約20年間、ディズニーランド/シーを経営するオリエンタルランドで、マネージャーとして活躍してきた。その後、公益社団法人『難病の子どもとその家族へ夢を』(以下、NPO)を設立。多くの家族をディズニーランドや各地の観光スポットをめぐる旅に招待する活動を約10年間続けている。

 大住を起用した理由を、大会組織委員会・総務局ボランティア推進部の傳夏樹部長はこう語る。

「面談は、ボランティアに対して同じ意識を持つ“仲間を増やす機会”にしたいと考えました。大住さんはディズニーでの体験だけでなく、難病のご家族の支援活動の中でボランティアする側も一緒に喜びをシェアすることを大事にされています。そこに共感して講師をお願いしました」

 研修会でアヒルのかっこうをした大住は、ディズニーランドでの経験を話しだした。

「ディズニーランドでは連日、キャラクターとの写真を撮るための行列ができます。ある日ドナルドダックが、列から少し離れた車イスの人のもとに真っ先に駆け寄って写真を撮ったんです。それだけでなく、車イスを押していた女性にもハグ。“グワグワグワ~”と女性の手を握り、高く掲げるもんだから、拍手が起きたんですね。

 女性は大好きなディズニーランドに父を連れてきて、ドナルドダックが寄り添ってくれただけで感動し、自分にも目を向けてくれたことがうれしかった、と言いました。恥ずかしそうにしながらも涙を流していた、あの顔が忘れられません」

 車イスだから弱者なのではない。支える人もまた称えよう。それもダイバーシティーの考え方ではないか、大住はそう投げかける。

 そして、研修会の最後をこんな話で締めくくった。

「パス・ミー・ザ・ソルトという言葉があります。ちょっとその塩とって。それに対してハイッと目の前の塩をとってあげる行為。これがボランティアの本質なんじゃないかとアメリカの難病支援団体で教わりました」

 つまり、ボランティアとはいまできることを目の前の人にシェアすること。塩を手渡す行為に経済は関係ない、塩を全部譲る必要もない。塩を渡された人もうれしいし、渡した人も役に立ってうれしい。そんなささいなことから食卓に会話の花が咲く。ボランティアとはそういう行為だ、と。

 大住は中学生のころ、“ボランティア=無償の奉仕”と辞書で読み、「吐き気がするほど嫌悪感を覚えた」記憶があるという。だが、今はボランティア活動を使命としている。「パス・ミー・ザ・ソルト」。その精神から生まれた活動とはどんなものなのか。

酸素ボンベをつけた少女を招待

 東京・浅草、雷門前、午前9時。降りしきる小雨の中、「雷」マークの半纏に足袋姿の若者約25名が集まった。この地で人力車を営業する最大手『えびす屋浅草』のメンバーだ。同社は約6年前に大住と出会い、NPOの活動に賛同。難病の家族を浅草で歓待するボランティアに協力している。

「今日、頼むね!」大住は若者らに声をかけながら背中を叩いたり、固い握手を交わしたり、士気を高めていく。

 多くの人に協力を仰ぐ理由を、「地域の人との触れ合いや人情を味わってもらいたいから」と大住は言う。

 難病の子は、日ごろ限られた人としか触れあえない。両親はいろいろな人が子どもの名前を呼んでくれることだけでうれしいという。その気持ちを大切にしているのだ。

 やがて雷門前に黒のアルファードが横づけになり、車イスに乗り酸素ボンベをつけた和花ちゃん(11)とその両親、妹2人が降りてきた。

「こんにちは、和花ちゃん、歩花ちゃん、優里花ちゃん。今日1日楽しんでいこう」と若者たちが口々に声をかける。

雷門前で野村さん一家を迎える『えびす屋浅草』と大住 撮影/伊藤和幸

 この日、大住のNPOが『ウィッシュ・バケーション』と呼ぶ2泊3日のディズニーランドと浅草周遊の旅に招待されたのは、京都からやってきた野村さん一家だ。

 父親の昌希さんは、「下の2人の娘とのお出かけは、いつも父親か母親のどちらかだけでしたから、家族全員で来られて2人も楽しそうです」と言う。母親の佑加さんは、車イスに乗る和花ちゃんの額に手を当て心配そうな様子だが、「この2週間、どきどきしていました」と明かす。

 和花ちゃんは小学3年生だった2年前、突然倒れて小脳出血という難病だと診断された。当初は余命わずかと言われ、歩くことも喋ることもできなくなった。以降、24時間付き添い、2、3時間おきに痰を吸引。1日3回、鼻に入れた管から栄養をとる生活だ。誰かに助けてもらわなければ、家族で外出などおぼつかない。

