梅雨晴れの昼下がり、東京・赤坂のスタジオからラジオ番組の始まりを告げるジングルが流れる。マイクの前に座るのは、かつてワイドショーのリポーターとして事件や芸能の現場を伝えていた東海林のり子さん(85)。第一線からは退いたものの、現在もパーソナリティー、司会、講演と“しゃべる”現場に立つ。
ずっとしゃべっていたいの
東海林さんがハリのある声で語り出す。
「うちのネコちゃんは18歳。長生きでしょう? 人間の年でいうと私と同い年。でもシワがないのよね。……以上、現場の東海林でした」
相手役の元ニッポン放送時代の後輩アナウンサー、齋藤安弘さん(78)が景気づける。
「いえいえ、のり子姉さんはシワもない! シミもない!」
「あなた、目が悪いもん」
「白内障の手術をしましたから、よく見えてるはずです」
番組タイトルは『現場の東海林です。斉藤安弘アンコーです。』。2人合わせて163歳という史上最高齢の男女ペアで、地方局5局(宮城・京都・香川・高知・大分)を結んで放送されている。シニアの自虐ネタも盛り込んだ2人の小気味いいやりとりが好評だ。
収録の合間にリラックスした表情で東海林さんが語る。
「やっぱりラジオ出身だし、ずっとしゃべっていたいのね。それもただおしゃべりするんじゃなくてオンエアできる仕事で。リスナーがいてしゃべりかけるって、本望なのよ。アンコー(齋藤さん)は最高の相手ですよ。これがもっと若かったりしたら、遠慮しちゃったり気を遣うけど」
齋藤さんも相槌を打つ。
「私も言いたいことを言わせていただけるのがありがたいんです。それが東海林先輩のお人柄なんですね。構えてお相手しなきゃいけないって方じゃないですから。でもね、びっくりしますよ! 東海林さんの口のまわりの筋肉はご年齢とは別物なんです。そこだけ20代のようですから!(笑)」
「しゃべることでボケも誤嚥も防止できるの」と東海林さんも明るく笑う。
東海林のり子だから話した
1970年、東海林さんが最初にリポーターを務めたのは、主婦のための元祖ワイドショー『3時のあなた』(フジテレビ系)だった。森光子ら女優やタレントがメイン司会を務め、個性派のリポーター陣が芸能や事件などの情報を伝えた。やがて他局でも同様の番組が始まり、各局競い合う取材合戦が始まる。
「梨元勝さんは動きが速かったですね! リポーターの中には“オンエア時間が後だから、ネタを取ってる!”なんて怒る人もいました(笑)。絶対このネタわからないだろうなと思っていても、無線で情報を拾われて、後ろから他局がついてきたなんてこともありましたね」
東海林さんはどんな現場にもすぐ駆けつけられるようにと、常に黒っぽい服を着て出かけていたという。
「大きな事件があると誰にも行かせたくないと思っていました。携帯電話がなかった時代、ポケベルで呼び出しがかかるんですが、男性リポーターにいくら連絡しても電源を切っててつながらないなんてことがありました。私はいつもキャッチできるように肌身離さず持っていましたね。
今の情報番組は視聴者の投稿から情報を得たりもしているようですが、あのころはリポーターがいち早く現場に入らなきゃという感じだったんです」
そんな中、視聴者や身近な人からも「大変な現場でよく人にマイクを突きつけられますね」という批判も浴びた。
「リポーターはズカズカどこへでも上がり込んでマイクを向けるというイメージが定着していましたね。拒否される場合はしかたないですが、説明して話してくれる人があれば、きちんと伝えようと思いました。
例えば犯人に対する憎しみなど心にあるものを事実として残すことで、人の気持ちや世論に訴えかけたり、裁判がいい方向に動いたり、影響することがあると思っていました。苦しいときだからこそ口に出して、それをも力にしてほしいと思っていました」
東海林さんが出演したフジテレビ系のワイドショーで番組ディレクターを務め、ともに事件取材をした共同テレビのプロデューサー・松本雄峰さん(58)が振り返る。
「東海林さんは取材するとき、相手の心に寄り添う気持ちというのを絶対に持っていたから、人から信頼されたし、東海林さんだからこそ聴けた言葉があったと思っています。
何も手がかりがなかった子どもの誘拐事件で、連れ去られるのを見たという市の職員に“お子さんの発見のためには目撃証言を出すしかないから”と東海林さんが粘り強く交渉し、顔や声を出さずに証言してもらったことがありました」
