原発避難者へのいじめや生活保護受給者へのバッシング、隣国に対するヘイトスピーチなど、近年、日本社会の不寛容さが目立つ。この空気はなぜ始まり、どうすれば変えられるのか。宗教学者の島薗進さんに聞いた。
◆ ◆ ◆
「力の支配」に人心や社会がなびいている
過去にも、ヒロシマ・ナガサキの原爆や水俣病の被害者など、周囲から差別され声を上げにくい状況がありました。つらい経験や悲しみを口にするには同調圧力に抗わなくてはなりません。何十年もたって、やっと声を上げられるようになるんです。
1970年代は、日本の歴史の中でも被害者が政府に抵抗する行動が比較的できた時期です。'60〜'70年代は民主化の大きな流れがあり、'89年のベルリンの壁崩壊に至るまでは世界的にも自由を目指す雰囲気がありました。
しかし、その雰囲気は'80年代で終わります。平成は、日本では戦争がなく平和だったといいますが、自由に向かう空気は弱まり、世界全体が方向性を失ったと思います。
近年は、産業利益が国の利益と結びついて、強いものが勝つ「力の支配」が横行しています。市場原理を第一に考える新自由主義・自由競争の中で、民主的であることより経済が優先され、「自己責任」の空気が蔓延しているのです。そして、選挙で勝てば何をしてもすべて正当化するかのような現政権の印象もあります。
「力の支配」による問題が顕在化したのが2011年の東京電力福島原発の事故でした。一時は「これでよかったのか」と、社会全体がこれまでを振り返る空気がありました。
しかし、それに対する断固たる反動がいま、現れている気がしています。夢も希望も理念も愛もない、被災地に対して思いやりもない。「力の支配」に人心や社会がなびいてしまっている。
なかでも原発事故における一部の専門家のふるまいはまさに、「力の支配」を表すものでした。専門性を振りかざして、被ばくを恐れる女性を無知であるとバッシングする風潮もありました。かつては、市民の平和や、弱い立場にある個々人のための科学や思想が力を持っていましたが、社会の発展とともに、専門家は競争での勝利を目的とし、市民としての目線を弱めてしまった。
核開発の歴史ではそれが顕著です。被爆地の研究者の一部が核開発と協力しはじめました。そのため、核開発による健康リスクを低くみせる研究が重要になり、それが顕著になったころに'11年の事故が起きてしまいました。
「権威主義」も弊害のひとつ
その後も、安全をひたすら説く国際的研究者ムラが「健康影響はない」と安全論を発信し、周りの研究者も煽る。研究者の中には、3・11後に政府に呼ばれ「安全だと発信してくれ」と言われたと、その当人が語っています。そこに一部のメディアも乗り、発信されてしまう。
科学が、「力の支配」の担い手として発言するという体制になっているんです。これは世界的なものだと思います。
日本は、安倍政権によるむき出しの「力の支配」、本来責任を取るべきことも、内閣支持率や株価が下がらなければ許されるかのような新自由主義が横行しています。社会主義勢力のような「力の支配」を抑制するものがなくなり、19世紀の貧富の差が大きかった時代に似てきています。弱肉強食が進歩の源泉という「力の支配」の思想を悪い意味で受け継いでいる。
市場原理と自由競争を第一に考える新自由主義の影響を強く受けた人々が権力を持つようになりました。民主主義と国民主権という大切な理念と、「力の支配」とを比べたときに「力の支配」のほうが現実を制する、と。そして、豊かになった層が自分たちの持つ権力を正当化するんです。
また、日本では「権威主義」というのが大きい。強い者の側について、外に敵を見つけるとともに、身近なところでうさを晴らす。共感意識も減り、原発事故でも、被害者に対して「支援が手厚すぎる」という声までありました。公害問題にも見られた「自己責任化」に専門家が理屈を補強して正当化する。科学の批判性の薄さはますます広がっています。
つまり、科学にも「力の支配」が入り込んでいる。政府の都合のいい見解だけが生まれ、そこに政府も乗る。この構造は、科学が「力の支配」とは違う基準でものを見られなくなる、大変おかしい問題です。それは原発事故以降に強くなりました。
しかし、人々がこういった理不尽な「力の支配」に納得しているわけではありません。特に女性が敏感に感じ取っているのではないでしょうか。
大きな組織ほど人々の痛みに対するセンサーが働かないもの。例えば、国や県レベルでは人々の痛みは伝わらない。でも市町村になるとちょっと違う目線になる。自治体でも女性の目線が加わると、違ってきます。「力の支配」に抗う、打開していくには、女性の感覚、新しい感覚が必要なのかもしれません。
(取材・文/吉田千亜)
《PROFILE》
島薗進さん ◎東京大学大学院人文社会系研究科名誉教授、上智大学神学部特任教授・グリーフケア研究所所長。専門の宗教学をベースに、生命倫理や公共哲学の分野でも積極的に発信している