 大住は車イスを押す家族に寄り添い、仲見世通りをゆっくり歩く。浅草寺で参拝をすませると、行列ができるメロンパンの『花月堂』へ。世界のVIPの似顔絵を描く『カリカチュアジャパン』では家族の似顔絵を描いてもらい、昼食は天ぷらの老舗『大黒家』で大きな天丼をいただいた。立ち寄る店はすべて、大住が提携交渉している。

「和花ちゃんが喜んでいるのは、心拍数を見ればわかります」

 母・佑加さんが安堵の表情を浮かべる。

 そのそばでサポートしているのは、大住の部下、小松香織さん。この日を迎えるため、入念な準備を重ねてきた。

「ご家族とは旅行の始まる3か月前から密な連絡をとりあいます。お子さまの症状を把握して交通機関や宿泊機関、トイレの設備など最低6か所と交渉をします。私は大学で福祉社会学を学び、社会福祉士の資格も持っていますが、現実とのギャップがこんなにあるとは思いませんでした」

 入社3年目の小松さんは大学時代に講義に来た大住の話を聞き「ぜひ入社させてください」と懇願したという。

「社会人なのにすごく楽しそうに見えたから」と笑顔で語る。

若者たちも協力、子どもたちに笑顔

 野村さん一家は、二天門から2台の人力車に乗せてもらい浅草周遊を楽しんだ。スタート前には大住とハイタッチを交わし、家族は笑顔満載だ。

 雷門に戻ってくるころには再び半纏姿のえびす屋の若者たちが集まり、ゴール付近の交差点で人力車を待ち伏せる。

「ようこそ浅草へ。和花ちゃん、歩花ちゃん、優里花ちゃん」。若者たちはサプライズで用意したポスターを手に、周囲を歩く人々が振り返るほどの大声で叫び、人力車に駆け寄る。一家はびっくり。うれしそうに顔を見合わせ、照れながら拍手を送った。

好きなキャラクターが描かれたポスターに野村さん一家は大喜び 撮影/伊藤和幸

 えびす屋のリーダー、井尻延之さんはこう話す。

「お金をとるとかとらないではなく、今この瞬間を全力でやらないと“お客さまに喜んでいただく”という日ごろの仕事が嘘になります。難病の子には次がないかもしれない。手を抜くわけにはいきません」

 えびす屋では、2週間前からポスター作りが始まる。スタッフ全員が星や言葉を必ずひとつは手書きし、家族に喜んでもらうためのアイデアを毎回出し合う。大住の思想が伝染している証拠だ。

 野村さん一家は2日前の午後、東京に着き、翌日ディズニーランドで1日楽しんだ。

 今回、園内で家族をアテンドしたのは、大住や小松さんのボランティア研修を事前に受けた製薬会社の社員たち。日ごろ薬の製造はしても、それを使う患者さんとは触れ合わない社員にとって貴重な機会だ。ここでも大住の精神は伝播する。この企業と契約し、その研修費を得て基本的な活動資金としているのだ。

 和花ちゃんは、倒れる前の夏休み、「ディズニーランドに行きたい」と言っていたという。だが仕事が忙しい父・昌希さんは、「そのうち行こうね」と約束を果たせなかった。昌希さんが振り返る。

「明日は当たり前に来るからいつでも行けると思っていました。目の前にある幸せに気づかなかった」

遠慮のない大住の質問

 2日目の夕方、野村さん夫妻には、「ダイアログ」というインタビューが待っていた。その間、子どもたちはスタッフが預かり、夫婦とじっくり語り合う。大住が最も大事にする時間だ。

「おふたりの出会いはなんでしたか?」

 ホテルの部屋で夫婦の前に座り込んだ大住が笑顔で尋ねる。そこには、ふたりの幼少時から家族ができたころまでの「思い出の写真」が置いてある。写真を用意してもらうのは、緊張をほぐすためのディズニーの面接マニュアルのセオリーだ。

 大住の質問には遠慮がない。

「病気がわかったとき、お父さんはどうしました? お母さんは何を思いましたか?」

 そんなストレートな質問に答えながら、夫婦は互いに気づかなかった本音に触れる。

 旅の企画を始めた当初、大住はあるお母さんとホテルのエレベーター前で約40分も立ち話をしたことがある。すると翌日、その母親から「昨夜はぐっすり眠れました」と笑顔で感謝された。そのとき、大住は気づいた。