その後、事件が急展開し、遺体が発見され、犯人も逮捕されたという。
現在、情報番組が高視聴率で、各局の看板番組になっているが、その昔ワイドショーといわれたころは、報道やドラマといったジャンルより下に見られ、“鬼っ子”的な存在だったと松本さんは話す。
「局内でも“なんだ、アイツはワイドショーかよ”みたいな扱いがあった。でも東海林さんは1度としてワイドショーを卑下したりすることはなくて、真摯に物事を伝えることだけに邁進していたんです。そんな姿勢を誰もが認めていたから、現場へ行けば警視庁記者クラブの人たちが“東海林さん、何かわかりましたか?”なんて聞きに来たし、ドライバーや裏方のスタッフからも慕われていました」
街では女子高生からも“東海林さん、東海林さん”と声をかけられた。ワイドショーの支持層を広めた功績は大きいと話す。
「東海林さんは鬼っ子だったワイドショーにおいて、誇りを持ってリポーターという役割を確立したパイオニアだと思っています」
野際陽子さんとは大学時代からの親友
'34(昭和9)年、埼玉県浦和市で4人姉妹の末っ子として生まれる。先祖は岩槻の藩主。曽祖父の代に廃藩置県で浦和に移り住み、商家となったという。
東海林さんの幼少時、長男だった父を中心に祖父母や叔父、親戚の書生、姉妹に1人ずつついた女中らと大家族で暮らしていた。
浦和駅から中山道まで続く商店街を東海林さんは夕方になると浴衣姿で歌って踊って練り歩き、店の人たちに声をかけてもらっては喜んでいるような子どもだった。
「たぶん家の中には面倒なこともあったと思うんですが、姉たちがカバーしてくれていて、末っ子の私はそれに気づかずに大きくなったんです。
根本的にあまりくよくよせず、人を楽しませるのが好きな性格の土台はできたんですが、あのままではダメなお母さんになっていたと思います。仕事をしたことで世の中をいっぱい見ることになり、ようやく社会性を学んだんです」
浦和第一女子高等学校を卒業後、立教大学英米文学科に進学。ESSサークルに入って、英語劇に力を注いだ。1年後輩でのちに女優となる野際陽子とは“のぎ”“のっこ”と呼び合う仲だった。
だが、2年前にその親友も失った。
「病気と聞いていたので事務所に電話したんですが通じずに、そのままになってしまったのは心残りです。ただ本人が偲ぶ会とかもやらないでという方針だったと思うんで、それはそれで潔くて野際陽子らしいと思っています」
'53年、大学を卒業すると超難関といわれるアナウンサー試験を突破し、ニッポン放送に入社する。
「研修では先輩から怒られてばかりでした。辞めようかとも思ったんですが、どうせいちばんじゃないなら後ろからついていけばいいかと思ったら気が楽になったんです」
インタビュー番組でディスクジョッキーを任されるなど、次第に仕事が面白くなっていった。
「上手な女性たちがどんどん寿退社していくので、これってラッキーなのかしら? と。それならしばらく続けようと思いました」
26歳のとき、大学の3年後輩だった誠さんと結婚する。
「4年のとき入部してきた1年生で、ESSで教えていた後輩なんです。ほかに好きな人がいたんですけど結局、夫でよかったかな(笑)」
誠さんは大学卒業後の1年間にセールスマンとして稼いだ元手で株を買い、その売却益で結婚資金をつくってくれた。3年ほどして長男も授かる。東海林さんは家政婦に子どもを預けて仕事を続けた。
リポーター人生のはじまり
しかし、女性は男性のアシスタント的な存在で番組のメインを務めることはなかった。「ニュースを読ませてほしい」と上司に言うと、女はニュースを読めないとけんもほろろに突き返された。
「理由を尋ねると、女が読むと信憑性がなくなるんだよと言われたんです。これには腹を立てましたね」
入社13年目、それまでの生活にひと区切りつけたいと、ニッポン放送を退職した。
子育てに専念して1年ほどたったころ、フジテレビから「スーパーのチラシのような番組が始まるんですけど、やりませんか?」と出演オファーの連絡が入った。
'67年、日本初のテレビショッピング番組『東京ホームジョッキー』(フジテレビ系)にリポーターとして参加することになる。元ニッポン放送プロデューサーだった高崎一郎が司会を務め、平日夕方4時に主婦が買い物に行く足を止める番組と銘打って、東北から運んだ鮮魚を売ったり、駅弁大会をしたり、通販番組のはしりのようなものだったという。
