空港で手元を覗き込むジャニー喜多川社長

《キャリアから言って僕は、芸能界のシーラカンスだと思っています。シーラカンスは姿を見せない。見せる必要はないんですよ》

 かつて雑誌のインタビューでこう答えていたのは、7月9日に亡くなったジャニーズ事務所社長・ジャニー喜多川さんだ。“ジャニーさん”のニックネームで、所属タレントやジャニーズファンから愛されてきた彼は、その生い立ちもベールに包まれている。

アメリカ・ロサンゼルスで日本人夫婦のもとに生まれ、日米両国の国籍を持っています。だからか、日本語の中にユーやヤングなどの英語が入ってくるんです」(芸能プロ関係者)

 彼とショービジネスとの出会いは早かったという。過去の雑誌のインタビューで、ジャニーさんはこう語っている。

《僕は最初からマネージャー志願者でね。タレントになりたいとか考えるより以前に、マネージャー業みたいなことをやってましたんで。とにかくショービジネスをしたいと。中学生くらいのころから裏方はずいぶんやりましたよ》

 ジャニーさんは子どものころから、日本からアメリカにやって来た日本の芸能人の通訳兼コーディネータ―として活躍していたという。

少女時代の美空ひばりさんを始め、たくさんの日本人タレントとのお付き合いが始まったそうです」(同・芸能プロ関係者)

 GIとして日本へやってきた彼は、英語力と豊富な滞米経験を買われて、除隊後もアメリカ大使館の情報部に勤務。休日には、近所の子どもたちを集めて、野球のコーチをしていた。チーム名は『オール・ヘターズ』『オール・エラーズ』を経て、『ジャニーズ少年野球団』となった。

ジャニーさんのチームだから、名前はジャニーズになったそうです。チームにいた真家ひろみ、飯野おさみ、中谷良、あおい輝彦の4人で、のちに初代『ジャニーズ』が結成されます」(テレビ誌ライター)

 62年、ジャニーさんがジャニーズ事務所を創業。64年には、事務所初のグループ『ジャニーズ』が誕生し、数々のヒット曲を飛ばして日本の芸能界に新風を吹き込んだ。

「ジャニーズ以降、70年代にフォーリーブス、郷ひろみといった歌って踊れるティーンエイジャーを次々と世に送り出していきます」(同・テレビ誌ライター)

 田原俊彦、近藤真彦、シブがき隊、少年隊、光GENJI、男闘呼組、忍者、SMAP、嵐……。その後もジャニーさんの“原石”を見出す眼力とプロデュース能力で、たくさんのスターを誕生させた。

売り込みの履歴書が来るとジャニーさんがひとりで目を通して、その名からピックアップした子を1対1でオーディションしていたそうです」(スポーツ紙記者)

 SMAPもTOKIOもジャニーさんひとりでオーディションしたという。冒頭で自身を“シーラカンス”と表したように、ほとんどメディアに露出しなかったため、

子どもたちが最初“誰、このオジサン?”と思っていると、ジャニーさんが“これからオーディションやります”と言うんです。そこでのリアクションで、裏表がある子なのかどうかを見極めていたそうです」(同・スポーツ紙記者)

 グループのメンバーを選ぶ手法も独特だった。

「光GENJIはジャニーさんが“ローラースケートやりたい人”と声をかけ、手を挙げたのがあの7人。V6も“バレーやらない?”で決まったそうです」(同・スポーツ紙記者)

 いつのころからか、美少年のことを誰もが“ジャニーズ顔”と言うようになった。世の中に“男性アイドル”という存在を認知させたジャニーさんの功績はあまりにも大きい。