「難病の子を抱えると、医者にも友人にも夫婦でも言えないことがある」と。ことに母親は、この子を産んだからと自分を責める。誰にも言えない悩みに悶々とする。そういう悩みから少しでも解放されるように、ダイアログは必須のプログラムとなった。

別れ際、母・佑加さんと両手で握手。「今日が始まりですから。これからよろしくお願いします」と大住 撮影/伊藤和幸

 だが、インタビューは残酷だ。

 本音をぶつけることで、時に夫婦の溝を浮き彫りにするからだ。関係が冷めているケースや、お酒を飲むとDVに走る父もいる。そんなとき大住は相手の胸に割って入る。

「今日からメル友になりましょう。ぼくも一緒に禁酒します。2人でお酒を断ちましょう」そう言って力いっぱい握手し、肩を組む。

 初対面でもずかずかと夫婦の間に踏み込んでしまうのは、大住の熱い性格ゆえだ。夫婦はそんな大住と出会い、いつの間にか胸襟を開く。愚痴ばかり言っていた母。通院や看病で経済的に苦しい家族。気持ちがすれ違っていた夫婦。さまざまなケースがあるが、大住の前で互いの本音を思わず口にすることで、新鮮な気持ちになり、新しい絆も生まれる。

「最後にお父さんからお母さんへ、お母さんからお父さんへ、言葉をかけてください」

 大住はダイアログの最後を必ずこう締めくくる。

 野村さん夫妻の1時間半に及ぶダイアログの最後、夫は妻の前で正座してこう言った。

「いつも大変な看病をしてくれてありがとうございます。下の2人の子に対しても当たり前の幸せが続くように僕も頑張ります」

 妻の瞳にはかすかに光るものがあった。

 熱い信念を持ち、周囲を上手に巻き込んでいく。その気質はオリエンタルランドの新入社員だったころから発揮されていた。当時、同社で1年下の後輩だった田村圭司さんが語る。

「大住さんは、入社直後に『ITP』というウォルト・ディズニーの思想を学ぶ勉強会を主宰されていました。当時から目立った人で、中にはやっかむ人もいたようです」

 大住の入社はバブル経済がピークだった'90年。100名以上の新入社員の代表として挨拶した。入社直後にはディズニーの思想に共鳴し、同期や先輩に呼びかけてこの組織をつくった。イット・テイクス・ピープル=すべては人間から始まる。大住は働きながら、「ギブ・ハピネス=幸せを与える」を理念とするディズニーの思想を貪欲に学んでいった。

「ミッキーに会いたい」難病の子どもたちの夢

 だが高校、大学時代は、決して優等生だったわけではない。大住はサッカー選手を夢見ていたが、大学入学直後のケガを言い訳にして現役を諦めた経緯がある。そこからは本人曰く、「遅ればせながらグレた」。大学にはほとんど行かずに日雇い仕事など50以上のアルバイトを経験、20か国以上をバックパッカーとして旅した。日本では、アルバイトで出会ったおじちゃんたちに酒場で可愛がられる日々。

卒業直前、バックパッカー時代の大住

 そのころから派手な行動をとる質だったが、何をやってもいまひとつ満足できない。

 そんな若者が、就職時にディズニーランドという「舞台」を得たことで生まれ変わった。

 大住は約20年、現場の清掃担当や経営企画などを担当して着実に業績をあげていく。

 入社10年目のこと。NHKスペシャルで、アメリカのヘンリー・ランドワースという男性が難病の子どもをディズニーランドに招待する『ギブ・キッズ・ザ・ワールド』というボランティア組織を立ち上げ活動していることを知る。調べてみると、日本にも約20万人の難病の子どもがいる。その約半数の願いは「ミッキーに会いたい」だと知った。ならば日本でもこの活動をやるべきではないか。熱い男、大住は行動に出た。37歳のとき、フロリダ出張の折にヘンリーに会いに行く。

 ヘンリーはユダヤ人だった。少年時代にナチスの収容所に入れられ終戦後、身体ひとつでアメリカに渡り、ホテルのドアマンから「ホテル王」に上り詰める。だがある日、「難病の息子が亡くなりました。予約はキャンセルしてください」という電話を受ける。難病で闘う子どもの気持ちは、収容所時代の自分の不安と一緒だ。そう思ったヘンリーはホテルを売却し、団体を立ち上げる。