「フジテレビの中でもにわかにできた部門で、廊下みたいなところに机があって、壁に“ネタを持って来ないやつはクビ”と書いてありました。とにかく何か情報を仕入れてこいと言われるんですが、当日の朝に撮ってきたビデオを無編集で放映したり、テロップを手書きで書いたり、それはそれで面白かったです」
やがてその流れを酌む通販番組『リビング4』が誕生し、東海林さんは引き続き商品の紹介などを担当した。番組の反響は大きく、ピアノを特別価格で販売したときは、電話回線がパンクしたほどだったという。
「そのころは記憶力がよくて、業者の説明どおりに商材の大きさや特徴を覚えて、そのまま話していました。物売りやってるんじゃない? なんて言われても、自分がやっていることに面白さを感じていましたね。それをひとしきりやった後、もういいかなと思って辞めたんです」
それからほどなくして東海林さんのリポーター人生の始まりとなった1本の電話がフジテレビからかかってくる。
「小さな女の子が事件に巻き込まれて亡くなる案件が発生しました。男のリポーターが辞めてしまったんですが、今すぐ行けますか?」
「私は“行けます”と即答していました。事件の取材のやり方とかわからなかったんですが、感覚的にやってみようと思ったんです。子どもたちを近所の奥さんに預けて向かいました」
規制線が張られる前に現場入り
『3時のあなた』『小川宏ショー』『おはよう!ナイスデイ』(フジテレビ系)で約13年間、3千件を超える事件を取材した。印象深い事件が数ある中で、特に'80年に起きた20歳の浪人生が両親を金属バットで殴り殺した「神奈川金属バット両親殺害事件」は鮮明な記憶が残っている。
「いちばん最初に規制線が張られる前の現場に入ったのがこの事件で、ものすごい衝撃を受けました。被害者の血液が飛んでいる窓は、水玉のカーテンがかかっているように見えました。
とてもおとなしい子だったというのに、今度受験に失敗したら3浪してしまうというギリギリの精神状態のときに起きた悲劇でした。今の時代だったら、いい学校に入らなくても彼はほかに生きる道を見つけられたかもしれない。エリート一家に生まれて、その時代は是が非でもいい大学に入らなければというのがあったと思うのでね」
'91年の「千葉・息子監禁衰弱死事件」は非行を繰り返す17歳の息子を父親が自宅に鎖でつないで監禁し、衰弱死させたという事件だった。庭によく手入れされたバラが咲くさまを見て、家の中で起きていたことと外に表れていたことのギャップに胸を衝かれた。
「想像もしなかったような現実を突きつけられて、日々生活する人は千差万別でいろんなことが起きていることを1件ずつの事件から知りました。放送したら終わりではなく、みな心に残っています」
見たものを自分の中に積み上げていくと、できるだけ人が体験したことを自分のことのように考えてあげたいと思うようになったという。
「なんの苦労もなく奥様業で終わる人もいますし、それがいいとか悪いとかいうものでもないですが、世間というものを知らないと、人への気持ちがつくれないかもしれません。いろんな人を見て、誰にでも優しくしていきたいと思うようになりました」
テレビの最前線を走るかたわら、どう家庭生活とのバランスをとっていたのか。
「子どもを育てながら大変でしたけど、家に帰ると普通の生活があったことが救いになりました。ひとりだったらずっと引きずってしまって、夜も眠れなかったかもしれません。男性の事件リポーターはいやになって辞める人も多かったんですよ。ただいまって帰って食事の支度をしたり、子どもの面倒を見ていると、気分転換になったんですね」
家族はどう見守っていたのだろう。長女の亜紀さん(47)に聞いた。
「母は毎朝、暗いうちに起きて仕事へ行き、夜中帰ることもあったので、いつも身体は大丈夫なのかな? と思っていました。風邪なんか病気じゃないわよと話してましたし、弱音は吐きませんでしたね。
中2の夏休みに家族で伊豆へ旅行に行ったとき、御巣鷹山で日航機墜落事故が起きて、まだ着いて間もないのに取材へ行ってしまったことがあります。寂しくも感じましたが、子ども心に責任ある仕事を任されているんだなと思いました」
しつけや門限が厳しかったため、“いつもいないくせに”と反発したこともあったが、今にしてみれば、さまざまな事件を見てきた母親だからこそ、本気で心配してくれていたんだとわかるそう。
「母が留守中に父と兄と3人で外食することもありましたが、やっぱり母が加わると盛り上がるんですよ。とぼけたこと言ったりして、楽しい人なので。母が多忙を極めたころは距離感を感じたこともありましたけど、今は何でも相談できる友達親子のような関係です」
事件取材を通じて痛感したこと
夫の誠さんは上場企業の営業職として働き、定年後は東海林さんと買い物やドライブを楽しむなど穏やかな日々を送っていたが、昨年の夏、持病の腎臓病で亡くなった。東海林さんが言う。
「夫は私が出張中に子どものお弁当をつくったり、娘の髪を結ったり、よく家事に協力してくれました。
それでもその仕事をどうするんだ? と言われたことがあります。辞めろということかなと思って1週間くらい考えた後に、面白くなってきたところだから辞められないと言ったら、じゃあ日本一のリポーターになれと言われました。それで頑張れたのかはわかりませんが、いつも応援してくれたことには心から感謝しています」
「女子高生コンクリート詰め殺人事件」「市川一家4人殺人事件」「大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件」など凶悪な少年犯罪も数多く取材した。時を経て、その少年たちの判決を知ったとき、いつも胸をよぎるものがある。
「その子たちは本当に悪いことをしたから当然なんだけど、やはりかわいそうだったなと思うんです。罪を犯した人間にそんなことを言うなんてと大方の人は言うかもしれませんが、いろいろ取材をしていく中で、やはり家庭や環境に問題があって、その子だけが悪かったんじゃないと思ったんですね。
ただただ、自分は母親に愛されたとか誰かに大事にされたという実感があれば、そんな事件を起こさなかったかもしれないと思うんですよ」
事件取材を通して、親子の愛情の大切さを痛感したという東海林さんは、まずは子育て中のお母さんたちが笑顔でいられるように応援したいと話す。
「講演会で幼稚園のお母さんたちにお話しする機会があるんですけど、“うちの子、お弁当食べないんです”なんてエレベーターの中まで追いかけてくる方があるんです。近所の人には話せないけど、この人に話してみようと思ったのかな。たぶん必死になって育てているのよね。だから大丈夫、お腹がすいたら食べるものだから、なんて言うんですね。
小さいお子さんを連れているお母さんに会うと、可愛いですね、何歳ですか? なんて声をかけたり、エレベーターでバギーの人を先に降ろしてあげたり。ボランティア活動はなかなかできないですけど、そういう何げないことでお母さんたちをホッとさせてあげられたらなと思っています」
芸能人の葬儀取材
たびたび芸能人の葬儀も取材した。「葬式リポーター」と表現されたこともある。
「芸能はスキャンダルとかあまりやってなかったんですけど。葬儀はある程度の年代じゃないとダメということで、私のところに来たんです」
葬儀は故人の最後の舞台になるので、できるだけその人が浮かび上がるように伝えたいと思っていた。有名な俳優でも弔問客が少なかったり、端役でも大勢の人が集まったり、数だけの話ではないが、結局、最後に人柄が表れるものだと感じたという。
「歌手のディック・ミネさんの葬儀では、腹違いの息子さんたちがパーッと6、7人並んで、すごく仲よくしてらして感動しましたね。ミネさんは遊び人みたいに言われてましたけど、お父さんを中心にまとまっていたんでしょうね。
俳優の若山富三郎さんのときは弟の勝新太郎さんが徹夜して探したという富三郎さんの傑作の三味線を流して、最後の挨拶では隠し子といわれた息子さんをいちばん上に立たせてあげたりして、いいことするなと思いました」
葬儀の取材でよく居合わせたという元芸能リポーター、藤田恵子さん(68)が東海林さんの取材姿勢について語る。
「私たちは弔問客にインタビューするためにずっと外で待つことになるんですが、東海林さんはくたびれたとか足が痛いとか一切言いませんでしたね。カメラマンにすすめられた脚立にも絶対、腰かけませんでしたよ」
自分の意に反するやり方では取材しないというこだわりもあったという。