 面会の日、ヘンリーは「活動の理念はギブ・アンド・ギブだ」と言った。大住は「いやおかしい。ギブ・アンド・テイクだろう」と反論する。

 するとヘンリーは言った。

「ギブ・アンド・テイクはメイク・ア・リビング=暮らすことだ。でもギブ・アンド・ギブはメイク・ユア・ライフ=生きることだ。暮らすことと生きること。お前ならどっちを選ぶ?」

 その言葉に、大住は胸を打たれ、涙したという。

 ヘンリーの宿泊施設では、大勢のボランティアが働いていた。86歳のフォレストは、パーキンソン病だが、震える手でブルースハープの演奏をすると、素晴らしいビブラートを奏でる。レストランで演奏する彼はヒーローだった。

 ワッフルを焼いていた85歳のニックは、難病の子が「2枚ちょうだい」と言うと「駄目だ、1枚食べ終わったら来い」と叱る。食べ物を残すな、といつも怒っている。第2次大戦の兵隊だったから、食べ物にはうるさいのだ。

 大住はこの地でそんな多様なボランティアの姿を知った。

独立、そして膨らむ借金

1度出会った難病の子どもやその家族の行事にも喜んで駆けつける。「入学式で子どもの成長を見て号泣してる父ちゃん、母ちゃんに代わってね、ビデオを撮るんですよ」と撮影ポーズをする大住 撮影/伊藤和幸

 無償の奉仕ではなく、ボランティア自身が活動を生きがいとして楽しんでいる。「パス・ミー・ザ・ソルト」の考え方を学んだのもこのときだ。

 帰国した大住は、すぐに「日本のディズニーでも同じ活動をやろう」と提案した。ところが経営陣の判断はノー。その後、約7年間交渉、ときに社員に署名活動も行ったが、いつも「わが社にとってのメリットは?」という議論が起きて判断保留になってしまう。

 44歳のとき、任されていたプロジェクトの区切りがあった。このとき大住は思った。

─いま自分でやらなければ一生できないだろう。ヘンリーは「日本人は信用できない。やると言いながら誰もやらない」と言う。それも口惜しい。

 大住は会社に辞表を出す。

 そして2010年3月、NPOを設立。仲間3人での船出だった。聖路加病院名誉院長の日野原重明さんや小児科の細谷亮太さんが支援を表明し、支援企業も現れ、船出は順調に思えた。けれど、すぐに東日本大震災が日本を襲う。「大住さん、すまん」。人も企業もすべてのボランティア活動は東日本へ向かった。大住たちスタッフは3年間、ほぼ無給で地道な活動を展開せざるをえなかった。

「正直、あの時期は逃げたいと思う日もありました。借金が膨らんで、1か月の半分以上は銀行を訪ねて頭を下げては門前払い。その繰り返しでね。だけど、どんなにどん底でも、やっぱり自分はこれをやるしかない。これをやらずしてお前はどうする、絶対うまくいくって。思い込みの激しいやつなんですよ(笑)」

 懐に入るお金はない。それでも、支援する家族との出会いが糧となり、前を向くことができた。

「サラリーマン時代には味わえなかった“喜び”が家族との出会いの中にあった。誰かのために動きたい、その人に感謝される。これがあれば、何もいらないなぁって」

 設立から約10年。現在ではスタッフ10人。年間活動費は約7000万円。半分は個人と企業からの寄付で、残りは助成金と大住たちが手がける人材育成事業の売り上げで賄う。現在までにウィッシュ・バケーションを体験した家族は約240組。1度の旅行だけでなく、家族とはその後も母親たちを集めた太鼓チームを結成したり、運動会を開いたり、折々に触れ合う活動を展開している。

「旅行への招待はきっかけにすぎない。関係を永続させたい。それが、いちばん意味のあることだと思っています」

お節介なくらい踏み込む

 大住には活動を始めてから欠かさない習慣がある。

 出会った家族全員の誕生日に手書きでカードを送ることだ。もちろん、亡くなった子の誕生日、そして命日にも。

「ずっと忘れない。いつも一緒です」

 そのメッセージは、毎月100枚以上、全国の家族のもとへ届けられている。

事務所には出会った家族の写真がズラリ。子どもの病気のことも、どの家族のエピソードもよく覚えていると大住はなつかしそうに話す

 NPO活動を展開する中、この10年間にはさまざまなことがあった。大住が経験した折々の葛藤は、ボランティアの理念が世の中に受け入れられるまでの紆余曲折でもある。ときにそのやり方に苦情もくる。