「芸能人の自宅へ取材に行くときも、ここでお話ししてよろしいですか? と聞いてからマイクを向けていました。その基本的なところが私も一致していたから、今も仲よしなんだと思います。謙虚でやさしい人ですよ。でも芯が強いから、誰に対してもやさしくなれるんでしょうね」
'95年1月に発生した阪神・淡路大震災のときは、その日のうちに現場に入り、長田地区の避難所へ向かった。
「月明かりが照らす中、誰もしゃべっていなくて、静まりかえっていました。大きな余震を経験した後、ようやくしゃべってくれる人が現れたんです。同じ経験をしてない人間に突然聞かれても何も話したくないという気持ちがあったと思いますよ」
現地で取材を続ける中、憔悴しきった人々の様子を目の当たりにした。スタジオからは「もうちょっと困ったこととかないんですか?」「ミルクが足らない、毛布が欲しいというような絵柄が欲しい」といった要望が届いた。
「テレビなので大変で苦しんでいるという様子を何とか画面に出したいというのがあったんでしょうけど、実際には現地はへたばっていたんですよ。腹が立って、“みなさん寝てないんで、寝たいと思ってると思いますよ”と言いました。スタジオとの温度差を感じ、やはり現場メインでやってくれないとダメだと思うようになりました」
東海林のり子イエスの法則
当時、東海林さんと同じ思いを抱き始めていたという藤田さんも言う。
「スタジオにコメンテーターの方が入るようになって、次第に現場無視のコメンテーターショーになっていったんですね」
60歳のとき、東海林さんはやりきったという思いとともに取材の現場から退く決意をする。
その後、テレビ朝日系の『パワーワイド』のメイン司会に抜擢され、『ワイド!スクランブル』にはコメンテーターとして出演した。
「スタジオで伝える側になって、どう現場に思いをはせてコメントしようかといつも考えていました」
ニッポン放送を退職して以来、50年以上フリーランスとして現役を続けてきた。そのゆえんとは何か。
「東海林のり子イエスの法則というのがあって、“私、こういうのはできません”と言ったことはなかったんです。基本的に“ああ、いいですね”で受ける。せっかく声をかけてくれたのに断っちゃいけないと思っていたのね。だから細々とつながってきたのかな」
自分の中で区切りがついたときはスッパリと閉じる。また別の展開があると信じて、新しいことにも躊躇なく飛び込んでいったという。
そうした革新的ともいえる精神でX JAPANやLUNA SEA、GLAYといったビジュアル系バンドを取材し、やがて日本のロック全般に造詣を深め、メンバーやファンから「ロックの母」と慕われるようにもなった。
当時XだったX JAPANと引き合わせた立役者、フリーのディレクター、中野義則さん(58)が語る。
「ワイドショーをよく見ていたXのToshIが東海林さんのファンになって、'91年にラジオのゲストに呼んだんです。東海林さんがビジュアル系にひかれていったのは若者への好奇心からだと思いますよ。見た目は近寄りがたいけど、話してみるとすごく純粋な彼らと偏見なく話をしたから、みんなにも慕われるようになったんだと思います」
東海林さんはインディーズバンドとも交流を持ち、今もロック好きな亜紀さんといろいろなライブに行っては、活力をもらっているそうだ。
「元気の秘訣は医者に行かないこと」と公言し、まだまだやりたいことがあると顔を輝かせる。
「これからはもうちょっと興奮するようなことをやっていかないといけないなと。しゃべることは続けていきたいので、講談に挑戦して、オリジナルの事件ものとか語りたいなと思っています。
解決してない事件とか気になっていることがたくさんあるんですよ。たぶん、ほんのちょっとはまだ現場に行きたいと思っているのね。サッサと動けもしないのにね!」
何千何万の人に会い、その生きざまを見てきた東海林さんだからこそ語れる講談があるはずだ。その話に耳を傾けたい。いつも良識を胸に取材現場に立っていた“ザ・リポーター”東海林のり子さんは、人生を面白がって転がり続けるロックなハートの持ち主だった。
取材・文/森きわこ(もりきわこ)◎ライター。東京都出身。人物取材、ドキュメンタリーを中心に各種メディアで執筆。13年間の専業主婦生活の後、コンサルティング会社などで働く。社会人2人の母。好きな言葉は、「やり直しのきく人生」