 旅行に招待した2か月後に亡くなった子どもがいた。告別式に参列すると、父親は怒っていた。

「あなたはあのとき、俺に息子をおんぶして店の2階へ上れと言った。そもそも何でエレベーターもない店に連れて行ったんだ。バリアフリーの店にするべきだろ」

 食事で2階の座敷を使ったことを怒っている。大住は冷静にこう言った。

「お父さん、あのときの息子さんの重さは忘れないはずです。ぼくはあえてあの店を選びました。息子さんの重さを覚えていてほしかったから。その重みを忘れないことが息子さんといまを生きるということではないでしょうか」

 もちろん息子を亡くした両親のつらさもわかる。けれど大住は当初から、フルサービスはしないとあらかじめ伝えていた。できることは自分でやってほしい。そうでないと子どもと家族は「かわいそうな人」になってしまうから。多くの家族がそれを了解してくれる。

 大住にはこんな思いがある。

「お節介なくらい挑まないと何の喜びも生まれない。本当のうれしいって何だろうと考えるとき、同じことをしても、怒る人と喜ぶ人がいる。でも、あえて踏み込んで嚙み合ったときにしか、ものすごい感動は生まれない。そういう覚悟で向き合いたいんです」

受け継がれる大住の精神

 仙台に住む小野ことみちゃんは、小学校5年のときに小児がんの手術を受け、その後ウィッシュ・バケーションを経験。仙台の病院に戻ると、こんなことを言いだした。

「入院している小さな子たちに何かプレゼントしたい」

 母親の孝子さんは驚きつつも、娘の変化がうれしかった。

 クリスマスの日、ことみちゃんは、がん治療で髪の毛が抜けた子どもたちに約50個の帽子をプレゼントした。

 その日から約6年、ことみちゃんは高校3年生となり、看護学校で学んでいる。

「大住さんの活動を経験したことで、将来はいろんなボランティア活動をしたいと話しています」と孝子さん。その成長は、母にも眩しいほどだ。

 沖縄でも、大住のNPOに賛同し、難病の子とその家族の旅を引き受けるホテルがある。『カフー リゾート フチャク コンド・ホテル』だ。代表の田中正男さんは言う。

「大住さんの難病支援にかける情熱が素晴らしかった。人柄に惚れたところからホテルのCSR(企業の社会的責任)活動としてボランティアを始めました。今ではスタッフが自主的にチームを作り、難病の子どもをもてなす方法を考えています」

 設立初期から大住の活動を応援してきた聖路加病院小児科医の細谷亮太さんは「大住さんはお金持ちでもないのに続けるのが偉い」と笑う。「難病にかかった子どもと家族には、大住さんたちが企画する天国のような日が必要なんです。本人と家族にとって、一緒に旅行した思い出は宝です」と言う。

 NPOでは、ウィッシュ・バケーションへの招待を希望する家族に前もって病気の状態と家族の関係を書いてもらう。「なるべく絆が深い家族を招待したい」と大住は言う。

「多くの家族の姿を見させていただいて、家族って何、命って何、その本質を教えてもらっています。ぼくらに病気は救えないけど、“当たり前の尊さ”を社会にも広めたい。どの家族にも、こちらから“ありがとう”を言いたいんです」

 振り返れば日本のボランティア活動は'95年の阪神・淡路大震災のときにNPO法ができ、多くの団体が生まれた。それらが大活躍したのが2011年の東日本大震災だ。

 だが、それは非常時の活動。平時のボランティア活動が広まり、定着するのが今後の課題といわれる。2020東京オリンピック・パラリンピックでは、8万人の大会ボランティアと3万人以上の都市ボランティアが活動し、各自治体や町内会、企業、学校、あるいは個人でもさまざまなボランティア活動が生まれるはずだ。こんな機会はまたとない。大住は言う。

「欧米では日曜日に“今日は家族でボランティアしよう”と言って楽しい休日を過ごします。日本でもそういう文化が生まれてくるはずです」

 まさに平時のボランティア元年。静かな革命が、いままさに進行中だ。

東京五輪ボランティア希望者たちの面談を連日開催している有楽町の会場。制服姿の高校生から高齢の人まで、さまざまな世代の応募者が見受けられた 撮影/伊藤和幸

取材・文/神山典士(こうやま・のりお)ノンフィクション作家。表現者、アウトローをテーマに多分野の人物を追う。2014年「佐村河内事件」報道で大宅壮一ノンフィクション賞、日本ジャーナリズム大賞受賞。著書に『知られざる北斎〜モネ、ゴッホ、忠正、鴻山とその時代』、『カプリチョーザ物語』など